1975年-1979年とは? わかりやすく解説

1975年 - 1979年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 08:22 UTC 版)

平城・相楽ニュータウン」の記事における「1975年 - 1979年」の解説

1975年昭和50年2月 - 汚染処理水放流地元同意を得る3月1日 - 平城地区最初公園平城第3号近隣公園」の併用開始4月 - ならやま自治会発足4月4日 - 1973年頃から地元住民から要望出されていたバンビーホームが、右京小学校開設される4月6日 - 高の原教会創立3月 - 京都府都市計画審議会都市計画道路審議4月 - 木津町町長精華町長が京都府知事対し、「流域下水道早期実現要望」を手渡す4月16日 - 相楽地区都市計画道路6路線決定告示改正され奈良県開発技術指導要綱施工面積対す公園緑地割合12%以上にするようにという条件に合うよう、平城地区公園緑地基本設計をまとめる。 7月 - 日本住宅公団マスタープラン見直しについて京都府都市計画課に説明し内容について調整7月 - 第2暫定処理場着工7月 - 奈良市平城プール竣工開業平城第二団地ボランティアあすなろの会」が、団地歴史や生活、周辺草花変化などを記録した映画平城ニュータウン」と、年中行事などを30分にまとめた映画「わが団地はふる里」を制作8月 - 日本住宅公団マスタープランについて再度京都府都市計画課に説明9月 - 日本住宅公団木津町精華町両町に対してマスタープラン見直しについて説明しセットする10月 - 日本住宅公団基本設計取り掛かる12月 - 京都府奈良県双方都市計画課の担当者平城開発事務所道路についての調整を行う。 12月22日 - 相楽地区事業計画認可の遅れに伴う平城地区開発行き詰まりによる施工期間の延長事業費改定などを求めた平城地区第1回施工規定事業計画変更認可されるこれを機に事業名称は大和都市計画事業奈良国際文化観光都市建設事業平城土地区画整理事業となる。 1976年昭和51年日本住宅公団相楽地区都市計画始める。 奈良市朱雀への入居開始日本住宅公団が「平城地区歩行者専用道路基本設計報告書」をまとめる。 4月16日 - 相楽地区幹線道路都市計画決定告示当初木津町精華町全域にわたる予定だったが、調査長期間要する判断した京都府が、日本住宅公団から要望があったこともあり、建設省検討したうえで最終的に国道163号以南となった5月 - 日本住宅公団南部総裁蜷川京都府知事事業促進について協力要請5月 - 日本住宅公団木津町開発に関する基本協定を結ぶ。 7月 - 日本住宅公団精華町開発に関する基本協定を結ぶ。 1977年昭和52年3月-4月 - 日本住宅公団木津町精華町から36協議回答を得る。 第四次下水道五箇年計画重点調査事項である「下水道処理水循環利用調査」について建設省から委託受けた日本住宅公団が、水の再利用時の水質基準施設設計基準施設の管理基準設定するための基礎資料を得ることを目的として、平城浄化センター設けられプラントで3か年計画での研究・調査開始その後処理場への流入負荷量の変動対策のために施設改善研究繰り返した結果変動一定にするためのバランシングタンクが開発された。 4月 - 朱雀二丁目自治会発足5月 - 国道24号線奈良バイパスの8.15km全線開通7月 - 日本住宅公団平城ニュータウン中水道システム採用することを発表8月 - 京都府奈良市日本住宅公団河川改修工事施行方法施行分担などを定めた覚書交換9月 - 平城浄化センター併用開始施設浄化槽法に基づく暫定処理施設として日本住宅公団管理1978年昭和53年3月8日 - 相楽都市計画事業相楽土地区画事業事業規定施工規定認可される4月 - ならやま自治会右京三丁目自治会右京四・五丁目自治会神功自治会分割7月 - 平城ニュータウンスポーツ協会発足8月14日 - 相楽地区審議会当選人決定公告8月14日 - 相楽地区学識経験委員選任日本住宅公団京都府側の開発着手10月 - 相楽地区防災工事着手10月13日 - 相楽地区評価員選任11月 - 山田川改修工事着手12月12日 - 相楽地区土地評価基準制定1979年昭和54年1月8日-3月31日 - 奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部が、1973年予備調査時の掘立柱穴の確認によって工房存在する可能性のある音如ヶ谷瓦窯跡について、窯と工房両者一括して把握することを目的として2,100m2を大規模発掘調査1月9日-3月31日 - 奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部が石のカラト古墳313m2を調査。すでに古墳緑地として保存することが決まっていたため、古墳範囲確認するため調査が行われた。 1月13日-1月26日 - 奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部が奈良山第13号地点古墳200m2を調査奈良国立文化財研究所による相楽地区発掘調査終了4月1日 - 奈良市立神幼稚園開園4月 - 朱雀一丁目自治会発足5月1日 - 木津町精華町の間で行政境界道路沿うようにするに変更決定告示5月10日 - 相楽地区位置価・路線価決定6月29日 - 相楽地区仮換地保留地決定9月 - 平城東配水池完成10月 - 石のカラト古墳について、文化財保護審議委員会で史跡指定答申なされる

