中央本線乗り入れ・山手線環状運転開始・東海道本線電化
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「東京駅の歴史」の記事における「中央本線乗り入れ・山手線環状運転開始・東海道本線電化」の解説
東京から西へ延びる鉄道を営業していた甲武鉄道もまた鉄道国有化の際に買収され、国鉄の中央本線となっていた。甲武鉄道はもともと都心への乗り入れを希望しており、飯田町駅からさらに東へ、御茶ノ水駅、そして万世橋駅へと順次延長工事を進めていた。延長工事中に買収され、国鉄が工事を引き継いだ。当初から計画されていた東京 - 上野間の高架線に加えて、中央線に連絡する東京 - 万世橋間の工事が必要となったが、城西方面の発展が著しいことからこちらを優先することになった。この際に東京と神田の間では上野への線路の基礎工事を同時に施工している。東京 - 万世橋間は1915年(大正4年)11月に着工された。東京駅より南側の高架橋は煉瓦アーチ橋で建設されたのに対して、この区間は当時最新の鉄筋コンクリートアーチ橋とされたが、外観を揃えるため表面にのみ煉瓦を貼り付けて煉瓦アーチ風に仕上げられている。1919年(大正8年)3月1日に中央線の東京駅乗り入れが開業し、東京駅は中央本線の起点ともなった。ただし東京駅へ乗り入れてきた中央線は近距離電車のみで、長距離列車は飯田町駅発着のままであった。中央線は山手線と直通し、上野 - 田端 - 池袋 - 新宿 - 品川 - 東京 - 御茶ノ水 - 新宿 - 中野という、ひらがなの「の」の字を描くような運転が行われ、「の」の字運転と呼ばれた。 20世紀前半には、日本国の首班に対するテロリズムの舞台にも2度なっている。 1921年(大正10年)11月4日、政友会京都支部大会に出席するために当時の首相原敬が乗車口へ向かっていたところ、大塚駅員の男に襲撃され暗殺された(原敬暗殺事件)。暗殺現場(丸の内南口ホール内)の壁に概要を記したプレートが、床にマークが打ち込まれている。 1930年(昭和5年)11月14日、当時の首相濱口雄幸は岡山県における陸軍特別大演習陪観のために9時発の「燕」に乗車するため第4プラットホームを歩いていたところをピストルで狙撃された。濱口はこの時の傷が元になり、翌1931年(昭和6年)8月26日に亡くなった。この現場にも印が打ちつけられた。その後の改築工事により階段の踊り場となった。現在は、直下にあたる中央通路の新幹線中央乗換口付近の柱に概要を記したプレートが、床にマークが打ち込まれている。 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災に見舞われた。丸の内駅舎にはまったく被害が無かったが、ホームの上屋などが一部倒壊した。また火災が延焼してきて、東京駅付近には夜間に北東側から火災が迫ってきた。ちょうどその頃鉄道省の仮庁舎が駅の北東側にあり、これは焼失してしまった。火炎が迫る中で駅員は必死の消火・延焼防止活動を行い、どうにか東京駅への延焼は食い止めることができた。およそ7000人の避難者が駅舎やホーム、停車中の列車内などに避難している。9月4日の山手線を皮切りに順次運転を再開したが、当面救援のための無賃輸送の扱いがとられ、通常の有償営業に戻ったのは9月21日、東海道本線の全線再開は10月28日になった。東京駅とともに丸の内ビジネス街も延焼を免れたため、震災後急激に発展していくことになった。また行幸道路は東京駅開業時に堀端まで完成していたが、震災復興事業に際して外苑内までの延長が行われ、街路樹や街灯なども統一して整備されて、いよいよ「帝都の玄関」「天皇の駅」としての性格が強調されることになった。 ルムシュッテルの提案以来、山手線を環状運転させる構想はそのままになっていたが、ようやく1920年(大正9年)に残る東京 - 上野間が着工された。これにより1925年(大正14年)11月1日に東京 - 上野間が開通して山手線の環状運転が開始され、東京駅が東北本線の起点となった。また京浜線電車も上野まで延長運転されたが、東北本線に乗り入れても京浜線の名前のままであった。次第に東北本線方面へ延長されるにつれて、京浜・東北線や東北・京浜線などの愛称が見られるようになり、1949年(昭和24年)10月1日の電車への「京浜・東北」の線名札表示でほぼ京浜東北線の名が定着することになった。この東京 - 上野間の電車運転開始による利便性の向上は著しく、郊外と都心の間での輸送量は激増し、結果的に混雑緩和のために八重洲口の開設の契機となった。こうした混雑対応の一環として、環状運転を開始する少し前の1925年(大正14年)9月15日に第1・2プラットホームを延長して降車通路へ降りられる階段が造られ、代わって電車口は閉鎖となった。また中央線が第1プラットホームで折り返し運転をすることになった関係で、丸の内駅舎側の南側に鉄筋コンクリートアーチ橋を50 mほど既設線に腹付で増設して中央線の引き上げ線を建設した。東京駅より北側に用意されていた4線分の高架橋もこの時点で電車用に使用されて埋まったため、東海道本線列車用の引き上げ線を敷設するアーチ橋約196 mを建設している。中央線と山手線を直通する「の」の字運転は、東京駅構内の配線変更などに伴って山手線環状運転を開始する前の4月25日限りで中止となった。