ポルトガルの到来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 23:25 UTC 版)
1511年、ポルトガルがマラッカ王国と戦争になると、ドゥマク王国のファタヒラー(インドネシア語版)(Pati Unus)が援軍として駆けつけたが、1512年8月にマラッカは陥落した(マラッカ占領 (1511年)(英語版))。1520年からアチェ王国のアラウッディン・アルカハル(英語版)が貿易の独占を狙って、三度に渡ってジョホール王国やポルトガル領マラッカ(ポルトガル語版)と戦争になった。この時は、オスマン帝国のスレイマン1世が艦隊を派遣してアチェ王国に加勢したが、成功しなかった。1514年からポルトガルはマラッカで売る人身売買を目的として明朝の屯門(現香港屯門区)を占拠していたが、朝貢国マラッカを失うと第一次屯門の戦い(英語版)(1521年)と第二次屯門の戦い(英語版)(1521年)の二度にわたって明朝が攻めて撃退した。1522年、ポルトガルとパジャジャラン王国の関係を断ち切らせるために、ドゥマク王国のファタヒラーの艦隊がポルトガル艦隊と西部ジャワで海戦を行なった。勝ったドゥマク王国は、1527年6月22日にスンダ・クラパ(Sunda Kelapa、「スンダ族のココナッツ」の意味)の町の名前を「ジャヤカルタ」(Jayakarta、「勝利」の意味)に改名した。1557年、ポルトガルは明朝からマカオの居留権を得て日本との貿易を開始した。日本人がジャガタラに進出する切っ掛けとなった。
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