創設経緯
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介護保険法が制定される以前の日本の公的介護制度は、老人福祉法による福祉の措置として、やむを得ない事由による行政措置の範疇に留まっていた。しかし、社会の高齢化に伴い、介護が必要な高齢者が増加し、医療の進歩や平均寿命が延びるなどにより介護期間が長期化したことで介護の需要が増していた。また拡大家族から核家族へ移行するなか、高齢者が高齢者を介護する「老老介護」が出現し、従前の家族だけで介護をすることを想定した老人福祉・老人医療制度では対応が限界を迎えていた。このような背景により、高齢者を社会全体で支える仕組みが必要となった。 制度創設の議論は平成に入ってから行われ、ゴールドプランなどの政策と合わせて、おおむねドイツの介護保険制度をモデルに創設した。介護保険料については、新たな負担に対する世論の反発を避けるため、導入当初は半年間徴収が凍結され、平成12年(2000年)10月から半額徴収、平成13年(2001年)10月から全額徴収という経緯をたどっている。
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創設経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 10:05 UTC 版)
浦和レッズはより地域文化に根ざした総合型スポーツクラブ作り(Jリーグ百年構想)に着手するための一環として以前から浦和市(現・さいたま市)内に建設する構想を暖めていた。 そんな中、以前よりレッズの練習にも使用していた桜区の荒川河川敷にある東京農業大学のグラウンドの広大な敷地を、東農大が2006年3月で切れる敷地の借地契約を更新せず、運動場を移転することになり、同大学がこの運動場敷地の新たな借主を探していたことから情報収集に努め、その構想実現が可能と判断。2004年3月の開幕前に開かれた「レッズ2004年シーズンを語る会」で「レッズランド計画」が初めて公表された。そして地権者と東京農業大学と浦和レッズの3者で話し合い、浦和レッズが2006年3月以降の長期借地契約を結んだものである。 2005年4月25日から着工し2007年内の完工予定を目指していたが、当初は設計の部分的な見直しも含めて流動的な部分も多かった。もっとも、当初から東京農業大学グラウンド時代の旧施設を再利用しながら段階的に新施設を整備していく方針を取り、着工後3ヶ月も待たない2005年7月17日に先行開業という形で営業を開始している。 目標はスポーツを通しての健全な育成と健康増進で、これまで学校や企業が中心だったそれらの育成に地域コミュニティーが加わって三位一体の運営に取り組む。市民は会員登録(有料)を行えば、優先的に施設を利用できる。(会員でない一般市民も利用可だが、割り増しになる) この先行開業(仮オープン)の時点では、暫定でサッカーグラウンドと野球場、並びにサッカーとラグビーを併設したグラウンド等が設けられ、今後はサッカーグラウンド4面、フットサルコート8面、ラグビーグラウンド1面、野球場1面、テニス場11面、レンタルサイクルコース、野外活動拠点としてのキャンプ場などを向こう3年間かけて整備していく他、浦和レッズの下部組織の練習拠点としても使用される予定とされていた。 この先行開業にあたり第1次会員募集を行なったところ、定員500名に対し1,235名の応募があった(応募書類総数483通。内訳:個人会員222名、ファミリー会員170家族449名、チーム会員91チーム564名)。もともと応募者多数の場合は抽選を実施するとしていたが、抽選で地元さいたま市・埼玉県の応募者ができるだけ落選しないように定員を精一杯の750名に急遽増やしホームタウン優先枠を設けて対応したという。 先行開業日には記念式典があり相川宗一さいたま市長と川淵三郎日本サッカー協会会長が祝辞を述べ、福田正博(元浦和レッズ)、保坂信之(元浦和レッズ)、中野浩一(競輪解説者)、池山隆寛(元ヤクルトスワローズ、現二軍監督)、松沼博久(元西武ライオンズ)、藪木宏之(元神戸製鋼ラグビー部)、溝口美貴(元プロテニス選手JOP最高3位)による教室が開催され約2,400人を集めた。 レッズランドと命名したのは当時の犬飼基昭浦和レッズ社長で、当初は仮の名前であったが浦和レッズ2004年シーズンを語る会での構想発表後に報道を通じて急速に浸透したため商標登録した。 浦和レッズは2007年までに十数億円を投資すると見られていたが、レッズランドを主要な収益源として考えていないことを発表していた。運営費の財源は会費収入と施設利用料、地元さいたま市・埼玉県の企業を中心にした協賛金としている。目標規模は会員1万人程度で、NPOないし株式会社として浦和レッズから独立させることも計画されている。
