芸能界関係者の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:29 UTC 版)
初代キャスターを務めた『FNNスーパータイム』では、逸見の訃報をトップ項目として扱い、その死を悼んだ。この時訃報を伝えたのは、逸見の13期後輩である山中秀樹であり、『FNN NEWSCOM』の土曜版でも訃報をトップ項目として扱い、逸見の15期後輩である牧原俊幸が訃報を伝え、14期後輩である向坂樹興が生い立ち等のVTRナレーションを担当した。 告別式の行われた12月27日には、露木茂が『スーパータイム』でニュースを読み上げた。露木は癌を公表した記者会見の後、本番前の露木の元へ挨拶に来た逸見に「掛ける言葉が見つからなかった」というエピソードも明かしている。安藤優子は葬儀の模様をレポートし、生放送中のVTR終了後に嗚咽した。また、亡くなる前夜、危篤の一報を『NEWSCOM』で伝えた木村太郎は、逸見に最後のエールを送っている。 また、亡くなった直後に日本テレビで放送された『夜も一生けんめい。』では急遽内容を変更して緊急追悼特番を放送。入院に際して同番組の司会を引き継いでいた徳光和夫は、CM中にスタジオの隅で号泣していたとされ、のちに報道陣に向けてのインタビューでは「遺影を前にして、お別れの言葉なんてとても言えなかった…」と涙を流している。『SHOW by ショーバイ!!』で共に司会をした渡辺正行と電話を繋いだが、既に渡辺はショックのあまり嗚咽を漏らし続けながら慟哭し、終始声にならない声で心境を語った。 さらに、逸見のレギュラー番組だった『SHOW by ショーバイ!!』、『平成教育委員会』、『いつみても波瀾万丈』でも追悼特番を放送した。『平成教育委員会』は死去当日が放送日であったが、急遽追悼番組に切り替えられ、出演した天本英世は番組内で「日本人は遺憾ですね。国から会社から社会から、全てが狂ってますね。忙しいことがいいことなんて、とんでもない間違いです。芸能人も毎日多忙なのが良い俳優・タレントだなんて、余りにも馬鹿げてますよ。自分自身のことをもっと考えなきゃね。会社のためとか国の為とか、そんなもの絶対ダメですよ。『平成教育委員会』なんか春に越真一プロデューサーが32歳で自殺したんですからね。これで2人目ですよ。僕は今後あんなもの(『平成教育委員会』)に、ケラケラ笑って出たくないです」、「『仕事が趣味』だって言うのは可笑しいです。やっぱり体調が悪ければ、断らなきゃ駄目なんですよ」等と、終始憤慨しながら発言。天本は言葉通り、以降『平成教育委員会』には一切出演しないままこの世を去った。 逸見が解答者として出演した1993年春の『オールスター感謝祭』にて、総合司会の島田紳助は、春先に手術を受けていた逸見の本当の病名を知らずに、番組本番中に解答者席に座っていた逸見に向かって「実は癌なんです」「もうすぐ死にますよ」など冗談を言い放った。その後、紳助は自らの冗談が本当だったことに驚きながらも「やっぱりな」と感じたという。亡くなった日の夜に紳助はインタビューで「癌という重病を抱えているのに何で仕事してたんですか。ドアホですよ、逸見さんは」と泣きながらコメントを述べていた。 BIG3として共演が多かった明石家さんまは「逸見さんがテレビで癌を告白したとき、『この人はもう2度と帰ってこれないだろうな』と正直思いました。正直ね…」と、すでに逸見の死を覚悟していたと言う。加えて『SHOW by ショーバイ!!』にレギュラー出演していた高田純次は、癌告白の会見から死去するまでの約3か月間半が「あっという間だった…」と無念の胸中を語っている。さらに『なんてたって好奇心』で同時出演していた西田敏行は「なんで良い人ばかり逝っちゃうんですかね…残念です」と絶句。そして『いつみても波瀾万丈』で共演した野際陽子も「(番組で共演してから)まだ半年も経たない内に、まさかそんなに早く。絶対戻ってくると信じていたのに…」と言葉を詰まらせた。 また、ナンシー関は「他の芸能人の時とは違い、まるで自分の親戚が死んでしまったかのような気持ちになった」と逸見の死を悼んだ。他にも、同じ関西出身者という共通点から何度も番組で共演していたダウンタウンの2人も、「逸見さんには本当によくして頂き、感謝しています」と、涙ながらに語った。特番の『逸見・森口の平成初恋談義』で、一緒に司会を務めた森口博子は逸見の訃報に泣きじゃくり、『夜も一生けんめい。』等で共演した美川憲一も「クリスマスの日に逸見さんが亡くなるなんて…だから一生、忘れられないわね」と沈痛な表情を浮かべている。TBSで葬儀の模様を中継した特別番組(『スーパーワイド』のタイトル差し替え)でも、一期上の先輩だった司会の宮崎総子や葬儀場からリポートした同期の竹下典子が故人を惜しむコメントを残した。 