ロスアラモスからヒロシマへ
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「核兵器の歴史」の記事における「ロスアラモスからヒロシマへ」の解説
詳細は「マンハッタン計画」および「マンハッタン計画の年表」を参照 第二次世界大戦の初期、連合国側の科学者たちは、ドイツ国がノルウェーに対して重水の全在庫を購入する注文を行っていたことを察知し、ナチス・ドイツが既に独自の原子爆弾開発計画を始めているのではないかと懸念していた。連合国での最初の核兵器開発に関する組織的研究は、イギリスでチューブ・アロイズの一部として開始された。アメリカでもレオ・シラードのフランクリン・ルーズベルト大統領に対する進言ののち1939年に、リーマン・ジェイムス・ブリッグス (en:Lyman James Briggs) の指揮のもとでウラン諮問委員会によって、アメリカでもウラン兵器の開発可能性についての研究が始められた。 イギリス人科学者によって、核兵器が数年以内に完成しうるという計算がなされたが、それを受けてアメリカで1941年には核兵器開発を計画する部局が設立、1942年にレズリー・グローヴス准将の監督のもとに「マンハッタン計画」としてアメリカで本格的な核兵器開発が始まった。 アメリカの物理学者ロバート・オッペンハイマーによって指揮されたこのプロジェクトは、当世最高の科学的知性の持ち主たち (その多くはヨーロッパからの亡命者であった) と、アメリカの工業力の粋を結集し、ドイツより先に核分裂を元とした爆発装置を作りあげるという目的に向かって邁進させた。イギリスとアメリカは、両国のリソースと情報をこの計画のために共有するという合意に至ったが、ソ連などの他の連合国には知らされなかった。 莫大な工業力と科学力によって、マンハッタン計画は世界中の優れた科学者を研究・開発の両面に巻き込んでいった。アメリカは前例がないほどの莫大な投資をこの計画の戦時中の研究に費やし、この研究に関わった研究所はアメリカ・カナダの30ヶ所以上にも登る。科学的な研究は、主にロスアラモス研究所として知られる秘密研究所で行われた。 さて、ウランは自然界では2つの同位体、ウラン238とウラン235として出現する。ウラン235が中性子を吸収すると、核分裂を起こし2つの核分裂生成物を産みだす。そのとき同時に途方もないエネルギーと、平均2.5個の中性子を放出する。しかしウラン238は、中性子を吸収しても核分裂を起こさず、核分裂反応を止める働きを持つ(但し、これは低速な中性子線の場合であって、高速な中性子の照射によりU238も核分裂を起し、U235と同様に分裂に際して大きなエネルギーと中性子を放出する)。 ウランによる原子爆弾を作成するためには、ほとんど純粋な (少なくとも80 %の) ウラン235が必要であり、そうでなければウラン238が即座に核分裂の連鎖反応を止めてしまうということが分かった。最大の難問は、天然ウランの中でたった0.7 %しか含まれず、化学的な性質も変わらないウラン235だけを濃縮することだ、とフェルミらマンハッタン計画の科学者チームは即座に認識した。 戦時のプロジェクト中に、遠心分離法、ガス拡散法そして電磁濃縮法という3つのウラン濃縮方法が開発された。そのどれも、ウラン238は235よりもほんの少しだけ原子量が大きいという物理的性質を利用したものである。このうち遠心分離法は効率が良くなく、更なる研究を要するため、早々に放棄された。アーネスト・ローレンスによって発明されたサイクロトロンによって可能になったのが電磁濃縮法で、この方法は質量の差によるローレンツ力の違いに基づいている。しかし、大金を投じて建設されたサイクロトロンによるウラン濃縮も思ったような成果を挙げられなかった。ガス拡散法は、原子の質量差による気体の拡散速度の差を利用したものであるが、これが当時一番効率が良く、別の秘密研究所がテネシー州オークリッジに建設され、ウラン235の製造と精製が大規模に行われた。 ウラン濃縮への投資は莫大であった。当時、オークリッジ内の工場の一つであるK-25 (en:K-25) は、一つの建物にある工場としては世界最大のものだった。オークリッジの研究所では最大で1万人もの従業員を雇っていたが、彼らのほとんどは自分が何をしているのかについて知らされていなかった。 ウラン238は原子爆弾の最初の段階では使用できないものの、ウラン238が中性子を吸収すると最初不安定なウラン239となり、その後いくつかの不安定核への崩壊を経て、安定な核種である人工の原子プルトニウム239に崩壊する。プルトニウムも核分裂性の物質であり、核爆弾に使用しうる。反応の制御と持続が可能な原子堆 (atmic pile) —原始的な原子炉の呼び方—が世界で初めて、エンリコ・フェルミによってシカゴ大学の地下に作られ、その後大規模な反応炉が秘密裏にワシントン州のハンフォード・サイトとして知られる場所へ建設された。ハンフォード・サイトでは、コロンビア川の水を冷却水として使い、ウラン238を原爆のためのプルトニウムへ変化させていた。 核分裂兵器を作動させるためには、中性子が照射される際に臨界質量の核分裂性物質がなければいけない。最も単純な原子爆弾の動作方式は、ガンバレル型又はガンタイプと呼ばれるもので、臨界量に達しない核分裂性物質 (ウラン235など) に対して別の核分裂物質を衝突させ、臨界を起こさせ、速い速度で核分裂の連鎖を起こし、所望の爆発を生じさせるものである。1942年までに考案された核兵器には、ウランを使用した「リトルボーイ」、プルトニウム型の「シン・マン」、そして、爆縮方式による「ファット・マン」があった。 1943年の始め、オッペンハイマーは、シン・マンとファット・マンの両方の計画を続けるべきか決定しなければならなかった。