合唱組曲
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あるテーマに沿った複数の合唱曲を作曲家が一つにまとめた合唱組曲は、日本にその作品が多い。清水脩の男声合唱組曲「月光とピエロ」(1949年)によってこの形態が普及した。無伴奏、もしくはピアノ伴奏によるものが大多数である。他の形態の組曲と同じく、個々の曲を単独で演奏することも多い。
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合唱組曲
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1952年(昭和27年)、東京藝術大学内で開催された「原爆の図」の移動展覧会に合わせて、林は外山雄三、間宮芳生、寺島尚彦らとともに「原爆の図」を囲んだコンサートを企画した。林は『原民喜詩集』を入手、詩集から「永遠のみどり」を選び、演奏時間2分ほどの八重唱曲に作曲、展示会場内で初演した。これがのちの『原爆小景』の組曲化の出発点となる。 1958年(昭和33年)、東京混声合唱団(東混)の委嘱により、林は原の詩集の出版当時から「あたためていたものなんですが、この年にやっと手をつけるということになった」としていた詩集から「水ヲ下サイ」を選び、単曲の混声合唱曲として作曲、同年6月の東混の定期演奏会にて『原爆小景によるカンタータ』と名付け、岩城宏之の指揮で初演された。このとき林は、「水ヲ下サイ」を第1楽章、「永遠のみどり」を第2楽章とする構想であったが、第2楽章は「どうしてもそれが書けなかった」。 1971年(昭和46年)、「『原爆小景』をぜひ終りまでやりたい」という東混の委嘱により、「水ヲ下サイ」「日ノ暮レチカク」「夜」の全3楽章の無伴奏混声合唱組曲として発表、岩城の指揮で初演された。このときも「永遠のみどり」を最終楽章とする構想を持っていたが、「「夜」を書いているギリギリまで、できれば「永遠のみどり」までいきたいと、諦めてなかったんですが、最終的には「夜」でもって、この曲はひとかたまりということになったんですね」として実現しなかった。旧版の出版譜の巻頭において「「永遠のみどり」がうたわれることで、おそろしい同時代の歴史劇である『原爆小景』は終わる、終われるのだと私は思う。だが、核の恐怖がなにひとつ解決していない今、<<ヒロシマのデルタに若葉うずまけ>>などという詩句に作曲することが可能だろうか。この15年というもの1年おきくらいに思い立って第1行めを書きはじめては、そこから先をつづけることができなかったのは、このような問いが立ちはだかるからだった」と林は胸の内を明かしている。 東混はその後、『原爆小景』を毎年演奏しようと、「八月のまつり」という演奏会を1980年(昭和55年)から毎年開催することになる。1982年(昭和57年)の「八月のまつり」に際し、「今まで考えていた『原爆小景』の最終楽章としての「永遠のみどり」とちょっと違った考え方が出てきた」として、林の自作詩2編を第1楽章、第2楽章とし「永遠のみどり」を第3楽章とする『新原爆小景 あるいは平和の使徒たちのパレードと死者たちの歌』を作曲、林の指揮で初演した。もっともこれは「音楽作品としてはあまり成功してない」。 新しく再生する広島という詩本来の意味を込めた「永遠のみどり」が『原爆小景』の最終楽章として組み込まれ、「完結版」として発表されたのは2001年のことである。「グローバル・ピース・フェスティバル愛知」の委嘱により作曲され、同年8月5日に作曲家本人の指揮、同フェスティバル参加合唱団により初演された。
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合唱組曲
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課題曲版をベースに片岡・平吉のコンビで組曲化の構想が持ち上がり、混声合唱組曲としての「わが里程標」が作曲された。
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合唱組曲
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2010年(平成22年)に、新実徳英により混声合唱組曲が作られている。 混声合唱組曲『火垂るの墓』 第33回演奏会 神戸市役所センター合唱団2010年(平成22年)11月19日 神戸文化ホール中ホール 作曲:新実徳英。作詞:車木蓉子。 構成は、「1.駅」、「2.火垂る」、「3.飢え」、「4.悔」、「5.愛―蛍」、「6.臨―声」の、6から成る。 ※ 被爆・終戦65周年記念特別企画。
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合唱組曲
