1973年 - 1974年
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「トム・パーカー (マネージャー)」の記事における「1973年 - 1974年」の解説
「アロハ・フロム・ハワイ」が、プレスリーとパーカーにとって最後の偉大な出来事であったことは、やがて明らかになっていった。1973年5月、プレスリーの処方薬への依存に対処しようと、プレスリーの父ヴァーノンとパーカーは、薬の供給源を断とうとした。彼らは私立探偵を雇い、薬の出所を突き止め、プレスリーが薬を入手できないようにした。しかし、程なくしてプレスリーは、彼が必要とする薬を与えてくれる別の医師を見つけることができた。後年、プレスリーの取り巻きだった者たちの一部は、プレスリーに薬を止めるよう説得することがいかに困難だったかをいろいろ語るようになった。プレスリーは彼らの雇い主として給与を支払っている立場であった上、彼ら自身にとっても薬物を入手できる主な方法はプレスリーから分けてもらうことであった。プレスリーの主治医であったジョージ・C・ニコポウラスは、しばしば偽薬をプレスリーに与えて、プレスリーを薬から遠ざけようとした。この方法は、しばらくの間は成功したが、やがてこの作為に気づいたプレスリーは、自分に協力してくれる他の医師たちを探して見つけた。パーカーの伝記作家であるアランナ・ナッシュは、パーカーがそれ以上の対処をしなかったのは、単にこの状況でどうすれば良いのか分からなかったからではないか、と示唆している。ナッシュによる伝記『The Colonel』は、「当時はまだベティ・フォード・クリニック (Betty Ford Clinic) もなく、治療のためにプレスリーをどこに連れて行くべきか、大佐は分かっていなかった。」と述べている。 「アロハ・フロム・ハワイ」の特別番組の後、パーカーは、後に法廷において、彼がプレスリーにとって最善の利益を追求していなかったことの証拠として使われることになる、ある契約を結んだ。パーカーは、プレスリーの過去の録音についての諸権利(バック・カタログ)を、わずか540万ドルでRCAに買い取らないかと持ちかけたのである。当時、プレスリーのバック・カタログは、そこまでの価値があるとは思われていなかったため、RCAも当初はもっと低い金額が妥当だと計算していたが、その後、これは音楽ビジネスにおける最も価値が高いカタログのひとつであることが明らかになっていった。 このカタログをRCAに売却するということは、プレスリーの死後、1973年以前の楽曲から生じるロイヤリティは、プレスリー家には何も入らなくなることを意味していた。パーカーのために公平を期すならば、当時はプレスリーが、プリシラとの離婚を止むなしと考え、その解決のための資金を確保することをパーカーに求めていたという事情があった。プレスリーは、音楽ビジネスにおける金の動きについて十分に理解することは終生なかったし、このバック・カタログの重要性がどれほどであるかと考えることもおそらくはなく、この件についてのパーカーの判断を信用していたものと思われる。パーカーの方も、このカタログにどれほどの価値が生じるかを知る由もなかった。 1974年以降、プレスリーは体重が増し、処方薬の乱用も制御不能なほどになっていた。ラスベガスのステージでも、呂律が回らなくなったり、歌詞を忘れるといった、薬物の影響下にあると思わせるような姿を見せ始めた。1973年9月のある公演では、プレスリーのお気に入りだったヒルトン・ホテルのスタッフが解雇されたことを知らされたプレスリーが、ステージ上で怒りをあらわにしてバロン・ヒルトン (Barron Hilton) を口汚くののしるという事態も生じた。パーカーは激怒し、ショーの後、楽屋に押し掛けてプレスリーと直談判に及んだ。ふたりは激論を交わし、プレスリーはパーカーを解雇すると告げた。この発言に激昂したパーカーは、「お前は俺をクビにはできない。こっちから辞めてやる!(You can't fire me. I quit!)」と宣言した。 パーカーは、両者の契約関係を終わりにすることを受け入れ、契約を解除するために、プレスリーに対して貸し付けていると主張した200万ドルの支払いを求めた。しかし、パーカーから送られた、個別の項目を積算した請求書を見たプレスリーの父ヴァーノンは、これを支払って契約を打ち切るだけの資金は持ち合わせていないと宣言した。さらに2週間近く罵倒を応酬したパーカーとプレスリーは、互いに矛を収め、この一件を水に流すことにした。 プレスリーの周囲にいた人々の多くは、悪化していく一方の薬物依存を心配していたが、パーカーはこの件を無視しているようだった。後に、プレスリーのバンドのメンバーたちの何人かは、パーカーが事態の重大性を認識していなかったと述べたが、中には、パーカーはどう対処してよいか分からず、また、対処することによってネガティブなパブリシティが生じる虞れを懸念して、この問題の存在自体を認めたくなかったのだ、という見解を支持する者もいた。パーカー自身によれば、クライアントであるプレスリーとこの件について話し合おうとはしたが、プレスリーが私生活には立ち入るなと言ったのだ、と述べている。
