合唱組曲とは? わかりやすく解説

合唱組曲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:19 UTC 版)

合唱」の記事における「合唱組曲」の解説

あるテーマ沿った複数合唱曲作曲家一つにまとめた合唱組曲は、日本その作品が多い。清水脩男声合唱組曲月光とピエロ」(1949年)によってこの形態普及した無伴奏もしくはピアノ伴奏よるもの大多数である。他の形態の組曲同じく個々の曲を単独演奏することも多い。

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合唱組曲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 03:34 UTC 版)

原爆小景」の記事における「合唱組曲」の解説

1952年昭和27年)、東京藝術大学内で開催された「原爆の図」の移動展覧会合わせて外山雄三間宮芳生寺島尚彦とともに原爆の図」を囲んだコンサート企画したは『原民喜詩集』を入手詩集から「永遠のみどり」を選び演奏時間2分ほどの八重唱曲に作曲展示会場内初演した。これがのちの『原爆小景』の組曲化の出発点となる。 1958年昭和33年)、東京混声合唱団(東混)の委嘱により、は原の詩集出版当時から「あたためていたものなんですが、この年にやっと手をつけるということになった」としていた詩集から「ヲ下サイ」を選び単曲混声合唱曲として作曲同年6月の東混の定期演奏会にて『原爆小景によるカンタータ』と名付け岩城宏之指揮初演された。このときは、「ヲ下サイ」を第1楽章、「永遠のみどり」を第2楽章とする構想であったが、第2楽章は「どうしてもそれが書けなかった」。 1971年昭和46年)、「『原爆小景』をぜひ終りまでやりたい」という東混の委嘱により、「ヲ下サイ」「日ノ暮レチカク」「夜」の全3楽章無伴奏混声合唱組曲として発表岩城指揮初演された。このときも「永遠のみどり」を最終楽章とする構想持っていたが、「「夜」を書いているギリギリまで、できれば永遠のみどり」までいきたいと、諦めてかったんですが、最終的には「夜」でもって、この曲はひとかたまりということになったんですね」として実現しなかった。旧版出版譜の巻頭において「「永遠のみどり」がうたわれることで、おそろし同時代歴史劇である『原爆小景』は終わる、終われるのだと私は思う。だが、核の恐怖なにひとつ解決していない今、<<ヒロシマのデルタに若葉うずまけ>>などという詩句作曲することが可能だろうか。この15年というもの1年おきくらいに思い立って第1行めを書きはじめては、そこから先をつづけることができなかったのは、このような問い立ちはだかるからだった」と胸の内明かしている。 東混はその後、『原爆小景』を毎年演奏しようと、「八月のまつり」という演奏会1980年昭和55年)から毎年開催することになる。1982年昭和57年)の「八月のまつり」に際し、「今まで考えていた『原爆小景』の最終楽章としての永遠のみどり」とちょっと違った考え方出てきた」として、自作詩2編を第1楽章第2楽章とし「永遠のみどり」を第3楽章とする『新原小景 あるいは平和の使徒たちパレード死者たちの歌』を作曲指揮初演した。もっともこれは「音楽作品としてはあまり成功してない」。 新しく再生する広島という詩本来の意味込めた永遠のみどり」が『原爆小景』の最終楽章として組み込まれ、「完結版」として発表されたのは2001年のことである。「グローバル・ピース・フェスティバル愛知」の委嘱により作曲され同年8月5日作曲家本人指揮、同フェスティバル参加合唱団により初演された。

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合唱組曲

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わが里程標」の記事における「合唱組曲」の解説

課題曲版をベース片岡平吉コンビ組曲化の構想持ち上がり混声合唱組曲としてのわが里程標」が作曲された。

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合唱組曲

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火垂るの墓」の記事における「合唱組曲」の解説

2010年平成22年)に、新実徳英により混声合唱組曲作られている。 混声合唱組曲『火垂るの墓』 第33回演奏会 神戸市役所センター合唱団2010年平成22年11月19日 神戸文化ホール中ホール 作曲新実徳英作詞車木蓉子構成は、「1.駅」、「2.火垂る」、「3.飢え」、「4.悔」、「5.愛―」、「6.臨―声」の、6から成る。 ※ 被爆終戦65周年記念特別企画