ビートたけしは告別式にて、参列者席で号泣しており、隣席の山城新伍に「こんなにこたえることはないね…」と語ったという。前述の通り、自身にとって思い入れの番組だった『平成教育―』と『―ショーバイ』で立ち上げから長らく共演し、親友であり続けたたけしと山城は、1993年初頭の手術の際、実は癌であったことを本人からそれぞれ伝えられたと告白している。記者会見の前日、癌の再発で再入院する事実を告げられたたけしは、その日から告別式の日まで一切酒を断ち、告別式では「いい人ばかり先に死んじゃうんだ。俺がもっと悪いことを教えてあげれば良かった」と涙ながらに語った。1997年9月に『平成教育委員会』は最終回を迎えたが、番組終了時の記者会見でたけしは「逸見さんと最後までやりたかった。それが心残り」と述べている。 告別式の弔辞は、三木プロの三木治社長、松倉悦郎、山城新伍が読み上げた。 松倉悦郎「"逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず"と言いますが、こうして君の遺影の前に立っていると、30年間の思い出が走馬灯のように駆け巡ります。あのエネルギッシュで人懐っこい逸見政孝君が、命終してしまったなんて、未だに信じたくありません。逸見との出会いは昭和39年の4月、早稲田のキャンパスでした。今朝、早く起きてその場所へ行ってきました。30年前とまったく変わっていませんでした。弊衣破帽、素足に高下駄の逸見はバンカラそのもの。それでいて、神田川の近くの2階3畳間の下宿は塵ひとつなく、きちんと整理整頓されており、小さな黒板にはその日に間違えた言葉のアクセントが横書きに几帳面な字で記されていたのが印象的でした。大阪生まれ、大阪育ちの君は、アクセント、イントネーションのハンデ克服のため、百数十ページにも及ぶ発音アクセント辞典を最初のページから覚えはじめ、覚えた言葉は片っ端から赤鉛筆で塗りつぶし、大学4年間で3冊もダメにしてしまうなど、普通の人間には到底真似のできない、筋金入りの努力家でした。情熱家の逸見は、よく片思いもしました。人を好きになっては振られ、気分転換と称しては丸坊主になり、しばらくするとまた、別の女性に思いを寄せる、多い年は一年間に3回も頭を丸めたことを記憶しています。でも、マーちゃん!こうしたほろ苦い体験を重ねたからこそ、ハーちゃん、晴恵さんを射止めることができたのです。マーちゃん、ハーちゃんは今日も気丈に立ち居振舞っています。安心してください。昭和43年、私たちは幸運にもフジテレビジョンにアナウンサーとして入社することができました。逸見は報道、私はスポーツと仕事の分野は違っても、お互い切磋琢磨し、友人として、時にライバルとしてのよい関係が続きました。一度としてお互い気まずい思いをしたことがなかったのが、誇りとしているところです。アナウンサー生活20年を契機にフリーの道を選んだ君は、瞬く間にお茶の間の顔となりました。「アナウンサーは50歳までが勝負だ」という、予てからの持論を実践するかのように。そんな逸見が50歳前に逝ってしまうなんて、余りにも残酷すぎます。癌と闘うことを宣言してからの君は、最後まで弱音ひとつ吐きませんでした。お見舞いに行っても口をついて出るのは仕事の話。根っからの仕事大好き人間でした。律儀な君は、11月に私たちフジテレビのアナウンサー同窓会が開かれた時も、病床からメッセージを届けてくれました。「ご承知のように、私は今、癌と闘っています。癌患者にとって辛い言い方ですが、もし、来年命があれば、どんなことがあっても参加したいと思います。明日からいよいよ抗癌剤の投与です。頑張ります」。皆、涙なくしては読めませんでした。最後に見舞った時、ベッドから不自由な体を起こすようにして、私に手を振った君の姿。あれは何だったんでしょう。お別れの挨拶だったとは決して思いたくありません。12月24日、容体急変の知らせを受けて駆け付けたときの君は、今にも命の炎が燃え尽きてしまうかのようでした。そんな中で、「逸見!俺だよ!松倉だよ!わかるだろ!」という私の問いかけに、かすかではありましたが、反応を示してくれました。「明朝まで持てばいいでしょう」と言われるほどの悪い状態にも関わらず、君の強靭な精神力、生きることへの執念は、一度ならずも死線を乗り越えました。あの朦朧とした意識の中で、2度にわたって起き上がろうとした仕草は、やり残した仕事に対する未練だったに違いありません。今際の際まで仕事のことを思い続けた逸見。君の思いは必ずや、太郎君に受け継がれていくことでしょう。君が目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた愛ちゃんも、君の壮絶なる闘いを通して命の尊厳を深く深く心に刻んだに違いありません。ハーちゃんも、太郎君も、愛ちゃんも、お年を召したご両親も皆、しっかりしています。人一倍、心配性の君ですが、決して心配することはありません。