具体的なケース
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旭富士正也は、1988年(昭和63年)1月場所を14勝で優勝、続く3月場所と5月場所を各12勝した。さらに1989年(平成元年)には、1月場所から5月場所までの3場所を14勝(優勝同点)・13勝(次点)・13勝(同点)の合計40勝と極めて高いレベルで安定した成績を残した。昭和時代ならば当然横綱昇進する事が可能な成績だったが、理事長は成績よりも相撲内容の点を指摘してことごとく横審への諮問を行わなかったため、昇進出来なかった。1990年(平成2年)5月場所、7月場所を連続優勝して批判を封じる形で横綱昇進を果たしたが、昇進が遅過ぎたためか横綱在位は僅か9場所(うち皆勤は6場所)、在位中の優勝は1回に留まった。 小錦八十吉は、1991年(平成3年)5月場所と7月場所を14勝(同点)・12勝(次点)、また同年11月場所から1992年(平成4年)3月場所までの3場所を13勝(優勝)・12勝・13勝(優勝)と極めて安定した成績を残したにもかかわらず、横審への諮問がなく昇進できなかった。1992年(平成4年)3月場所後の横審定例会で出席委員の半数から「(小錦の)横綱昇進の諮問を予想していた」という意見が出た。また、同定例会で「力士が外国籍であることで(横綱昇進の)障害になることはない」と確認したが、ニューヨーク・タイムズ紙、日本経済新聞に「小錦が横綱になれないのは人種差別のせいだ」といった趣旨の記事が掲載され、史上初の外国人横綱を誕生させることへの抵抗の有無が取り沙汰された。しかし小錦は以後失速、終盤まで優勝争いに絡む事が無くなった。さらに1993年(平成5年)11月場所では、大関で2場所連続負越した為に関脇の地位へ陥落が決定、横綱昇進の気運は完全に消滅した。 貴乃花光司は、1993年(平成5年)5月場所と7月場所を14勝(優勝)・13勝(同点)としたが、理事長から横審への諮問がなく昇進はならなかった。翌1994年(平成6年)は1月場所から9月場所までの5場所中3場所で優勝、うち9月場所では全勝を果たし(14・11・14・11・15勝)、9月場所後には理事長から横審への諮問が行われた。理事長の諮問がありながら横審が否定の答申をした例は、1969年11月場所直後の北の富士以降長年の間なく、新聞各紙も横綱昇進確実と報じたが、25年ぶりに昇進を見送られた。横審が否定の答申をした理由は、2場所連続優勝でないこと、特に7月場所の11勝で貴乃花の綱獲りは白紙に戻ったとしながら、次の9月場所中に出羽海理事長が横審に「内規の見直し」を要望し、明らかに貴乃花を意識した中で横審がこの見直しを受け入れるか決定する前に諮問を強行したことに対する横審の一部委員の反発などが大きな要因だった。横審委員11名の中では貴乃花の昇進に賛成する者が6名と過半数、反対が5名だったが、内規に定められた「出席委員の3分の2以上の賛成」には達しなかった。それでも貴乃花は翌11月場所も15戦全勝し大関の地位で30連勝、大関の地位「2場所連続全勝優勝」という双葉山以来(のちに第70代横綱・日馬富士公平も達成)の非の打ち所のない成績で、ようやく横綱昇進を果たした。 武蔵丸光洋は、1994年(平成6年)5月場所と7月場所を12勝(次点)、15勝(全勝優勝)という成績だったが、7月場所後の横審には諮問がなかった。3場所前(新大関)の同年3月場所が9勝と1桁勝ち星だった事や、5月場所が大関昇進後初の2桁勝利であった。しかも優勝次点とはいえ優勝の貴乃花には2点の差が有り、7月場所に武蔵丸の綱獲りのムードはそもそもなかった。翌9月場所に初の綱獲りに挑むも11勝に終わり、この場所を全勝優勝した貴乃花と直前2場所の星取りが全く逆となったが、貴乃花と異なり横綱昇進の話は出なかった。 若乃花勝は、1996年(平成8年)11月場所と1997年(平成9年)1月場所を11勝(同点)、14勝(優勝)と2場所連続優勝もしくはそれに準ずる成績を残しながらも、理事長から横審への諮問がなかった。優勝を逃しての11勝は優秀な成績とはいえないとの見方もあり、この頃には「綱獲りは原則的に優勝する事が起点」という相撲協会の態度が定まっていた。翌3月場所は横綱昇進を賭けて挑んだが、初日から3連勝しながらも3日目に右足を大けが、4日目から途中休場した。 魁皇博之は、2004年(平成16年)9月場所と11月場所を13勝(優勝)、12勝(次点)の成績を残しながらも理事長から横審への諮問がなかった。