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1975年 - 1979年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:03 UTC 版)

北アイルランド問題」の記事における「1975年 - 1979年」の解説

休戦1975年1月2日終了したイギリス政府は、外交官ジェームズ・アランとMI6諜報員のマイケル・オートリーを介して暫定IRA秘密交渉開始した軍事的撤退のための抑留者と協議解放することを約束しイギリス2月8日発表され暫定IRAから無制限停戦取得したシン・フェイン党管理する休戦インシデント・センター」は休戦確認する必要があった。暴力1975年の夏に徐々に再開された。IRA暫定派自治会などが参加していた。IRA暫定派英国政府との間で密かに協議続いていたが、11月12日休戦インシデント・センターは閉鎖され休戦インシデント・センターという名だけの休戦終了した1974年12月アイルランド共和国社会党は公式シン・フェイン党アイルランド労働者党)から分裂した。これを受けて、公式IRA1975年初頭に、時にはアルスター義勇軍とのつながりがあり、新組織の一員対す暗殺開始した1975年秋、暫定派と役人の間で対立勃発し数名死者出したアイルランド共和社会党武装組織であるアイルランド国民解放軍は、軍事的にIRA暫定派接近している。 1977年IRA暫定派はジェリー・アダムズとマーティン・マクギネスの指導の下、再編成された。シン・フェイン党役割明記され、北も南も大衆組織にしてしまえばいいということになったイギリス利益反して海外活動する部隊作られた。1979年には、暫定派は駐オランダ英国大使リチャード・サイクスとエリザベス2世女王叔父ルイス・マウントバッテン殺害しアイルランド国民解放軍マーガレット・サッチャー親戚であるエアリー・ニーヴを射殺した。この時、共和主義者準軍事組織著名な人物標的にしていた。 ロイヤリスト休戦反対しており、カトリック教徒攻撃することで休戦打ち破るつもりでいるため、IRA暫定派は再び武装してゲットーを守ることになった異なる準軍事グループ調整する新しい組織、アルスター・ロイヤリスト中央調整委員会設立された。1975年5月選挙での勝利によって強化されロイヤリストは、1965年ローデシア共和国独立同様にアイルランドとイギリス両方から独立した北アイルランドへの英国撤退軍事的買収準備していた。1977年5月2日アルスター労働者評議会と準軍事グループ構成されるユナイテッド・ユニオニスト行動評議会は、1974年ゼネラル・ストライキモデルにした新たなゼネスト求めた。しかし、ストライキ失敗終わり11日後に終了した宗派的な攻撃増加ロイヤリスト不利に働き1975年11月には再びアルスター義勇軍禁止された。1970年代後半になると、ロイヤリスト暴力に関する裁判始まったギャングのシャンキル・ブッチャーズの一員11人に終身刑言い渡された。 暫定的な政治的解決策とされた1975年5月選挙失敗終わりロイヤリスト大多数獲得し共和主義者ボイコット呼びかけた(棄権40%)。それにもかかわらず危機を終わらせようとする意欲は、国民政府準軍事組織の間でも顕著に見られる1976年12月雇用差別終止符打とうと、公正雇用法が成立した1976年8月、3人の子どもの死をきっかけ自然発生的に平和運動始まり、すぐにマイレッド・コリガン・マグワイアベティ・ウィリアムズの「ピース・ピープル」へと変貌遂げた双方親衛隊は、1976年後半英国政府抜き和平交渉を、ロイヤリストのデスモンド・ボール弁護士共和党ショーン・マクブライド弁護士通じて開始したが、この計画翌年早々に失敗終わった1977年ジミー・カーター米大統領1979年ヨハネ・パウロ2世教皇など、一部国際的な著名人紛争の解決求めた1979年5月イギリスの選挙保守党勝利しマーガレット・サッチャー政権押し上げた3月親戚一人であるエアリー・ニーヴがアイルランド国民解放軍によって殺害されたことは、アイルランド共和主義者と民族主義者対す反抗的な態度一端説明している。1975年以降北アイルランドにおけるイギリス政策は、犯罪化と「アルスター化」の2つ方針沿って整理されていた。その目的は、イギリス政府現地採用部隊にもっと頼ることで、イギリス兵の損失抑え政治指導者紛争終わらせるための圧力を減らすことにあった1975年休戦により、裁判なしでの抑留終止符打たれたが、陪審員なしの裁判裁判官一人だけの裁判続いた1975年11月4日1976年3月1日から適用される特別カテゴリーSpecial Category Status)の終了発表された。軍事組織犯罪北アイルランドではコモンローとして裁かれるようになり、南部では新たな治安対策確立されている。早ければ1976年には、メイズ刑務所共和主義囚人は、コモンロー囚人制服を着ることを拒否していた。これがブランケット闘争となり、その後成長し1977年半ばには約150人、1978年には約300人の参加者がいた。1978年3月にこの運動は「不潔闘争」で新たな局面迎え共和主義囚人看守暴力抗議するために自分の体を洗うために独房から出ることを拒否していた。その後刑務所廊下に尿を放り込み自分排泄物独房の壁に並べる。しかし、イギリス政府反応しなかった。

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