しまばら‐の‐らん【島原の乱】
読み方:しまばらのらん
しまばらのらん 【島原の乱】
島原の乱
島原の乱
島原の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/12 21:47 UTC 版)
島原の乱(しまばらのらん)は、1637年(寛永14年)10月25日(1637年12月11日)から1638年(寛永15年)2月28日(1638年4月12日)まで、島原・天草地域で引き起こされた、百姓やキリスト教徒を主体とする江戸幕府への大規模な武力闘争事件である[4]。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)[4]、島原・天草の乱(しまばら・あまくさのらん)[4]、とも呼ばれる。
注釈
- ^ 山田右衛門作を除く。1万人以上が落城前に幕府軍に投降していたという説もある。
- ^ 副使の石谷は旗本であり、大名ですらない。
- ^ 将軍徳川家光の異母弟で幕府の大政参与だった保科正之の派遣も検討された。
- ^ 1637年9月、幕府の榊原職直と馬場利重は当時オランダ商館のフランソワ・カロンに対してマカオ、マニラ、基隆侵略の支援をするよう高圧的にせまっている。カロンはマニラを襲撃する気も、日本の侵略軍を運ぶ意志はなく、オランダはいまや兵士よりも商人であると答えた。これに対して長崎代官であった末次茂貞はオランダ人の忠誠心は、大名が将軍に誓った忠誠心に等しいと念を押している。この点は、この文書がオランダの上層部で議論されるようになったときにも失われることはなかった。将軍に仕えるという評判を捨てて、貿易に影響を与えるか、それとも海外遠征に人員と資源を投入して、会社の全艦隊が破壊されるかもしれないという大きな危険のどちらかを選ばなければならなかったのである。彼らは危険を選び、日本の侵略軍をオランダ船6隻でフィリピンに運ぶことに同意した[40]。
- ^ 幕府の軍事支援要請にオランダ人が応じたことで、オランダは他のヨーロッパ諸国から強く非難されたという[41]。
- ^ 元の副使・石谷貞清も、板倉重昌の嫡子重矩と共に突入している。
出典
- ^ 岡田 1987, p. 309.
- ^ 岡田 1987, p. 3.
- ^ 服部 2008, p. 134.
- ^ a b c 吉村 2015, p. 11.
- ^ オランダ商館長日記 p116-118、1637年12月17日。[信頼性要検証]
- ^ Iwao, “Matsukura Shigemasa,” p. 98. The Nagasaki bugyō were the chief representatives of the Tokugawa regime in the city. Following Hideyoshi’s confiscation of Nagasaki from the Jesuits in 1587, the place was not given to a daimyō (the normal procedure elsewhere in Japan) but retained as “crown property” under the bugyō, a word best translated as “commissioners.” For most of the period under discussion there were two bugyō in office at the same time. As part of their duties involved the supervision of international trade, it was only appropriate that Takenaka was involved in the espionage.
- ^ Stephen Turnbull 2016, p. 7.
- ^ “Events in Filipinas, 1630–32,” 2 July 1632, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 24, pp. 229–30.
- ^ Stephen Turnbull 2016, p. 8.
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- ^ Iwao, “Matsukura Shigemasa,” p. 101.
- ^ Stephen Turnbull 2016, p. 8-9
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- ^ The perceived status of the Dutch as the shogun’s “loyal vassals” is brilliantly analysed in Adam Clulow, The Company and the Shogun: The Dutch Encounter with Tokugawa Japan (New York: Columbia Univ. Press, 2014).
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- ^ 神田 2005, pp. 167–169.
- ^ オランダ商館長日記 p146、1638年1月10日。[信頼性要検証]
- ^ オランダ商館長日記 p159-173、1638年2月26日-3月13日。[信頼性要検証]
- ^ 「綿考輯録」第五巻、409頁。服部 2003, p. 194
- ^ 服部 2003, pp. 195–196.
- ^ Stephen Turnbull 2016, p. 9-10.
- ^ Gulliver’s Travels, Japan and Engelbert Kaempfer, Bodart-Bailey Beatrice M, Otsuma journal of comparative culture, Vol. 22, pp. 75-100, "Even though the Dutch argued that they assisted the Japanese in political rather than religious strife, the event was much condemned by other European nations. "
- ^ 神田 2005, pp. 184–187.
- ^ 神田 2005, p. 197.
- ^ 神田 2010, p. 199.
- ^ 武田昌憲「寛永十四・十五年(島原の乱)当時の藩と島原の乱出兵状況(稿):島原の乱の使者の戦い(3)」『尚絅学園研究紀要 A.人文・社会科学編』第6巻、学校法人 尚絅学園 尚絅学園研究紀要編集委員会、2012年、A1-A24、doi:10.24577/sgba.6.0_A1、ISSN 1881-6290、NAID 110009585807、2022年2月22日閲覧。
- ^ 武田昌憲「島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合 (尚絅学園創立百二十五周年記念号)」(PDF)『尚絅語文』第2号、尚絅大学、2013年、1-7頁、ISSN 2187-5952、NAID 110009591148、2022年2月22日閲覧。
- ^ 吉村 2015, p. 220.
