中央本線乗り入れ・山手線環状運転開始・東海道本線電化とは? わかりやすく解説

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中央本線乗り入れ・山手線環状運転開始・東海道本線電化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:03 UTC 版)

東京駅の歴史」の記事における「中央本線乗り入れ・山手線環状運転開始・東海道本線電化」の解説

東京から西へ延び鉄道営業していた甲武鉄道もまた鉄道国有化の際に買収され国鉄中央本線となっていた。甲武鉄道はもともと都心への乗り入れ希望しており、飯田町駅からさらに東へ御茶ノ水駅、そして万世橋駅へと順次延長工事進めていた。延長工事中買収され国鉄工事引き継いだ当初から計画されていた東京 - 上野間高架線加えて中央線連絡する東京 - 万世橋間の工事が必要となったが、城西方面発展著しいことからこちらを優先することになったこの際東京神田の間では上野への線路基礎工事同時に施工している。東京 - 万世橋間は1915年大正4年11月着工された。東京駅より南側高架橋煉瓦アーチ橋建設されたのに対して、この区間当時最新鉄筋コンクリートアーチ橋とされたが、外観揃えるため表面にのみ煉瓦貼り付けて煉瓦アーチ風に仕上げられている。1919年大正8年3月1日中央線東京駅乗り入れ開業し東京駅中央本線起点ともなった。ただし東京駅乗り入れてきた中央線近距離電車のみで、長距離列車飯田町駅発着のままであった中央線山手線直通し、上野 - 田端 - 池袋 - 新宿 - 品川 - 東京 - 御茶ノ水 - 新宿 - 中野という、ひらがなの「の」の字を描くような運転が行われ、「の」の字運転と呼ばれた20世紀前半には、日本国首班対すテロリズム舞台にも2度なっている。 1921年大正10年11月4日政友会京都支部大会出席するために当時首相原敬乗車口向かっていたところ、大塚駅員の男に襲撃され暗殺された(原敬暗殺事件)。暗殺現場丸の内南口ホール内)の壁に概要記したプレートが、床にマーク打ち込まれている。 1930年昭和5年11月14日当時首相濱口雄幸岡山県における陸軍特別大演習陪観のために9時発の「燕」に乗車するため第4プラットホーム歩いていたところをピストル狙撃された。濱口はこの時の傷が元になり、翌1931年昭和6年8月26日亡くなった。この現場にも印が打ちつけられた。その後改築工事により階段踊り場となった。現在は、直下にあたる中央通路新幹線中央乗換付近概要記したプレートが、床にマーク打ち込まれている。 1923年大正12年9月1日関東大震災見舞われた。丸の内駅舎にはまった被害無かったが、ホームの上屋などが一部倒壊した。また火災延焼してきて、東京駅付近に夜間北東側から火災迫ってきた。ちょうどその頃鉄道省の仮庁舎が駅の北東側にあり、これは焼失してしまった。火炎が迫る中で駅員必死消火延焼防止活動行い、どうにか東京駅への延焼食い止めることができた。およそ7000人の避難者駅舎ホーム停車中の列車内などに避難している。9月4日山手線皮切りに順次運転を再開したが、当面救援のための無賃輸送扱いがとられ、通常の有償営業戻ったのは9月21日東海道本線全線再開10月28日になった東京駅とともに丸の内ビジネス街延焼免れたため、震災後急激に発展していくことになった。また行道路東京駅開業時堀端まで完成していたが、震災復興事業に際して外苑内までの延長が行われ、街路樹街灯なども統一して整備されて、いよいよ「帝都玄関」「天皇の駅」としての性格強調されることになった。 ルムシュッテルの提案以来山手線環状運転させる構想そのままになっていたが、ようやく1920年大正9年)に残る東京 - 上野間着工された。これにより1925年大正14年11月1日東京 - 上野間開通して山手線環状運転開始され東京駅東北本線の起点となった。また京浜線電車上野まで延長運転されたが、東北本線乗り入れても京浜線の名前のままであった次第東北本線方面延長されるにつれて京浜・東北線東北京浜線などの愛称見られるようになり、1949年昭和24年10月1日電車への「京浜・東北」の線名表示でほぼ京浜東北線の名が定着することになった。この東京 - 上野間電車運転開始による利便性の向上は著しく郊外都心の間での輸送量激増し結果的に混雑緩和のために八重洲口開設契機となったこうした混雑対応の一環として環状運転開始する少し前の1925年大正14年9月15日に第1・2プラットホーム延長して降車通路降りられる階段造られ、代わって電車口は閉鎖となった。また中央線が第1プラットホーム折り返し運転をすることになった関係で、丸の内駅舎側の南側鉄筋コンクリートアーチ橋50 mほど既設線に腹付増設し中央線引き上げ線建設した東京駅より北側用意されていた4線分高架橋もこの時点電車用に使用され埋まったため、東海道本線列車用の引き上げ線敷設するアーチ橋196 mを建設している。中央線山手線直通する「の」の字運転は、東京駅構内配線変更などに伴って山手線環状運転開始する前の4月25日限り中止となった。