ポルトガルの屈服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 05:19 UTC 版)
当時のポルトガルは「西ヨーロッパの最貧国」と呼ばれるまで国力が低下し、マカオにわずかな軍事力しか駐留させていなかった上に、ヨーロッパ最長の独裁体制とされるエスタド・ノヴォ体制で多くの西側諸国との関係が悪化しており、同じように中国大陸に香港を抱えていたイギリスとの英葡永久同盟もゴアなどのポルトガル領インドがインドから武力侵攻を受けた(英語版、ポルトガル語版)際やポルトガルの植民地戦争で役立っておらず、軍事的な支援は期待できなかった。 この様な背景から、中国人民解放軍との全面的な軍事対立が起きた場合全てを失うと考えたサラザール首相の判断により、ポルトガル政府とマカオ政庁は、12月12日午後11時半になって、中国共産党による要求を全面的に受け入れることを明らかにした。 そして12月16日までに、カヴァーリョ総督は死者が出るような経緯に対する遺憾の意を表し、この事件の発端となったセルヴェイラ総督代理とフィゲレド警察署長は罷免されマカオ退去が命じられた。12月17日、この事件の犠牲者の葬儀が行われ、関閘や市役所では半旗が掲げられた。その他、マカオ政庁は慰謝料等で計2,058,424パタカを遺族に支払った。翌1967年1月29日、カヴァーリョ総督は毛沢東の肖像画が掛けられた場所で謝罪の文書に署名させられた。
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