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- ^ Morton, p. 122.
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- ^ George Elison, Deus Destroyed, The Image of Christianity in Early Modern Japan, Harvard University Press, 1973, p. 208.
- ^ José Miguel Pinto dos Santos, THE “KURODA PLOT” AND THE LEGACY OF JESUIT SCIENTIFIC INFLUENCE IN SEVENTEENTH CENTURY JAPAN, Bulletin of Portuguese /Japanese Studies, 2005 june-december, número 10-11 Universidade Nova de Lisboa Lisboa, Portugal, p. 134
- ^ 鶴田倉造 著、上天草市史編纂委員会 編『天草島原の乱とその前後』天草市、2005年、235-240頁。
- ^ 井上光貞『年表日本歴史 4 安土桃山・江戸前期』筑摩書房、1984年、106-107頁。
- ^ 天草郡記録
- ^ 万治元戌年より延享三年迄の人高覚
- ^ 高浜村「村鑑」122298人
- ^ 『天草郡総人高帳』141588人
- ^ a b 「天草崩れ」『日本大百科全書(ニッポニカ)』(コトバンク)
- ^ 「天草崩れ」『ブリタニカ国際百科事典』ブリタニカ・ジャパン(コトバンク)
- ^ 「天草崩れ」『世界大百科事典』平凡社(コトバンク)
島原の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 01:37 UTC 版)
寛永15年(1638年)、幕府から島原の乱鎮圧への参加を要請された勝成は嫡子・勝俊、孫の水野勝貞を伴い約6,000人を率いて幕府軍に加わった。これは幕府上使を除き九州の大名以外で唯一の参陣であり、老齢(当時75歳)にもかかわらず勝成の戦歴を評価されてのことであった。田尻村、高浜において同村産の巨樟を船材として軍船「大転輪丸」を造る。 徳川家光は、勝成に松平信綱、戸田氏鉄と同格の相談相手になることを命じる。 勝成は2月24日に島原に到着し、同日に松平信綱の陣で諸将が集い、軍議が行われた。ここで勝成の提案により総攻撃が決定され、2月28日に開始されることになったが、鍋島勝茂の抜け駆けにより27日に攻撃が始まった。勝成の陣は原城包囲の最後列であったが、鍋島軍が三の丸から攻めるのに対し、水野軍は本丸を直接攻略し、勝成の嫡子・勝俊と有馬直純の嫡子・康純が本丸の一番乗りを争った。しかし、勝成が前線指揮をとっていなかったからか、水野勢は同時に100人を超える戦死者を出すことにもなり、勝成の戦歴で最大の損害となった。 戦後、勝成は板倉重昌を討ち取った駒木根友房の首級の前で一曲舞う。また重昌の息子・板倉重矩が、父の仇を討たんと奮戦したことを賞して、勝成は自らの宇多国房の刀を与えた。また黒田家臣の郡正太夫(郡宗保の後継)の活躍を称えて盃を与えたり、黒田一成、黒田一任親子の活躍を称える手紙を出した記録が残っている。 なお、島原の乱は幕府に配慮して軍功を記すことが憚られたため、勝成は幕閣首脳に大きな不満を持ち隠居を決断した。
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島原の乱
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詳細は「島原の乱」を参照 慶長6年(1601年) 、関ヶ原の戦いの戦功報償として肥後天草を加増されたおり、広高は天草の石高を合計約42,000石と算定したが、これは天草の実状を無視しており、実態の倍という過大な値だった。このため以後の徴税が過酷となり、広高の没後、嫡子・寺沢堅高の代に島原の乱(1637年~1638年)が勃発する原因の一つとなった。乱の平定後、寺沢家は責任を問われ天草領は没収、失意の堅高は後に自殺し寺沢家は断絶した。しかし根本原因である過大な石高の半減を幕府が認めるには万治2年(1659年)まで掛かった。更に寛文11年(1671年)、天草はそもそも私領に適さないとして幕府直轄領となった。
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島原の乱