この環状運転開始で、中央線1・2番線(第1プラットホーム)を使用するようになり、3・4番線(第2プラットホーム)を山手線京浜線5・6番線第3プラットホーム)を横須賀線発着東海道本線到着7・8番線(第4プラットホーム)を東海道本線出発という使い分けになった。 この時点東京 - 上野間開通したのは電車用の複線のみで、引き続き工事続けられ列車用の複線1928年昭和3年4月1日開通した。これによりルムシュッテルが考えたように、東海道本線列車尾久車両基地に、東北本線列車品川車両基地収容させ、この間品川新橋東京上野の4駅に双方列車運行することで利便性を向上させようとする計画実現可能な線路できあがったが、しかしこの相互乗り入れに関して反対があった。東北本線はほとんどが単線であり、冬期積雪による遅れも多かったため、複線化自動信号化が進んで運行弾力性東北本線比べ物にならない東海道本線直通させて、東北側の遅延東海道側に波及することを恐れたためであった結果的にこの列車用の複線は、回送引き上げ目的のみに使われることになり、ルムシュッテルの構想実現しなかった。第二次世界大戦前にこの線路走った営業列車は、上野成田を結ぶ列車品川までの臨時延長運転程度であったとされる八重洲口については、木造長い跨線橋造って乗車通路と結ぶことで1929年昭和4年12月16日開設されたが、当初八重洲側では近距離電車区間のみ乗車券発売していた。この跨線橋は、八重洲にあった車両基地線路群を横断するもので、木造仮設としたのは当時すでにこの車両基地郊外移転させてホーム増設する構想があったためであった八重洲側には当時まだ外堀残っており、関東大震災復興事業合わせてこれを渡る八重洲橋建設して1929年昭和4年6月完成し、この接続して八重洲口開設された。跨線橋その後第5ホーム増設工事伴って降車通路への接続変更されたが、当初予想より長く使われ続け1952年昭和27年9月1日新通路に切り替えられるまで使用された。 東京駅では開業以来山手線京浜線中央線電車による運転であったが、東海道本線・横須賀線蒸気機関車による運転であった。しかし世界的な電化流れもあり、1925年大正14年12月13日東海道本線東京 - 国府津間、横須賀線大船 - 横須賀間の電化工事完成した同日よりまず横須賀線から電気機関車による試運転開始された。この時点では蒸気機関車重連運転とする「電蒸運転であったが、翌1926年大正15年4月21日から電気機関車のみの重連運転8月2日から通常の単独運転となった。さらに8月25日東海道本線でも国府津までの試運転が行われ、1927年昭和2年5月11日から湘南方面列車すべてが電気機関車転に、さらに7月1日東京 - 国府津間の急行列車電気機関車転に切り替えられ、これにより東京駅には、入換機関車除いて蒸気機関車発着無くなった。さらに横須賀線についていえば、1930年昭和5年3月15日から電車による運転に切り替えられている。 1923年大正12年7月1日から東京 - 下関間に三等車連結した特別急行列車第3・4列車の運転が開始され特急が2往復となった。しかし当時特急であっても愛称付けられていなかった。昭和初期不況対策として、国民に対して鉄道親しんでもらうことを狙い愛称一般から公募して一・二特急を「富士」、三等特急「桜」とし、1929年昭和4年9月15日より運転を開始した。さらに1930年昭和5年10月1日からは東京 - 神戸間に特急「燕」の運転を開始した。これは従来特急比べて2時間30分の時間短縮であった東京 - 国府津間は既に電化されていたものの、機関車交換時間節約するため、東京駅からC51形蒸気機関車牽引した1934年昭和9年12月1日丹那トンネル開通して沼津までが電化区間となり、これにより「燕」も沼津まで電気機関車牽引されるようになった東京ステーションホテルこれまで精養軒営業委託受けてきたが、1920年大正9年)の台風上野精養軒倒壊し、さらに関東大震災築地精養軒焼失するなど災害が相次ぎ、その経営悪化してきた。これに伴いステーションホテルサービス低下指摘されるようになり、そのうち従業員との争議まで起きるようになってきた。こうしたことから鉄道省精養軒への営業委託打ち切ることを決め1933年昭和8年10月限り契約解除となった鉄道省ホテル直営とする方針固め什器調度類を買い上げ従業員引き受けた上で新たな支配人配置して同年12月27日東京鉄道ホテルとして再出発した新し支配人従業員教育うまくいき、サービス改善され稼働率急上昇し大きな利益上げることができるようになった1934年昭和9年10月13日東京駅出札口収入金が差し押さえを受けるという珍事件が発生した神田付近での高架線用地買収巡って地主裁判になり、鉄道省側が8955円50銭の支払い命令受けていたが、その支払い延期手続きなされていたのに気付かず執行官執行命令書を持って東京駅訪れて収入金の差し押さえ始めたものであった途中で支払い延期手続きなされていたことが判明して収入金は結局返却され裁判所側は非常識強引な執行以降取り締まる遺憾の意表明して落着した

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