11月場所は初日黒星後に朝青龍と並ぶことが無く、14日目で優勝を許したのが大きかった。千秋楽に朝青龍を下し12勝、翌2005年(平成17年)1月場所も綱獲りの可能性を繋いだが、左肩腱板炎で途中休場と失敗に終わる。それ以降も魁皇は2011年(平成23年)7月場所迄、大関在位65場所と長期間務めたが、終盤戦迄優勝争いに加わる事は殆ど無く、横綱昇進への機会は巡らなかった。 白鵬翔は、2006年(平成18年)5月場所と7月場所を14勝(優勝)、13勝(次点)の成績を残しながらも、朝青龍に独走を許したのがマイナス要因となり理事長から横審への諮問がなかった。新大関から2場所での横綱昇進は年6場所制で初めてとなるため、特に高いレベルでの連覇が求められたためもある。関脇時代の1月場所からの4場所連続13勝以上は、考慮されなかった。翌9月場所は再び昇進のチャンスだったが8勝7敗の成績不振で綱取りは振り出しになった。2007年(平成19年)3月場所は13勝(優勝)したが、優勝決定戦の内容が立合いの変化であったため印象が悪く翌5月場所は十分な内容が求められた。その5月場所で自身初の全勝優勝という文句なしの成績を残し、横綱昇進を果たした。 逆のパターンとして、第63代・旭富士正也は1990年(平成2年)3月場所にギリギリ勝ち越しの8勝の後、同年5月と7月場所を各14勝の連続優勝で昇進。第64代・曙太郎は、1992年(平成4年)7月場所の新大関場所で全休し翌9月場所に9勝と一桁勝利の後、同年11月と翌1993年(平成5年)1月場所を14勝と13勝の連続優勝で昇進。第66代・若乃花勝は、直前場所の1998年(平成10年)5月場所は12勝の低レベル優勝ながらも、同年3月と5月場所を14勝と12勝の連続優勝で昇進。第67代・武蔵丸光洋は1999年(平成11年)1月場所が千秋楽で辛うじて勝ち越しの8勝の後に、同年3月と5月場所を各13勝の連続優勝で昇進。第70代・日馬富士公平も、2012年(平成24年)5月場所が千秋楽で勝ち越した8勝7敗の後、同年7月と9月場所を各15戦全勝で連続優勝により昇進などの例がある。特に若乃花勝の場合、相撲協会内には「もう1場所様子をみるべき」という意見が有った程である。それでも「若乃花は2場所連続優勝しており、内規をクリアーしている。」という理由により、貴乃花光司の2場所連続全勝優勝という完璧な成績での横綱審議で10分掛かったにも拘わらず、横審では僅か7分で若乃花の横綱昇進を全会一致で決めた。しかし横綱昇進後の若乃花は優勝を1度も果たせず、さらに横綱皆勤負け越しなどの不名誉な記録を残したまま、横綱在位は11場所(内皆勤は5場所)で早々引退してしまった。その後、理事長職を務めた北の湖(第55代・一代年寄)が在任中に「優勝の成績は13勝以上」とよく注文を付けていた事も、結果的に若乃花の甘かった横綱昇進の例と関係が有るのではないか?との声がある。 鶴竜力三郎は2013年11月場所は9勝6敗に終わったが、2014年1月場所は白鵬と千秋楽まで優勝を争った。優勝決定戦で白鵬に敗れたものの、14勝1敗の優勝同点の成績で2014年3月場所に綱獲りを懸けることとなった(但し鶴竜は当時幕内優勝経験が無く、大関11場所中7場所が9勝以下だったため角界内部の一部に慎重論も出ていたが、北の湖理事長と及び内山斉横審委員長は二人共に「綱獲りの場所だが13勝以上の優勝が必要」と公言している)。結果鶴竜は同3月場所を14勝1敗の幕内初優勝を果たし、場所後に第71代横綱に推挙。これで第62代・大乃国以来27年ぶりに大関連覇無しでの横綱昇進となった。 稀勢の里寛は2016年11月場所で12勝3敗で、14勝1敗で優勝した鶴竜力三郎に星の差2つで優勝を逃し、2017年1月場所に14勝1敗で初優勝するまで優勝が1回も無かったが、前年に史上初の優勝無しでの年間最多勝を獲得し、直前六場所の勝率(8割2分)が平成の大横綱である朝青龍や白鵬が横綱昇進を果たした直前六場所の勝率を上回るなど成績が安定しており、それが「準ずる成績」に値するとされ同場所後に横綱昇進を果たした。 貴景勝光信は、2020年(令和2年)9月場所を12勝3敗とこの場所優勝した正代の13勝2敗に次ぐ成績だった。翌11月場所は13勝2敗で当時小結だった照ノ富士との決定戦を制し優勝し、内規の2場所連続優勝もしくはそれに準ずる成績を挙げたにも関わらず昇進の話は全く出てこず翌場所が綱取り場所となった。