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創設経緯
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1982年に通産省(現・経済産業省)から、岡田茂映連会長に1985年のつくば万博に合わせて国際映画祭をやれないかという要請があった。岡田に話を持ち掛けたのは小長啓一通産省政策局長とされる。通産省としては衰退の一途を辿る国内映画産業が復活の兆しが見えないため、国際映画祭という刺激を与えることで喝を入れたいという話で、つくば万博に合わせ、一週間程度の期間で東京で開く案が有力視され、少なくとも二年に一回の開催とし、定期的な国際映画祭に育てていくという基本的なプランを映連で1982年7月末にまとめた。つくば万博の目玉がないため、映画祭の案が出たものと見られたが、日本政府からの援助は1億2000万円。1983年1月から2月にかけて第二回マニラ国際映画祭に岡田を団長とする映連幹部が参加し、同映画祭の運営の詳細を聞いたところ予算が約4億円で、その金額でも参加65ヵ国、約1000人のバイヤーの費用その他は賄えないと同映画祭を個人的な趣味で始めたといわれるイメルダ・マルコスから聞いた。映画祭の記者会見の席上、現地メディアから「日本で国際映画祭はやらないのか」という質問が出たため、岡田は「通産省からその種のものをやってくれないかという要請は来ているが、とても日本ではこういう映画祭は考えられない」と答えた。東洋の国、特に日本は地理的なハンデもあり、国際映画祭を行うと参加国の交通費など欧米と比べて資金が高くつくし、文化的に価値のあるものに金を出さないというお国柄で、映画業界にも金はないため、政府援助1億2000万円程度で開催できる筈もなかった。余程強力なスポンサーでも見つけない限り、日本での国際映画祭開催は不可能と見られた。 国際映画祭は1970年の大阪万博のプログラムの一つとして「日本国際映画祭」と銘打ち、行われたことがあり(1970年4月1日~10日、大阪フェスティバルホール)、実務を担当したのは当時の岡田の上司・大川博東映社長だった。しかし国際映画祭での出品作は未公開作に限るという規定が厳しく、辞退会社が続出。当時は日本映画の不況が深刻化した時代で、各社映画祭どころではなく、松竹の城戸四郎は全くやる気なし、大映の永田雅一は会社がおかしくなり、日活の堀久作はこんなものはダメだと言うし、東宝の松岡辰郎は乗り気でなく、どこも協力してくれず。上映は海外も合わせて全部で20本に留まった。また欧米の映画祭では自国の法律や倫理基準で、他国の芸術作品を測ることはできないという"通則"があり、スウェーデンのハードコア『私は好奇心の強い女』がノーカット無修正で上映されるのかが、マスメディアに盛んに取り上げられ、同作は過激な裸体・性愛描写が各国で検閲議論を巻き起こし、世界中で「ポルノ解禁」をもたらす引き金になった曰く付きの映画であったが、この影響もあって日本映画はさっぱり話題にならず、同作の監督と税関の間に挟まり大川は手を焼いた(結局45ヵ所の修正、11分間カットされて上映された)。「大川は勲章が欲しいからやるんだろう」「あれが国際映画祭か?」などと散々に叩かれ、成果なしに終わり、映画界では国際映画祭はタブーなどと言われた。間もなく大川が亡くなり、残務処理を岡田が引き継いで往生した。映画界にとって何の実利もなく、岡田は最初は乗り気でなく、やらない方がいいという先行的な考えを持っていた。 しかし元電通の小谷正一が中心となり、日本ヘラルドの原正人、岡田晃、山本又一朗、鹿内春雄がグループを組み、開催実現に向け、岡田に盛んに働きかけた。岡田は通産省やつくば万博のためのイベントだけでは映画界全体にとってメリットがなく、やる意味がないと突っぱねた。映画界のリーダーである岡田を説得しなければ実現は不可能で、小谷らが岡田に連日連夜押し込みを続け、引き受けざるを得なくなった。仕方なく岡田が東宝の松岡功、松竹の奥山融、大映の徳間康快、にっかつの根本悌二らに頭を下げ、協力を要請し、ようやく開催に向け動き出した。先の万博での映画祭は規模が小さかったため、東京国際映画祭が日本初の国際映画祭という認識だった。
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