1985年 - 1987年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 01:44 UTC 版)
「アルティメット・マーベル」の記事における「1985年 - 1987年」の解説
ピーター・パーカー、キティ・プライド、ジョニー・ストーム、メアリー・ジェーン・ワトソン、ケニー・マクファーレン、フラッシュ・トンプソン、リズ・アレン、ハリー・オズボーン、ボビー・ドレイク、マリアン・ローグがこのタイムラインで生まれる。
※この「1985年 - 1987年」の解説は、「アルティメット・マーベル」の解説の一部です。
「1985年 - 1987年」を含む「アルティメット・マーベル」の記事については、「アルティメット・マーベル」の概要を参照ください。
1985年 - 1987年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 05:44 UTC 版)
「スズキ・GSX-R750」の記事における「1985年 - 1987年」の解説
1985年に発売されたモデルは油冷エンジンやアルミダブルクレードルフレームを採用しており、乾燥重量179kgという当時の400ccクラスと変わらない軽さであった。ビッグバイクにレーサーレプリカという概念を持ち込んだ初のバイクといわれる。ヨシムラなど有名コンストラクターの手によりサーキットで大活躍をし、辻本聡と大島行弥によって1985年から3年連続で全日本ロードレース選手権TT-F1クラスチャンピオンとなった。 1986年にはこのチャンピオン獲得を記念して乾式クラッチやシングルシートを装備したGSX-R750Rと呼ばれる限定車が発売された。このモデルは販売価格が100万円を超えた初の国産オートバイである。
※この「1985年 - 1987年」の解説は、「スズキ・GSX-R750」の解説の一部です。
「1985年 - 1987年」を含む「スズキ・GSX-R750」の記事については、「スズキ・GSX-R750」の概要を参照ください。
1985年 - 1987年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:46 UTC 版)
「ザ・ベストテン」の記事における「1985年 - 1987年」の解説
放送8年目に突入してもなお高視聴率を誇った「ザ・ベストテン」だが、後述の久米の降板をはじめ、テレビ出演を主としないアーティスト系もランクインするようになり、欠席などが目立つようになった。さらにフジテレビ側がおニャン子クラブを出演させないという方針を取ったため、1986年の7月31日から翌年の春までグループおよびメンバーの出演が一切なかった。番組側は当初、欠席理由に対して「レコーディング中」「ライブをしている」としていたが、松下賢次司会後は「各方面と折り合いがつかず」という理由が使われるようになった。依然として「ベストテン」は久米降板後も20%近い視聴率をキープしていたが、徐々に勢いを失っていった。なお、番組の提供クレジットは1985年まではブルーバックだったが、1986年からは前提供はオープニング後のスタジオや中継先の映像に司会者の喋りが入り、後提供は歌手とのやり取りが続く中番組が終わる形式に変更された。 1985年1月10日 - この回のみオープニングを生演奏し、オーケストラ(宮間利之とニューハード+GTサウンド)・コーラス(シャワー)・指揮者(長洲忠彦)を紹介。オープニングが生演奏されたのは、この回と前夜祭の2回だけであった。 3月14日、視聴率31.9%を記録 (この回の第1位は松田聖子「天使のウィンク」)。 4月18日 - この年の秋にスタートするテレビ朝日の報道番組「ニュースステーション」の司会に専念するために久米宏が番組を4月25日付けで降板することが発表された。しかし、この回の放送では「勉強と休養のため」降板すると表向きの理由だけが説明されていた。これは久米と所属事務所のオフィス・トゥー・ワン、テレビ朝日との間で「社運を賭けた番組なので正式発表まで絶対に口外してはならない」と緘口令が敷かれたためである。そのため久米はパートナーの黒柳や番組スタッフに本当の降板理由を告げられず、特に寝耳に水だった黒柳とプロデューサーの山田修爾は赤坂のとある喫茶店に久米を呼び出して問いただしたり、黒柳も自身の自宅に久米を呼び、降板の理由を問い詰め、朝まで押し問答の形に終わったこともあったという。その末、久米は結果的に遺恨を残すような形での降板となった。久米は『ニュースステーション』開始後も、番組が失敗したら大変な迷惑をかけた黒柳に顔向けができないと気に病んでいたが、翌1986年のエドゥサ革命で番組が軌道に乗ると、その年の年末にユニセフ親善大使である黒柳がクリスマスシーズンのユニセフカードの紹介のため番組に出演。後に久米は著書で「成功を心から喜んでくださったことが何よりもうれしかった。