田中瑤子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/09 01:07 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動田中 瑤子(たなか ようこ、1932年4月22日 - 1999年9月11日[1])は、日本のピアニスト。鳥取県出身。夫は合唱指揮者で東京混声合唱団の桂冠指揮者である田中信昭[1]。日本演奏連盟、日本現代音楽協会所属[1]。
アンサンブル・ピアニストとして合唱団と共演することも多く、数多くの合唱組曲の初演にピアニストとして関わった。特に三善晃からの信頼は厚く、「五つの童画」や「オデコのこいつ」、「交聲詩 海」など、多くの三善晃の作品の初演のピアノを担当している。
人物
三人姉妹の長女で、21歳下の弟と、25歳下の妹がいる。
来歴
出生から中学1年生まで
3歳でピアノを習い始め、4歳の時からピアノやソルフェージュを学ばせるため、他人との協調性を学ばせるため、父親の意見で東京少年少女合唱隊に入れられた。
中学2年生から大学卒業まで
中学2年生の4月に元銀行員の父を亡くし、住宅会社に勤める外交員の母親と母方の祖母によって育てられた。有賀との初めてのレッスンではチェルニー50番を弾いた。それを聴いた有賀は「あと一年半で……」と一言感想を漏らした。当時練習していたチェルニー50番をチェルニー30番へと戻され、基礎から学びなおすことになった。当時には相当なカルチャーショックであった。高校受験の自由曲はシューマンのノヴェレッテでビリから5番目の成績で合格した。 高校1年生の時に母親がグランドピアノを購入し、防音のために家を改築する。田中は有名になった後も終生このピアノを大切に使った。この年の夏休みに一日12時間もの猛練習で急速に実力を伸ばした。東京藝術大学ピアノ科に入学し、藤村るり子、福井直俊、ハンス・カンに師事[2]。これは有名なピアニストの伝記を読んでヒントを得たもので、『徹子の部屋』で語ったところによれば、「片手ずつゆっくりさらい、完全に出来るようになったら片手ずつ速くさらい、それができたら今度は両手でゆっくりさらい、それが完全にできるようになったら、最後に両手で速くさらう」という地道なものであったが、これを実際に実行すると長い練習時間を必要とする。大学入学直後に肺結核に罹患する[1]も、病と戦いながら1956年に同大学を卒業[2]。
大学卒業から30代まで
1956年、合唱指揮者の田中信昭が中心となり創立された東京混声合唱団の活動に参加。その後も指揮:田中信昭、ピアノ:田中瑤子という組み合わせで多数の公演に出演した[2]。
30代~40代
30歳代にはN響とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のソリストも務めている。この頃はクラシックの仕事も徐々に増やし、また軽音楽奏者としても幅広く活躍するようになっていった。1965年に遊学のためニューヨークに渡ったことをきっかけに、度々アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国での公演を持つようになる[2]。
40代~50代
40歳代には、ピアノ演奏は多少するが、難度のやや高い曲にとどまっている(別れの曲など)。クラシックを気楽に聴けるように編曲・録音にも力を入れた。1977年、自身初となるソロリサイタルを開催。
50代~60代
50歳代には、第10番『オクターヴ』 - 第11番『木枯らし』を録音にも力を入れた。
60代~死去まで
1993年9月1日に急性白血病を受け即入院。1994年3月に療養後復帰。1997年12月13日の朝、顔色が悪いのを次女に指摘され病院を受診。その病院で倒れて一週間意識不明となる。ICUで1週間過ごし血液透析を2回繰り返してなんとか一命を取り留めた。体調不良のため不定期にコンサートのキャンセルなどを余儀なくされていた。療養後は色白だった顔がやや色黒に見えている。 療養後の演奏活動としてはクラシック音楽への原点回帰を思わせ、純粋なクラシック演奏会を自主的に開く。ピアノ三重奏、ピアノ協奏曲などを積極的に取り上げた。演奏会直前に入院を余儀なくされたが、病室に電子ピアノを持ち込んで練習を重ね( 2つのラプソディ、1番ロ短調、2番ト短調)、演奏会当日に高熱を押して見事コンサートを最後まで持ちこたえた。 1998年4月、体調悪化に伴い入院。休養に専念するようになる。1999年9月11日深夜12時45分、急性白血病のため東京都渋谷区の病院で死去。67歳没。
CD
- 『田中瑤子の1・2・3 ~ひとりのピアニストと2台のピアノと3人の作曲家たち』(日本アコースティックレコーズ、2009年)
- 1984年3月26日に日本都市センターホールで行われた公演を収録。林光、新実徳英、三善晃のピアノ曲を取り上げた演奏会で、2台ピアノという形で3者と共演している。
脚注
- 田中瑤子のページへのリンク