ポルトガルの援軍期待説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:11 UTC 版)
一揆軍はこれを機に日本国内のキリシタンを蜂起させて内乱状態とし、さらにはポルトガルの援軍を期待したのではないかと考える研究者もいる。実際、一揆側は日本各地に使者を派遣しており、当初にはポルトガル商館がある長崎へ向けて侵行を試みていた。これに対応するため幕府は有力大名を領地に戻して治安を強化させていた。この時期にポルトガルが援軍を送ることは風の関係で実際には困難であった。乱後、天草四郎等の首は長崎・出島のポルトガル商館前にさらされた。もっとも、この当時ポルトガルは同君連合でスペインの支配下にあり、ポルトガルへの働きかけなど無駄だったことは日本では知られていなかった。
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