そして重荷を一つ下したように感じた」と綴っており、その後も黒柳は不定期で『ニュースステーション』へゲスト出演し、往年のコンビネーションを見られる機会にもなった。 一方、アナウンサーの2年後輩だったプロデューサーの山田が亡くなった際、降板の顛末をキチンと謝罪できなかったことを悔やむ発言をしている。加えて『ザ・ベストテン』がなければフリー転身もその後の『ニュースステーション』もなかったと話している。 4月25日 - 久米が番組を降板。視聴率は31.0%。番組中には山口百恵、郷ひろみ、松山千春から祝電が贈られた他、多くのアーティストから祝花もスタジオに届いた。エンディングでは黒柳と久米によるワルツが披露された。翌週から輪番制でゲストが代理司会を務めた。奇しくもこの回は「卒業」という同名異曲が2曲同時ランクインしていた。 5月2日 - 久米降板後初放送。黒柳・松下のコンビで担当。黒柳を応援するため、寺尾聰・西城秀樹・杏里・ラッツ&スター・ザ・ぼんち・タモリ・小沢昭一ら以前より交流のある人物がゲスト出演。 9月26日 - 生島の司会としての出演は最後となり、松下も一旦司会からは離れる。この日のエンディングにて小西博之が登場して2代目司会者となることを発表、翌10月3日より就任。 10月17日 - 静岡・日本平から「400回記念 ザ・ベストテンin静岡」を放送。静岡放送(SBS)はラジオでも同時放送された。視聴率は18.4%。 12月5日 - この日の8位に小泉今日子の「なんてったってアイドル」がランクインしたが、この日小泉は当時本番組と同じ時間帯にTBSラジオで生放送されていたワイド番組『所ジョージの進め!おもしろバホバホ隊』にTHE ALFEEとゲスト出演しており、発表時には同番組を放送していた本館のレインボースタジオを抜け出して所ジョージと共に登場。そこから暫く関東地区ではテレビとラジオで同時生放送が行われた。その後、小泉と所は歌の途中でGスタジオのあるテレビ局舎2階からレインボースタジオのある本館5階へと移動。ALFEEが待つレインボースタジオへと向かった。 12月26日 - 「さよなら1985 ザ・ベストテン豪華版」を放送。視聴率は29.3%。 1986年春頃からテレビ番組出演を必要としないアーティスト系もランキングされるようになり、欠席が相次ぎ空席が目立つようになる。4月10日 - 放送2日前の4月8日に岡田有希子が自殺。この日のエンディングで、黒柳が「18歳の有希子さんに、悩みを私達分かってあげられなくて本当に申し訳ないし、また残念に思っています。有希子さんの明るい笑顔と美しいお顔が、永久に皆さんの心に残る事を祈ってます」と、視聴者に対して涙ながらのコメントを述べる。この回は通常回ではエンディングで行う記念写真を先に繰り上げ、CM後に黒柳がコメントを行い、生前の歌唱前のトーク映像を流した。 8月21日 - 第10位にランクインした中山美穂を追いかけて新幹線から中継。米原駅では音声が聞こえないため歌えずそのまま列車は出発してしまい、その後名古屋駅での2分間の停車のうちに歌唱した。歌の後半には発車時刻となってしまったが発車後も音声をつなぎどうにか歌い切った。 8月28日 - 芝ゴルフプールから中継。黒柳が水中ヨガを披露。当日KUWATA BANDで第1位にランクインした桑田佳祐が「成仏して下さい」とコメント。 9月25日 - 小西博之が1年を区切りに司会を卒業すると発表。この日黒柳はアフリカに行っており、VTRで小西にメッセージを伝えた。数日後が小西の誕生日であったため、ケーキが用意され菊池桃子からプレゼントをもらった。 10月2日 - 久米降板後に司会補佐を務めた松下賢次が3代目男性司会者として初登場。正式な司会初日にもかかわらず5組も欠席。 10月9日、長野県松本市のあがたの森公園から、6000人の観客と共に「450回記念 ザ・ベストテンin松本」を放送。第8位にランクインした芳本美代子は旧開智学校から「Auroraの少女」を、第4位にランクインした中山美穂は放送終了30分前に到着の特急あずさで松本入りし特設ステージで「ツイてるねノッてるね」を披露したほか、当日ランクインしたC-C-B、近藤真彦、本田美奈子らが松本市内各名所の紹介を行った。 12月4日 - 1位になった杉山清貴「最後のHoly Night」は、ザ・ベストテン史上最低得点での1位(7559点)。 12月25日 - 「さよなら1986 ザ・ベストテン豪華版」を放送。視聴率は28.4%。 1987年4月2日 - 通常より放送枠を30分拡大した「ザ・ベストテン延長戦」を放送。これはランキングを1位から順番に発表し、時間が許すまで11位以下もランキングを発表していくが、歌手が番組に関するクイズに正解しないと歌えない、という内容。この時西村知美(「シンフォニーの風」、16位)がクイズに連続して間違え(他の出演者は一発正解)、進行が止まってしまったため司会の松下賢次がわざわざ「マルか、バツか?」と正解を強調して言ったのにもかかわらず西村は「バツ?」と答えた。松下は、次の問題で「マルと言って下さい!!」と答えを教えていた。