フリー転身
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2011年4月よりノースプロダクション(旧イーストプロダクション)に所属しフリーに転身した。フリー転身直後は単発番組への出演程度の活動だったが、2012年4月2日より、フジテレビが12年ぶりの午後のワイドショーを復活させることに伴い、午前の時間帯から異動してきた『知りたがり!』の司会を伊藤利尋(フジテレビアナウンサー)と共に担当した。 2015年4月から2年間は、フリーアナウンサーとしての活動を続けながら、多摩大学で客員准教授を務めた。 2016年1月27日には、同年1月に岩手県出身の一般男性と再婚したことを、自身のブログで発表した。 2022年4月1日にフリーアナウンサーになってから所属していたノース・プロダクションからの独立を発表した。
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フリー転身
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:47 UTC 版)
2007年3月31日付けで朝日放送を退社し、フリーに転身することとなり、4月から平日朝の『スーパーモーニング』の司会に復帰した。そのため、それまでのレギュラー番組(『サンデープロジェクト』、『芸能人格付けチェック』などを除く)を降板し、活動拠点も東京へ移った。 フリー転身後は、芸能事務所には所属せずに、赤江自身が個人事務所を設立して自ら窓口となって活動している。 9月23日には、フジテレビ『クイズ$ミリオネア』のスペシャル版に、解答者として出場した田原総一朗のライフライン(テレフォン)として、テレビ電話ながらテレビ朝日系列以外の番組初出演を果たした。 2008年11月23日に3歳年上のテレビ朝日報道局ディレクター伊藤賢治(広島県出身)と結婚。同月27日放送の『スーパーモーニング』内で発表した。2009年5月、挙式・披露宴を行った。 2009年と2010年には、国政選挙施行日のテレビ朝日の選挙特別番組『選挙ステーション』のサブキャスターを務めた。 2011年4月1日には赤江が司会を務めていた『スーパーモーニング』が最終回を迎えたが、3日後の4月4日から放送開始された後継番組の『情報満載ライブショー モーニングバード!』においても、当時、フリー転身直後であった羽鳥慎一と共に総合司会を務めた。 NHK『連続テレビ小説』のファンである。NHK総合テレビの朝ドラ本放送は『スーパーモーニング』→『モーニングバード!』の裏番組であるため、朝のワイドショー担当時代は昼の再放送で視聴していたと話していた。 2012年4月2日から2017年3月30日までと2018年4月2日からはTBSラジオ『赤江珠緒 たまむすび』(月曜 - 木曜)のパーソナリティを務めている。 2013年11月、国会で審議が進められていた特定秘密保護法案に対する、テレビキャスター・ジャーナリストらによる反対声明の呼びかけ人に名を連ねた。 2014年11月23日の神戸マラソンで初めてフルマラソンに挑戦し、4時間59分12秒のタイムで完走した。 長年ショートカットであったが、2014年春頃から「マラソン練習の時に被る帽子が風で飛ばないよう、結わいた髪で止めるために」髪を伸ばし始めた。2014年11月には肩までのセミロングになっていた(以後は髪を下ろしていることがなかったため、どれ位の長さまで伸ばしていたかは不明)。しかし、2015年4月に「座席の背もたれに寄りかかれないから」という理由で髪を切りショートカットに戻った。『モーニングバード!』の宣材写真をロングヘアのものに刷新した直後のことである。 2015年4月12日からはTBS『この差って何ですか?』で司会を務め、テレビ朝日系列以外のテレビでは初のレギュラー番組となった。 2015年9月25日、『モーニングバード!』の最終回をもって同枠を降板。 2016年12月9日、『明石ふるさと大使』に就任。 2017年2月16日、TBSラジオ『赤江珠緒 たまむすび』の生放送で、第1子妊娠を報告。同年3月30日、『赤江珠緒 たまむすび』を一時降板し、産休に入る。同年7月27日、第1子女児を出産。同年8月22日、出産後初の『赤江珠緒 たまむすび』に電話出演。その際、分娩まで2日がかりの難産であったこと、産後の経過などが赤江から語られた。 2018年4月2日、TBSラジオ『赤江珠緒 たまむすび』に復帰し活動を再開。
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フリー転身
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:59 UTC 版)
1991年3月31日、日本テレビを退社。クレージーフォーを設立(同事務所は2004年6月30日に解散)。 フリー転身のきっかけは、知り合いの番組制作会社社長から会食に誘われたことである。福留はいつもの2人きりでのざっくばらんな食事の席かと思っていたところ、場違いとも思える座敷に通され中に入ると、既にTBSの役員クラスの人物が2人ほどいたといい、その席で「ブロードキャスター」の司会就任の打診を初めて受けたという。 しかし番組開始までもう時間がなく、日本テレビを退社するにもその後の残務整理などを行うには十分な時間がなかったことから、福留は即答できずいったん持ち帰りとし、局に帰って生みの親ともいえる当時日本テレビの取締役であった佐藤に相談したところ、「俺はそっちのほうがいいと思うよ」と背中を押す返事を貰った。そして佐藤は、「ちょっと待ってろ」と福留に告げると急いで局の全役員に連絡をして 福留の退社に関する話を取り付け、最終的に「ズームイン」の出演もフリーの立場で継続することを条件に円満退社が認められる運びとなったという。福留の「ブロードキャスター」初登場が放送開始から半年遅れなのはこのためである。以後人気総合司会者として数多くの番組を育て上げてきたが、視聴率の低下や自身の高額ギャラがネックとなり2009年2月をもって全て打ち切りとなった。加えて、1991年に腹腔鏡による胆石手術を受けたことや、心臓の持病の悪化(ペースメーカーが入っており、身体障害者1級認定を受けている)、顔面の左側がベル麻痺になるなど自身の体調不良が続いたこともあり、一線を退く覚悟を決め、身体の負担が少ない単発の仕事を散発的に行うスタンスへ移行していった。 2011年3月3日、全日本空輸(ANA)の国際線25周年とボーイング747-400国際線機材の引退フライト(成田→グアム間)を記念して、サプライズゲストとして機内アナウンスに登場。機内では福留のアナウンスが流れたため、「『アメリカ横断ウルトラクイズ』風の機内ペーパークイズが行われ、ブーブーゲートによる結果発表で敗者になったら、そのまま成田へ強制送還されるのでは?」と、ほとんどの搭乗客は不安がっていたという。実際に福留は、25年前のグアム線初便フライトに搭乗していた。 2011年12月、ニコニコ生放送への初出演を果たし、東日本大震災の震災孤児の実状に迫る番組を放送した。同じく12月19日の『人生が変わる1分間の深イイ話』では、歴代『ズームイン!!』(『ズームイン!!朝!』『ズームイン!!SUPER』『ZIP!』)総合司会者である徳光・福澤・羽鳥・桝太一と共演した(5人が共演するのはこれが初めて)。 体調面での回復と家族の後押しに、自身の心境の変化から2013年からは再び活動を活発化させつつあり、BS朝日で不定期に放映されていた「日本焼き物紀行」で旅人を務めていたが、2013年4月に「留さんのニッポン焼き物紀行」としてリニューアルされ毎月1回の放送となった。2013年10月から2014年10月まで「ザ・スター」(BSフジ)の司会を担当した。 局アナ時代より多くの発展途上国を取材。その縁で「なんとかしなきゃ!プロジェクト」著名人メンバーでもある。
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フリー転身
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:42 UTC 版)
2022年4月1日、フロム・ファーストプロダクション所属のフリーアナウンサーとして活動を開始。
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