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合唱組曲

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海の詩」の記事における「合唱組曲」の解説

同年東洋大学混声合唱団委嘱により、課題曲の「海はなかった」を基に、「日本は海に囲まれているから、海を書けば日本の今の状況表現できる」として、岩間書き下ろしの詩3編を加えヴォカリーズの章と合わせて全5楽章組曲とした。組曲はたちまち人気となり、廣瀬死去まで50刷を超え世代をこえて広く歌い継がれた。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 06:38 UTC 版)

女に」の記事における「合唱組曲」の解説

ポータル クラシック音楽 1996年平成8年)から1999年平成11年)にかけて、福島県立安積女子高等学校現・福島県安積黎明高等学校女声合唱団の委嘱により作曲され同校コンクール自由曲として1~2曲ずつ書きおろされた。全曲初演は、第1集1997年7月27日同校第27回定期演奏会菅野正美指揮、東みのりのピアノ第2集1999年7月24日同校第29回定期演奏会で星英一指揮、東みのりのピアノ行われた菅野委嘱にあたり、「最も美しく、純粋で輝き満ちた声、繊細感受性富んだ高校生世代のための合唱曲誕生して欲しい」という願い鈴木伝え、「何の制約持たず描きたい原風景を、心置きなく書きください」「(部員数100名を超えていたので)100声部までの曲でしたら対応できます」と、制作一切鈴木委ねた鈴木組曲の構成上、谷川の詩を大きく2つ分け第1集は「この世生まれ出る以前から二人の人間現実的に出会う前のそれぞれの幻影の中での触れ合い惹き合う魂の予感描かれている」。第2集は「現実出会いから始まり、死を超えて共に生きる永遠の絆完結する」。「しかしそれは終わることのない魂の輪廻であり、ドラマ遂に満ちたところから再び逆行し始まり終わりとなり終わり始まりになる。旋律閉じられない弧のように循環する」とされ、終曲死-後生」の最終テーマは第1曲「未生-誕生」のテーマ回帰する谷川の『女に』におさめられ36篇の詩のうち、第1集第2集25篇が用いられた。作曲されなかった11篇のうち7篇については2017年から2019年にかけて作曲され、「女に 第3組曲」としてまとめられた。全曲初演は、星英一指揮安積黎明高等学校合唱団鈴木あずさピアノにより行われた

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合唱組曲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/20 15:44 UTC 版)

光る砂漠」の記事における「合唱組曲」の解説

ポータル クラシック音楽 1971年昭和46年)度文化庁芸術祭参加作品として、中部日本放送委嘱により混声合唱版が作曲され同年度の芸術祭優秀賞獲得した放送初演同年11月合唱日本合唱協会指揮木下保ピアノ三浦洋一萩原自身、「放送後反響すさまじかった」「これが合唱作品を書く励みなりました」と語るように、その斬新かつ精緻な作曲技法清冽な詩情により、瞬く間全国各地多大な関心呼び1977年には女声合唱版が刊行された。男声合唱版は福永陽一郎編曲よるものがある。 萩原矢沢詩集読んだとき、「私の心に、音響化されるべき"想い"が浮かびあがった」「このような日本語遭遇したのは久しぶりのことだった」「二、三度詩を読み返した時、すでに自分中に音楽生まれた」と語る。後に萩原作曲する『白い木馬』(詩:ブッシュ孝子1974年)、『花さまざま』(詩:細川宏、1979年とともに遺稿三部作とされる萩原の合唱組曲で奇数曲をまとめたものは、「中心となる曲(『光る砂漠であれば5曲目)の曲に対してシンメトリーかたちづくることを意識し」ている。「セザール・フランク循環形式が、有機体生成比喩説明できることに、非常に興味をもっていろいろ研究したので、(中略)その成果意識的に用いられているんです」としている。 組曲タイトル詩集タイトルであるほか、矢澤20歳時の詩「少年」の一節で、この詩は出版譜の前書きとして載せられている。 出版譜の巻末には、組曲テーマとしてジャック・アルカデルト作曲の「Ave Maria」のテーマ「ラソラファソラ」を逆から読んだ音型を組曲テーマとした旨の解説載せられている。

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合唱組曲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/21 03:22 UTC 版)

ある真夜中に」の記事における「合唱組曲」の解説

課題曲としてのある真夜中に」をもとに、同名の合唱組曲が編まれた。愛の四つ階梯迷い苦悩」「愛す幸せ感謝」「祈り」「時空超えた愛」を四曲に託している。まず男声合唱版が2007年3月初演され次いで女声合唱版、混声合唱版も発表されている。