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同年に東洋大学混声合唱団の委嘱により、課題曲の「海はなかった」を基に、「日本は海に囲まれているから、海を書けば日本の今の状況を表現できる」として、岩間の書き下ろしの詩3編を加え、ヴォカリーズの章と合わせて全5楽章の組曲とした。組曲はたちまち人気となり、廣瀬の死去までに50刷を超え、世代をこえて広く歌い継がれた。
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合唱組曲
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ポータル クラシック音楽 1996年(平成8年)から1999年(平成11年)にかけて、福島県立安積女子高等学校(現・福島県立安積黎明高等学校)女声合唱団の委嘱により作曲され、同校のコンクール自由曲として1~2曲ずつ書きおろされた。全曲の初演は、第1集は1997年7月27日の同校第27回定期演奏会で菅野正美の指揮、東みのりのピアノ、第2集は1999年7月24日の同校第29回定期演奏会で星英一の指揮、東みのりのピアノで行われた。 菅野は委嘱にあたり、「最も美しく、純粋で輝きに満ちた声、繊細で感受性に富んだ高校生世代のための合唱曲が誕生して欲しい」という願いを鈴木に伝え、「何の制約も持たず、描きたい原風景を、心置きなくお書きください」「(部員数が100名を超えていたので)100声部までの曲でしたら対応できます」と、制作の一切を鈴木に委ねた。鈴木は組曲の構成上、谷川の詩を大きく2つに分け、第1集は「この世に生まれ出る以前から二人の人間が現実的に出会う前のそれぞれの幻影の中での触れ合い、惹き合う魂の予感が描かれている」。第2集は「現実の出会いから始まり、死を超えて共に生きる永遠の絆で完結する」。「しかしそれは終わることのない魂の輪廻であり、ドラマは遂に満ちたところから再び逆行し、始まりは終わりとなり終わりは始まりになる。旋律は閉じられない弧のように循環する」とされ、終曲「死-後生」の最終テーマは第1曲「未生-誕生」のテーマに回帰する。 谷川の『女に』におさめられた36篇の詩のうち、第1集と第2集で25篇が用いられた。作曲されなかった11篇のうち7篇については2017年から2019年にかけて作曲され、「女に 第3組曲」としてまとめられた。全曲初演は、星英一指揮、安積黎明高等学校合唱団、鈴木あずさのピアノにより行われた。
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合唱組曲
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ポータル クラシック音楽 1971年(昭和46年)度文化庁芸術祭参加作品として、中部日本放送の委嘱により混声合唱版が作曲され、同年度の芸術祭優秀賞を獲得した。放送初演は同年11月、合唱=日本合唱協会、指揮=木下保、ピアノ=三浦洋一。萩原自身、「放送後の反響がすさまじかった」「これが合唱の作品を書く励みになりました」と語るように、その斬新かつ精緻な作曲技法と清冽な詩情により、瞬く間に全国各地に多大な関心を呼び、1977年には女声合唱版が刊行された。男声合唱版は福永陽一郎の編曲によるものがある。 萩原は矢沢の詩集を読んだとき、「私の心に、音響化されるべき"想い"が浮かびあがった」「このような日本語に遭遇したのは久しぶりのことだった」「二、三度詩を読み返した時、すでに自分の中に音楽が生まれた」と語る。後に萩原が作曲する『白い木馬』(詩:ブッシュ孝子、1974年)、『花さまざま』(詩:細川宏、1979年)とともに「遺稿三部作」とされる。 萩原の合唱組曲で奇数曲をまとめたものは、「中心となる曲(『光る砂漠』であれば5曲目)の曲に対してシンメトリーをかたちづくることを意識し」ている。「セザール・フランクの循環形式が、有機体の生成の比喩で説明できることに、非常に興味をもっていろいろ研究したので、(中略)その成果が意識的に用いられているんです」としている。 組曲のタイトルは詩集のタイトルであるほか、矢澤20歳の時の詩「少年」の一節で、この詩は出版譜の前書きとして載せられている。 出版譜の巻末には、組曲のテーマとしてジャック・アルカデルト作曲の「Ave Maria」のテーマ「ラソラファソラ」を逆から読んだ音型を組曲のテーマとした旨の解説が載せられている。
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合唱組曲
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課題曲としての「ある真夜中に」をもとに、同名の合唱組曲が編まれた。愛の四つの階梯「迷いと苦悩」「愛する幸せと感謝」「祈り」「時空を超えた愛」を四曲に託している。まず男声合唱版が2007年3月に初演され、次いで女声合唱版、混声合唱版も発表されている。
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合唱組曲