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1973年 - 1974年
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「北アイルランド問題」の記事における「1973年 - 1974年」の解説
直接統治の導入に伴い、イギリス政府は北アイルランドでの新体制を模索している。1973年3月8日、島の南北の国境を廃止することを提案する国民投票が行われた。しかし、共和主義者とナショナリストにボイコットされ、41%の棄権、99%が英国の権威の維持に賛成票を入れた。その12日後、白書「北アイルランド憲法案」が発表され、穏健派(国粋主義者と組合主義者)の間での権力分担の観点から比例代表制への回帰を提案し、アイルランドとイギリスの共同機関であるアイルランド評議会の創設を提案した。6月には、新しい北アイルランド議会の選挙が行われ、白書に反対する組合員が78議席中27議席を獲得し、白書計画を支持する組合員が22議席を獲得した。サニングデール協定は、1973年12月9日にイギリス政府とアイルランド政府、社会民主労働党、北アイルランド同盟党、アルスター統一党の代表者によって署名された。 1972年の終わりに、ロイヤリスト準軍人は、暗殺と民間人への宗派的な攻撃を再開した。イギリスとロイヤリストの関係は悪化し、後者はイギリスの撤退を恐れた。1973年2月3日、そのうちの1人目が抑留された。アルスター防衛同盟と労働者ロイヤリスト協会は、カトリック側で7人の死者を出したゼネラル・ストライキの呼びかけに反応した。アルスター自由戦士団とアルスター義勇軍による処刑と抜き打ち爆撃は、1973年と1974年に増加した。1974年4月22日、アルスター労働者評議会(UWC)が設立され、アルスター陸軍評議会(様々なロイヤリスト準軍事組織)の支援を受けた。1974年5月14日、サニングデール協定の提案は北アイルランド議会で受け入れられた。直ちに、UWCはゼネストを開始し、アルスター防衛同盟はベルファストにバリケードを設置し、労働を止めていない工場や作業場を強制的に解体した。IRA暫定派がストライキ中のすべての暴力をやめると、ロイヤリストの攻撃と殺害が激化した。ダブリン・モナハン爆弾事件は、1993年にアルスター義勇軍が責任を主張し、イギリスのシークレットサービスと共謀して行われた疑いがあり、28人の死者と258人の負傷者を出した。軍の介入を拒否したことで、政府はストライキ隊に屈し、サニングデール合意の権力共有機関を停止せざるを得なくなっている。5月28日、ブライアン・フォークナーは辞任し、その結果、直接統治が再び導入された。 IRA暫定派と北部の共和主義運動は、1972年以降イギリス陸軍による抑留と略式処刑に苦しんだ。しかし、暫定派は武器を強化しており、特にリビアから武器を輸入し、RPGや遠隔起爆装置を手に入れ、民間人の犠牲者を最小限に抑えることができるようになった。抑圧のリスクに直面し、組織は分かれた。1973年8月、イギリスでの火炎放射爆撃の引き金となった。致命的なIRA攻撃の取り締まりは、いくつかの司法の誤審を引き起こした。 1973年7月、公序を乱したとして投獄された人民民主主義の指導者2人が、政治犯の地位を得るためにハンガーストライキを行った際の民衆運動が再現された。政治的人質解放委員会は、デモを組織して暴動を起こした。囚人が釈放されたにもかかわらず、運動は拡大を続けている。1973年初頭、ダーヒー・オ・コネルとシェイマス・トゥーミーの影響下にあったIRA暫定派は、左翼と社会主義に転向し始めた。1974年、状況を落ち着かせようと、北アイルランドではシン・フェイン暫定派(アルスター義勇軍とともに)が認可され、6月には初めて地方自治体の選挙に参加した。1974年12月にプロテスタント聖職者の仲介を経て、イギリス政府との協議が行われ、12月22日にIRA暫定派がクリスマス休戦を発表した。
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1973年 - 1974年
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「アミターブ・バッチャン」の記事における「1973年 - 1974年」の解説
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