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合唱組曲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/03 18:07 UTC 版)

幼年連祷」の記事における「合唱組曲」の解説

新実徳英吉原の詩に関心を持つきっかけとなったのが、吉原作詩した1976年NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部課題曲「旅に出よう」作曲:大中恩)である。1977年秋、新実詩集幼年連祷』の中の「花」混声合唱曲として作曲同年笹川賞第1位受賞当時新実は、「普通の詩、抒情的な詩抒情的な音楽をつけるなんてことはできない」と考えていたが、「花」入選で「やればできるのかな」と考え改め、これを5曲からなる組曲にすることを構想する。1980年7月25日新宿文化センターホールにおいて松原混声合唱団指揮関屋晋ピアノ田中瑤子により組曲全曲初演された。以降全国合唱団レパートリー加えられる作品となる。 『幼年連祷』は「混声合唱ということを非常に強く意識して書いた作品」であり、「他の形態に直らない」「(同声合唱への編曲を)何度頼まれているのですが、ずっとお断り続けているんです」と新実自身語っている。後に福永陽一郎によって男声合唱への編曲なされたが、出版はされていない。 『幼年連祷』に影響受けた作曲家一人に、東京藝術大学新実後輩であった西村朗がいる。「歌曲とか合唱曲とか、オペラ的なものへの関心は、はっきり言ってほとんどなかった」という西村書いたまぼろしの薔薇」(作詩:大手拓次1984年)は西村作品の中では明らかに異色であり、「(ヘテロフォニー名を馳せた西村が)和声的様式書いた初めての曲」「『幼年連祷』の影響かなりある」と述べるに至っている。 新実吉原コンビによる合唱曲には、ほかに「愛」「HELP!」「日没」「翔ぶ」に曲をつけた女声合唱ピアノのために失われた時への挽歌」(1984年)、女声合唱三絃コントラバスのために「をとこ・をんな」(1988年)がある。

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合唱組曲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/04 17:43 UTC 版)

風になりたい (寺嶋陸也)」の記事における「合唱組曲」の解説

課題曲としての風になりたい」をもとに、同名の合唱組曲が編まれた。混声合唱版が2006年女声合唱版が2007年発表されている。 寺嶋は「課題曲の《風になりたい》を、私は「合唱」というよりは「歌」というもののあり方について、より深く考えて演奏してほしい、と思いながら作曲しました。(中略密かなその意図理解してくれた人が意外と多かったことは嬉しいことでした。あとの3曲は、いわばそれに力を得ての、さらなる延長線上にあるものです。」とする。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 16:48 UTC 版)

月光とピエロ」の記事における「合唱組曲」の解説

ポータル クラシック音楽 清水第1回全日本合唱コンクール1948年)の課題曲公募際し詩集の中から「秋のピエロ」を選び単曲男声合唱曲として作曲し応募した結果課題曲として採択される。清水長期留学経験はないものの、大阪外国語大学フランス語科卒業していてフランス語堪能であり、広くヨーロッパ文化精通していたことから、堀口代表作月下の一群』をはじめとする訳詩集にも触れていた。 「秋のピエロ」が好評得たことにより、のちに清水は、詩集から4編の詩を選び、「秋のピエロ」も加えた全5曲の男声合唱曲を作曲する。このとき連作歌曲様式採用したことが、日本のみならず世界初の「合唱組曲」となった1949年清水自らの指揮東京男声合唱団によって初演した。のちに混声合唱でも編曲されている。 ヨーロッパ悲恋題材しながらも、曲自体日本の伝統的な音階基調にして作曲されていて、これにより日本合唱愛好家広く受け入れられ今日まで長く演奏され続けている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:14 UTC 版)

ひとつの朝」の記事における「合唱組曲」の解説

課題曲としてのひとつの朝」をベース片岡平吉コンビで「友達テーマにした新し作品作る企画」が持ち上がり1982年昭和57年9月下田正幸指揮コール・フロイント合唱によって混声合唱組曲ひとつの朝』が初演された。同月音楽之友社によって楽譜出版された。作曲当たっては、この前年にNHK全国学校音楽コンクール高等学校の部最優秀賞獲得した東京都立八潮高等学校モデルとされた。片岡はこの組曲を、「いま、若さまっただなかにいるあなたへ若さ若さのまま存分に生ききってほしいという願い込めて捧げるオマージュ賛歌)です」と述べている。

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