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徳川幕府が鎖国に踏み切った決定的な事件は、1637年(寛永14年)に起こった島原の乱である。この乱により、キリスト教は徳川幕府を揺るがす元凶と考え、新たな布教活動が今後一切行われることのないようイベリア半島勢力を排除した。ポルトガルは1636年以降出島でのみの交易が許されていたが、1639年にポルトガルが追放されると出島は空き地となっていた。1641年、平戸のオランダ商館倉庫に「西暦」が彫られているという些細な理由で、オランダは倉庫を破却し平戸から出島に移ることを強制された。この時の交換条件として徳川幕府は、ポルトガルが年額銀80貫払っていた出島使用料を、オランダに対しては年額銀55貫に減額している。また、徳川幕府に対して布教を一切しないことを約束した。しかし、島原の乱からポルトガル追放までは2年の間がある。これはオランダがポルトガルに代わって中国製品(特に絹と薬)を入手できる保証がなかったことと、日本の商人がポルトガル商人にかなりの金を貸しており、直ちにポルトガル人を追放するとその回収ができなくなることが理由であった。
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島原の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:40 UTC 版)
寛永14年(1637年)10月末に肥前国島原や肥後国天草郡などでキリシタン一揆が発生した(島原の乱)。信綱ら首脳陣は当初、板倉重昌と石谷貞清を派遣し、さらに日根野吉明や鍋島勝茂、寺沢堅高、松倉勝家ら九州の諸大名に鎮圧と加勢を命じた。しかし一揆勢は原城に立て籠もって抗戦し、戦闘は長期化した。 当初、幕府軍の総大将は板倉重昌であり、信綱は戸田氏鉄と共に一揆鎮圧後の仕置・戦後処理のために派遣されていた。だが寛永15年(1638年)1月1日に重昌が戦死。石谷貞清も重傷を負ったため、代わって信綱が幕府軍の総大将に就任することになった。 1月11日には篭城する一揆軍に対してオランダ船のデ・ライブ号に要請して援護射撃をさせた。1月28日に副将格の戸田氏鉄が負傷するなど一揆の抵抗も激しく、信綱は立花宗茂、水野勝成、黒田一成ら戦陣経験がある老将達と軍議が行われて兵糧攻めに持ち込んだ。この結果、2月下旬には一揆の兵糧はほぼ尽きてしまい、2月28日までに原城を陥落させた。信綱は一揆の総大将である天草四郎の首実検を行い、さらし首とした。このとき信綱の家臣6名も戦死し、手負い103名であった。3月1日には原城を破却して捕らえた者は斬首してさらした。また松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を招いた責任ありとして処罰を言い渡した。
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島原の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:13 UTC 版)
1637年に肥前島原と肥後天草で百姓身分の者たち(農民やかつてキリシタン大名の家臣であった元武士たちなどから構成された)3万人が蜂起した事件は、幕府に衝撃を与えた。これが島原の乱である。蜂起の直接的原因は島原藩と唐津藩(天草を所領)による残酷な収税制度にあったが、同地にはキリシタン大名であった有馬晴信、小西行長の統治時代に入信したキリシタンが多く、一揆の盟約結成の求心力としてキリスト教信仰を基盤においた内部統制も行われたこと、そのことが一向宗、法華宗などのような求心性の強い宗教勢力が排他的な一揆的結合の核となって強大な政治勢力を築いた事態の再来する危機を感じさせたこと、さらには幕藩体制のゆがみが明るみに出ることを幕府が恐れたことから「キリシタンによる反乱」と単純化されて規定され、原城陥落後に1名の内通者を除く参加者全員が殺害された。なお、当時の島原藩主松倉勝家は、農民の生活が成り立たないほどの収奪を行ったかどで斬首され、同様に唐津藩主寺沢堅高は天草の領地を没収されて、その後自害している(江戸期を通じて、一藩の藩主が切腹でなく斬首となったのはこの松倉勝家の1例のみである)。 この事件を重く見た幕府は、禁教を徹底させる観点から、カトリック国であるポルトガルとの断交を望むようになり、1638年にはカピタン・モールの将軍への謁見を拒否している。また、キリシタンをあぶりだすために絵踏や、キリシタンを密告した者に報奨金を与えようとした。だが幕府は、ポルトガルがマカオからもたらす中国産の生糸などに日本市場が大きく依存していたことから、ポルトガルとの貿易の途絶をためらった。 しかし、1639年に、オランダ商館長のフランソワ・カロンが江戸に参府した際に、幕府はオランダの植民地である台湾経由でも中国産の生糸などを確保できることをカロンから確認できたことで、ポルトガルとの断交に踏み切ることになった。そして、長崎奉行や西国大名に、ポルトガル船の来航の禁止と、九州沿岸の防備体制の確立を求めた通達(「第五次鎖国令」)を発布し、ポルトガルを長崎の出島から追放した。1641年には、商館にあった西暦に関するものを理由として、オランダの商館も平戸から長崎の出島に移転され、商船の入港が統制・制限されるようになった。各地で宗門改制度や檀家制度が整備されると、キリスト教の禁止は幕藩体制の根幹に組み込まれていく。
※この「島原の乱」の解説は、「日本のキリスト教史」の解説の一部です。
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