その綱取り場所でも、2020年に入り当時横綱だった白鵬と鶴竜が2人揃って連続で休場していたこともあり、レベルの高い優勝の場合のみによる『大関で二場所連続優勝』が昇進条件で、場合によっては連続優勝での見送りもありうると、即昇進には否定的な見解だった。結局貴景勝は綱取り場所だった2021年(令和3年)1月場所の10日目から怪我による途中休場をしたため綱取りから一転翌場所は角番となった。また2021年5月場所では照ノ富士と大関同士による決定戦まで進出し翌場所再び綱取り場所となるが、伊勢ヶ濱審判部長は綱取りについて「レベルが高い優勝。全勝優勝くらい」が求められると、後述の準ずる成績でも昇進と述べた自身の弟子である照ノ富士とは全く異なる見解を示した。ただし場所前には具体的な数字の言及はなかったが、場所中に準ずる成績が13勝であることが明らかになったため、上述の貴景勝の事例との不整合が指摘された。これには照ノ富士に対する師匠の贔屓ではないかと批判が相次いだが、結果的に照ノ富士は新横綱場所から2連覇を果たしているため昇進が妥当だと証明した格好となった。 照ノ富士春雄は2021年(令和3年)3月場所で関脇で優勝(12勝3敗)、5月場所を大関で優勝(12勝3敗)と連覇をしたこと、再入幕してから1年を通して2桁勝利が5回、優勝3回と安定した成績を残しているため、2021年7月場所では上記貴景勝とは正反対に優勝に準ずる成績でも横綱昇進を審判長であり照ノ富士の師匠でもある伊勢ヶ濱が公言。その7月場所では14日目まで全勝し千秋楽に全勝相星決戦で白鵬に敗れ優勝は逃したものの優勝に準ずる成績での昇進条件の成績を残したため場所後に横綱昇進を果たした。内規の直前2場所だけを見てみると近年昇進した横綱の中では12勝3敗の優勝、翌場所14勝1敗の準優勝と非常にレベルの低い内容だったが、白鵬の1人横綱かつ5月場所までの5場所連続休場(途中休場1場所含む)状態が考慮されたとみられる。また7月場所では最終的に白鵬が優勝したものの、取組内容を問題視する意見が挙がっており、そのことも新横綱誕生の機運が高まる一因となった。 このように、かつて「『大関で二場所連続優勝』が絶対条件」という基準だけに固執する弊害を指摘する声も少なくなく、そもそも番付編成上は優勝と全く公平に扱われている優勝同点の価値が、横綱昇進時に低く扱われることが問題視されていた(なお第56代・二代若乃花や第57代・三重ノ海など直前3場所中一度も優勝を果たせなかったが、優勝次点・優勝同点の好成績を評価され昇進した例もある)。大関昇進は直前3場所の成績(合計33勝以上が目安)で決まるが、それより高い成績を求める横綱昇進が直前2場所のみで決まるのは問題有りとして、横綱昇進の内規についても「直前3場所の成績で決めるよう改めるべき」との声も少なくない。しかしこれには、横綱になるには先ず大関にならなければならない以上「『大関で連続優勝』の条文はその条件を既に内包している」となっており、貴景勝が2020年の11月場所で優勝した際に必ずしも翌場所優勝で横綱昇進とならないと審判部で言っている。 また、勝ち星が内規にないことも問題とする意見もある。今後は、横綱昇進内規を直前3場所の成績に改めるだけでなく、勝ち星についても具体的に付け加えるべきとの声もある。 1958年(昭和33年)に年6場所制が施行されてから、負け越した(全休含む)場所後の2場所で横綱に昇進した例は皆無である。前述で横綱昇進の際に3場所の成績で見るべきということについて、特に3場所前が負け越し(全休含む)の場合は、2場所合計29勝以上の超ハイレベルな連続優勝が求められるべきとの声が多い。事実、2008年(平成20年)5月場所に角番で14勝1敗の優勝だった琴欧洲勝紀の綱獲り条件が全勝優勝のみだった。横綱なら長期安定こそ望ましいということで、やはり負け越しの後では成績が不安定だから昇進のハードルを高くすべきだと思われよう。 一方で本来、横綱とは数字に表れる強さに加えて力士としての品格・態度が評価されて(「品格」は内規にも明示されている)免許されていたものであり、勝率などで一律に昇進基準を定めてしまっては、その本質を損なうとの反論もある。柏鵬時代を築いた第47代横綱・柏戸剛などは、横綱昇進前3場所で優勝が1回もない33勝12敗の成績で、大関推挙の目安としてもギリギリとされるラインの勝ち星に留まっていたにも係わらずに横綱昇進を果たした。
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