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新実徳英が吉原の詩に関心を持つきっかけとなったのが、吉原が作詩した1976年度NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部課題曲「旅に出よう」(作曲:大中恩)である。1977年秋、新実は詩集『幼年連祷』の中の「花」を混声合唱曲として作曲、同年の笹川賞第1位を受賞。当時の新実は、「普通の詩、抒情的な詩に抒情的な音楽をつけるなんてことはできない」と考えていたが、「花」の入選で「やればできるのかな」と考えを改め、これを5曲からなる組曲にすることを構想する。1980年7月25日、新宿文化センターホールにおいて松原混声合唱団、指揮=関屋晋、ピアノ=田中瑤子により組曲全曲が初演された。以降、全国の合唱団のレパートリーに加えられる作品となる。 『幼年連祷』は「混声合唱ということを非常に強く意識して書いた作品」であり、「他の形態に直らない」「(同声合唱への編曲を)何度か頼まれているのですが、ずっとお断りし続けているんです」と新実自身が語っている。後に福永陽一郎によって男声合唱への編曲がなされたが、出版はされていない。 『幼年連祷』に影響を受けた作曲家の一人に、東京藝術大学で新実の後輩であった西村朗がいる。「歌曲とか合唱曲とか、オペラ的なものへの関心は、はっきり言ってほとんどなかった」という西村が書いた「まぼろしの薔薇」(作詩:大手拓次、1984年)は西村の作品の中では明らかに異色であり、「(ヘテロフォニーで名を馳せた西村が)和声的な様式で書いた初めての曲」「『幼年連祷』の影響がかなりある」と述べるに至っている。 新実と吉原のコンビによる合唱曲には、ほかに「愛」「HELP!」「日没」「翔ぶ」に曲をつけた女声合唱とピアノのために「失われた時への挽歌」(1984年)、女声合唱、三絃、コントラバスのために「をとこ・をんな」(1988年)がある。
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合唱組曲
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「風になりたい (寺嶋陸也)」の記事における「合唱組曲」の解説
課題曲としての「風になりたい」をもとに、同名の合唱組曲が編まれた。混声合唱版が2006年、女声合唱版が2007年に発表されている。 寺嶋は「課題曲の《風になりたい》を、私は「合唱」というよりは「歌」というもののあり方について、より深く考えて演奏してほしい、と思いながら作曲しました。(中略)密かなその意図を理解してくれた人が意外と多かったことは嬉しいことでした。あとの3曲は、いわばそれに力を得ての、さらなる延長線上にあるものです。」とする。
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合唱組曲
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ポータル クラシック音楽 清水は第1回全日本合唱コンクール(1948年)の課題曲公募に際し、詩集の中から「秋のピエロ」を選び、単曲の男声合唱曲として作曲し応募した。結果、課題曲として採択される。清水は長期留学の経験はないものの、大阪外国語大学フランス語科を卒業していてフランス語が堪能であり、広くヨーロッパの文化に精通していたことから、堀口の代表作『月下の一群』をはじめとする訳詩集にも触れていた。 「秋のピエロ」が好評を得たことにより、のちに清水は、詩集から4編の詩を選び、「秋のピエロ」も加えた全5曲の男声合唱曲を作曲する。このとき連作歌曲様式を採用したことが、日本のみならず世界初の「合唱組曲」となった。1949年に清水自らの指揮で東京男声合唱団によって初演した。のちに混声合唱でも編曲されている。 ヨーロッパの悲恋を題材としながらも、曲自体は日本の伝統的な音階を基調にして作曲されていて、これにより日本の合唱愛好家に広く受け入れられ今日まで長く演奏され続けている。
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合唱組曲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:14 UTC 版)
課題曲としての「ひとつの朝」をベースに片岡・平吉のコンビで「友達をテーマにした新しい作品を作る企画」が持ち上がり、1982年(昭和57年)9月、下田正幸指揮、コール・フロイントの合唱によって混声合唱組曲『ひとつの朝』が初演された。同月、音楽之友社によって楽譜も出版された。作曲に当たっては、この前年にNHK全国学校音楽コンクール高等学校の部最優秀賞を獲得した東京都立八潮高等学校がモデルとされた。片岡はこの組曲を、「いま、若さのまっただなかにいるあなたへ、若さを若さのまま存分に生ききってほしいという願いを込めて捧げるオマージュ(賛歌)です」と述べている。
※この「合唱組曲」の解説は、「ひとつの朝」の解説の一部です。
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