どうか広々としたグリーンの上で、周囲に気を遣うことなく、好きなゴルフを心行くまで楽しんでください。30年間世話になりっぱなしでしたが、これからのお付き合いは倶会一処でと願っています。お別れに万感の思いをこめて…。ありがとう、逸見!さようなら、逸見政孝!!」 山城新伍「あなたの、その指で、原稿が長ければ巻きを入れてください。逸見さん、本当にご苦労さんでした。ご家族・全国のファンのみなさんの願いもむなしく逝ってしまったあなた。思えば今年の1月、あなたは普段と全く変わらぬにこやかな顔で、「山城さん、番組収録後10分か20分ちょっとお話ししたいんですが、時間はありますか?」と切り出されましたね。「もちろん」と答え部屋で待っていますと、あなたは真顔で「実は早期発見なので幸いでしたが、僕はがんです。」と切り出されました。プロデューサーの小杉(善信)さんと、僕と、三人きりでした。「世間に向けては違う病名として発表するが、本当のことを知っていてほしい」と、冷静な、時には笑顔を見せながら、僕に伝えてくれましたね。それはあなたの責任感が成せる技で、「1、2週ストックがなく抜けるので、僕に司会を代わってやってくれ」というために告白されました。「よ、頼むよ」で済む話をそこまで気を遣うなんて、なんといういい人なんだろうと僕の方が取り乱しそうになりました。「ほかにもご存じの方がいらっしゃるんですか?」と聞くと、「身内以外では山城さんと小杉プロデューサーだけです」とおっしゃいました。あなたの言葉通り、戻ってこられて番組を続けていたあなた。仕事への責任感とそれ以上に「仕事が好きで好きでたまらない」といった表情で、嬉々として仕事をしていたあなた。こんな結末が待っているとは想像だにできず、心の底から帰還を喜びました。秘密を知っている僕は、どうしても責任から他のメンバーには悟られないように、復帰後はプロレスでいう「善玉」と「悪玉」、いわゆる「ヒール」の二人で作った関係をさらに強め、あなたに友情ある、愛のある、ツッコミを仕掛けました。嬉しそうに受けてくれたあなた。そして、自らががんの告知に至る少し前のフジテレビの24時間番組(平成教育テレビ)のなかで、『平成教育委員会』に僕が出演した時、「24時間も出ずっぱりで、人一倍気遣いのあなたは大丈夫かな?」と心配がよぎりました。あなたの表情ばかり追っていると、あなたは膝を、偶然なのでしょうが、ガクッと折ったような、セットに躓いたような瞬間がありました。もちろんプロのあなたが画面に映るような場面じゃなく、CMに入って気をふっと抜かれた時にです。「大丈夫?」とそっと僕が聞くと、「大丈夫」とにっこり愛らしい人懐っこい笑顔で応えてくれましたね。あの一言が、あなたと交わす最後の一言になってしまいました。逸見さん、本当にありがとう。5年目を迎える短いお付き合いになってしまいましたが、年長の僕を立ててくれて、時には自宅に電話をくれて、「これこれこういう仕事が来ているんだ。これこれこういう理由で断ろうかと思うんですが、どう思いますか?」とか、慎重のあなたの中では結論が出ているだろうに、さらに確認のためによく電話をくれましたね。テレビの世界で頂点を極めたあなたの、謙虚な謙虚な一面でした。僕の映画の試写会に来てくれて、その後のパーティであなたと畑違いの映画関係の輪の中に僕がいる。人の群れの中で遠くにいたあなたと目線が合ったので、あなたのそばにいこうとすると手で制して、遠くから手で大きな輪を描いて「良かったよ」のサインを示して、去っていったあなた。涙が出そうになりました。(中略)毎年、12月25日はあなたを偲ぶ日です。やや時代錯誤で突然ですが、広沢虎造さんの浪曲で吉良の仁吉が亡くなった描写を、「ほしい男を亡くしたものだ」と次郎長さんが嘆くセリフがあります。本来の日本語なら「おしい男を亡くしたものだ」なのですが、何度聞いても「ほしい男」になっています。録音ミスかなとも思いましたが、あなたが去って行った今、ご家族にも、ファンの皆様にも、我々友人たちにとっても、「ほしい男」が正解のような気がします。もう一度言わせてください。「ほしい男を亡くしたものだ」。あなたが送ってくれたさわやかな風は、今も僕の心の中に吹いています。天国に悪人どもが増えたので、善人逸見さんを呼ぼうというのは、神様のわがままの様な気がします。悔しいです。さようなら逸見さん。たくさんの友情をありがとう。奥様、お子様達、こんな素敵な父を夫を持ったことを誇りにしてください。テレビらしく、どうやらあなたの指から巻きが入っています。とりあえずお別れします。友人代表ならぬ、一緒に愛した番組代表、山城新伍」
※この「芸能界関係者の反応」の解説は、「逸見政孝」の解説の一部です。
「芸能界関係者の反応」を含む「逸見政孝」の記事については、「逸見政孝」の概要を参照ください。
- 芸能界関係者の反応のページへのリンク