プルトニウム砲身型は大量の研究資源を費やしていたにもかかわらず、最も核爆弾を製造できるか不確かなプロジェクトだった。1944年の4月にエミリオ・セグレによって、これはシン・マンに使われていたプルトニウムに、同位体のプルトニウム240が含まれており、それが不完全核爆発を起こしたためであるとされている。そのため、リトルボーイとファットマンの研究のみが続けられることとなった。 特に、爆縮方式によるファットマンの開発が優先されることになった。その方法は、化学的な爆発物を使い、臨界量以下のプルトニウムを周囲から強い圧力を掛けて圧縮し、臨界を起こさせるというものである。爆縮方式には、火薬の衝撃波を完全に均等な形でプルトニウムに伝えなければならないという難問がある。もし、わずかでも圧縮力が不均等だった場合、臨界を起こす前にプルトニウムもろとも木っ端微塵に飛散してしまい、効果的な爆発を起こすことができなくなってしまう。爆破加工に用いられていた爆薬レンズを応用し、光学的なレンズのように、燃焼速度の速い火薬と遅い火薬を組み合わせることで、対称な衝撃波を伝える、という方法によってこの問題は解決された。 Dデイの後、グローブス将軍はアルソス(英語版)計画 (Project Alsos) として知られる科学者チームに命じて、ヨーロッパに上陸し東へと邁進する連合国軍に追従してドイツの核計画の進行状況を調べさせ、また同時に、侵攻してくるソ連軍にドイツの核物質や人材を奪われないようにさせた。ナチスドイツもヴェルナー・ハイゼンベルクらによって原爆製造を計画していたものの、結果としては、ナチスは計画に対して目立った投資をしておらず、それゆえ成功とはほど遠いものだったという。 詳細は「ドイツの原子爆弾開発」を参照 一部の歴史家は、このとき科学者チームはナチスの核爆弾のラフな設計図を発見した、と主張している。研究は、ドイツ核エネルギー計画 (en:German nuclear energy project) によって指揮されていた。1945年の3月には、物理学者クルト・ディーブナー (en:Kurt Diebner) によってナチスの科学者チームが指揮されていて、原始的な核装置の開発に当たっていたとされる。 1945年5月8日にドイツが連合国に対して無条件降伏した時点で、マンハッタン計画は、未だ使用できる兵器の完成まで数ヶ月遅れていた。同年4月にはアメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトが死去し、前副大統領であったハリー・トルーマンが後を継いだ。当時は戦時であり、なし崩し的に大統領の権限は拡大しており、トルーマンは大統領就任まで核開発計画について知らされていなかったと伝えられている。トルーマンは大統領就任後24時間以内に、この戦時秘密計画について初めて知らされたという。とはいえ、まったく無知であったわけではないようで、『トルーマン委員会』と呼ばれた上院国家防衛調査委員会において、莫大な戦費が使われていることを知り、調査活動に出たがスティムソン軍事長官の要請を受けて中止したという。 確実に動作するプルトニウム兵器を作るのは難しかったので、事前に核実験の実施が望まれた。トルーマンは、すぐ後に控えた戦後のヨーロッパ情勢を決定する会談を有利に進めるため、その前に核実験の結果を知りたいと望んでいた。1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴード北の砂漠で、ガジェットと名付けられた原爆を用いてトリニティ実験というコードネームを付けられた人類最初の核実験が実施された。原爆はTNT換算で約19 ktものエネルギーを放出した。これは当時までに使用されたあらゆる兵器の威力を上回るものであった。実験成功のニュースは直ちにトルーマン大統領へ届けられた。 トルーマンは、科学者たちや軍上層部の日本への原爆使用方法についての意見を総合し、最終的に日本の都市へ原爆を投下することを決定した。一部には、原爆をデモンストレーション用として無人の地区に使用するべきとの意見 もあったが、大部分は人の住む都市で実際に原爆が兵器として使われることを望んだ。これには、日本政府に対して抗戦の意図を挫くために強力なメッセージを送り、特に日本本土に対しての上陸作戦を不要にすることによって、米軍将兵の犠牲を減らすという軍事的な動機に基づくものであったとされる。もし本土への上陸が行われれば、米軍将兵の死傷者は50万人を超える とされており、また日本側にも同数以上の犠牲者が出ると想定されたので、トルーマンは「原爆の投下は戦争を短縮し、何百万もの生命を救った ("We have used it in order to shorten the agony of war, in order to save the lives of thousands and thousands of young Americans.")」 と主張している。 1945年5月10日ロスアラモス内のオッペンハイマーの執務室で、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市がはじめて選定された。それは、京都、広島、横浜、小倉である。最終的には、広島と長崎がターゲットに選ばれ、1945年8月6日に広島へウラン型原爆のリトルボーイが、3日後にプルトニウム型のファットマンが長崎へ投下された。犠牲者については諸説あるが、2発の原爆で計20万人程度が亡くなったとされている。 日本に対する原爆の使用が不可避であったのかには議論がある が、ソ連への示威行為であったとの指摘もある。
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