この環状運転開始で、中央線は1・2番線(第1プラットホーム)を使用するようになり、3・4番線(第2プラットホーム)を山手線・京浜線、5・6番線(第3プラットホーム)を横須賀線発着と東海道本線到着、7・8番線(第4プラットホーム)を東海道本線出発という使い分けになった。 この時点で東京 - 上野間に開通したのは電車用の複線のみで、引き続き工事が続けられて列車用の複線が1928年(昭和3年)4月1日に開通した。これによりルムシュッテルが考えたように、東海道本線の列車を尾久の車両基地に、東北本線の列車を品川の車両基地に収容させ、この間の品川、新橋、東京、上野の4駅に双方の列車を運行することで利便性を向上させようとする計画を実現可能な線路ができあがったが、しかしこの相互乗り入れに関しては反対があった。東北本線はほとんどが単線であり、冬期に積雪による遅れも多かったため、複線化・自動信号化が進んで運行の弾力性が東北本線と比べ物にならない東海道本線と直通させて、東北側の遅延が東海道側に波及することを恐れたためであった。結果的にこの列車用の複線は、回送と引き上げ目的のみに使われることになり、ルムシュッテルの構想は実現しなかった。第二次世界大戦前にこの線路を走った営業列車は、上野と成田を結ぶ列車の品川までの臨時延長運転程度であったとされる。 八重洲口については、木造の長い跨線橋を造って乗車通路と結ぶことで1929年(昭和4年)12月16日に開設されたが、当初は八重洲側では近距離の電車区間のみ乗車券を発売していた。この跨線橋は、八重洲側にあった車両基地の線路群を横断するもので、木造の仮設としたのは当時すでにこの車両基地を郊外へ移転させてホームを増設する構想があったためであった。八重洲側には当時まだ外堀が残っており、関東大震災の復興事業に合わせてこれを渡る八重洲橋を建設して1929年(昭和4年)6月に完成し、この橋に接続して八重洲口が開設された。跨線橋はその後第5ホームの増設工事に伴って降車通路への接続に変更されたが、当初の予想より長く使われ続け、1952年(昭和27年)9月1日に新通路に切り替えられるまで使用された。 東京駅では開業以来、山手線・京浜線・中央線は電車による運転であったが、東海道本線・横須賀線は蒸気機関車による運転であった。しかし世界的な電化の流れもあり、1925年(大正14年)12月13日に東海道本線東京 - 国府津間、横須賀線大船 - 横須賀間の電化工事が完成した。同日よりまず横須賀線から電気機関車による試運転が開始された。この時点では蒸気機関車と重連運転とする「電蒸運転」であったが、翌1926年(大正15年)4月21日から電気機関車のみの重連運転、8月2日から通常の単独運転となった。さらに8月25日に東海道本線でも国府津までの試運転が行われ、1927年(昭和2年)5月11日から湘南方面の列車すべてが電気機関車運転に、さらに7月1日に東京 - 国府津間の急行列車も電気機関車運転に切り替えられ、これにより東京駅には、入換機関車を除いて蒸気機関車の発着が無くなった。さらに横須賀線についていえば、1930年(昭和5年)3月15日から電車による運転に切り替えられている。 1923年(大正12年)7月1日から東京 - 下関間に三等車を連結した特別急行列車第3・4列車の運転が開始され、特急が2往復となった。しかし当時は特急であっても愛称は付けられていなかった。昭和初期の不況対策として、国民に対して鉄道に親しんでもらうことを狙い、愛称を一般から公募して一・二等特急を「富士」、三等特急を「桜」とし、1929年(昭和4年)9月15日より運転を開始した。さらに1930年(昭和5年)10月1日からは東京 - 神戸間に特急「燕」の運転を開始した。これは従来の特急に比べて2時間30分の時間短縮であった。東京 - 国府津間は既に電化されていたものの、機関車交換の時間を節約するため、東京駅からC51形蒸気機関車が牽引した。1934年(昭和9年)12月1日に丹那トンネルが開通して沼津までが電化区間となり、これにより「燕」も沼津まで電気機関車で牽引されるようになった。 東京ステーションホテルはこれまで精養軒が営業委託を受けてきたが、1920年(大正9年)の台風で上野精養軒が倒壊し、さらに関東大震災で築地の精養軒も焼失するなど災害が相次ぎ、その経営が悪化してきた。これに伴いステーションホテルもサービス低下が指摘されるようになり、そのうち従業員との争議まで起きるようになってきた。こうしたことから鉄道省は精養軒への営業委託を打ち切ることを決め、1933年(昭和8年)10月末限りで契約解除となった。鉄道省はホテルを直営とする方針を固め、什器や調度類を買い上げ、従業員も引き受けた上で、新たな支配人を配置して同年12月27日、東京鉄道ホテルとして再出発した。新しい支配人の従業員教育はうまくいき、サービスが改善されて稼働率が急上昇し、大きな利益を上げることができるようになった。 1934年(昭和9年)10月13日、東京駅出札口の収入金が差し押さえを受けるという珍事件が発生した。神田付近での高架線用地の買収を巡って地主と裁判になり、鉄道省側が8955円50銭の支払い命令を受けていたが、その支払いの延期手続きがなされていたのに気付かずに執行官が執行命令書を持って東京駅を訪れて収入金の差し押さえを始めたものであった。途中で支払い延期手続きがなされていたことが判明して収入金は結局返却され、裁判所側は非常識で強引な執行を以降は取り締まると遺憾の意を表明して落着した。
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