この日の19位は森川美穂「おんなになあれ」。時間がギリギリまで迫っており、歌うことはできたが1番だけであった。20位の曲のみランキングボードが回らなかった。視聴率は25.7%を記録。 4月16日 - 初ランクインした立花理佐は、黒柳の年齢の出題で「70歳くらい?」と発言したため、黒柳が困惑しつつ苦笑いするシーンがあった(当時黒柳の実年齢は53歳)。このことは、翌年3月最後の放送日の延長戦にてクイズ出題の題材として取り上げられた。 4月23日 - TBS(当時の東京放送)がストライキに突入したため、TBSアナウンサー(東京放送の社員)であった司会の松下は登場せず、ストライキを表現させる頭に鉢巻、肩に襷をかけて松下を模した人形と事前に録音された音声がランキング発表を行った。この週は史上2回目の10組フル登場に加え、歌手活動を休止していた松田聖子が、約2年ぶりのシングル発売となる「Strawberry Time」で、「今週のスポットライト」コーナーにて久々復帰出演を果たした。 この頃、黒柳が1987年10月から開始したベストテンの後枠となる平日22時台のニュース番組『JNNニュース22プライムタイム』のキャスター就任の打診を受けるも、共に生放送であるベストテンの司会を降板しなければならず、「ベストテンの司会を続けたい」とした事、さらにTBSにおけるベストテンの司会や『日立 世界・ふしぎ発見!』も含めて既存のレギュラー番組を全て降板せねばならない事、仮にキャスターになったとすると裏番組となる久米宏と比較されて見られることに黒柳本人が難色を示した事の3つから、この話は流れてしまった。 7月23日 - 猛暑のため「少しでも涼しいところから放送したい」ということで芝ゴルフプールから生中継。司会の松下はプールに潜ってランキングを読み上げていた。 10月1日 - 宮城県仙台市の勾当台公園より、「500回記念 ザ・ベストテンin仙台」を放送。それまで労働基準法の関係からメンバー7人揃っての生出演が困難だった光GENJIが初めてフルメンバーで生出演、番組内では「都民の日のため出演が可能になった」と説明された。 とんねるずがこの公開放送の回に出たさに、チャート初登場がこの回になるようにシングル「おらおら」の発売日を合わせたというエピソードも残っており、チャートインしなければもう歌わない、と『オールナイトニッポン』などでリスナーに脅しを入れていた。その目論見は果たされ「おらおら」は5位にランクイン。2人ともマイケル・ジャクソンの扮装で歌唱した。 10月8日 - この週が10組フル出場した最後の回になった。また、この回と翌週15日は黒柳が番組を欠席、代わりに全国のJNN各局の人気女子アナウンサーがTBSに集合し、松下アナのアシスタントを務めた。当時独身だった松下の番組内でのお見合いも兼ねていたという。 12月24日 - 『さよなら1987 ザ・ベストテン豪華版』を放送。視聴率は26.7%。 12月31日、『日本レコード大賞』に引き続いて、史上唯一の大晦日特番『10年間感謝ザ・ベストテン大晦日電リク祭り』を開催(21:00 - 23:24)、この年開催の『第38回NHK紅白歌合戦』の対抗番組として放送。電話回線のパンクを避けるため地方ごとにブロックを分ける対策が取られた(電話番号は各ネット局側で表示)。過去の「ザ・ベストテン豪華版」のハプニング集・5周年記念に放送されたベストテンフェスティバルからの映像が多く使用された。進行補助には、関西地方(MBS)の追っかけマンだった青木和雄が加わった。スタジオにはC-C-B・クリスタルキング・桜田淳子・島田奈美・光GENJI・西村知美・寺尾聰らが集まった。また、『紅白』に出場できなかった南野陽子や酒井法子らも駆けつけた。中継先は、翌年3月で廃止される青函連絡船の青森駅、ビートたけしがテレビ朝日の生番組で草野球をしていた神宮球場などから。なお、VTR出演だが、ベストテンに2年7か月ぶりに登場した久米宏が『ニュースステーション』のセットからコメントを出した。この日、生歌を披露したのは光GENJI・寺尾聰・森川由加里・クリスタルキングの4組。放送時間の関係で光GENJIの歌唱中に終了。視聴率12.9%。 番組の出演回数が200回を超え当時の番組出演最多記録を誇った田原俊彦に対して、寺尾聰の赤いソファーになぞらえた名前入りの青いソファーが贈られ、スタジオに置かれることになった。最終回まで246回と出演最多記録を伸ばした。
※この「1985年 - 1987年」の解説は、「ザ・ベストテン」の解説の一部です。
「1985年 - 1987年」を含む「ザ・ベストテン」の記事については、「ザ・ベストテン」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から1985年 - 1987年を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から1985年 - 1987年を検索
- 1985年 - 1987年のページへのリンク