ロスアラモスからヒロシマへとは? わかりやすく解説

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ロスアラモスからヒロシマへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 15:00 UTC 版)

核兵器の歴史」の記事における「ロスアラモスからヒロシマへ」の解説

詳細は「マンハッタン計画」および「マンハッタン計画の年表」を参照 第二次世界大戦初期連合国側科学者たちは、ドイツ国ノルウェーに対して重水の全在庫購入する注文行っていたことを察知しナチス・ドイツが既に独自の原子爆弾開発計画始めているのではないか懸念していた。連合国での最初核兵器開発に関する組織的研究は、イギリスチューブ・アロイズ一部として開始された。アメリカでレオ・シラードフランクリン・ルーズベルト大統領対す進言ののち1939年に、リーマン・ジェイムス・ブリッグス (en:Lyman James Briggs) の指揮のもとでウラン諮問委員会によって、アメリカでウラン兵器の開発可能性についての研究始められた。 イギリス人科学者によって、核兵器数年以内完成しうるという計算なされたが、それを受けてアメリカで1941年には核兵器開発計画する部局設立1942年レズリー・グローヴス准将監督のもとに「マンハッタン計画」としてアメリカで本格的な核兵器開発始まったアメリカ物理学者ロバート・オッペンハイマーによって指揮されたこのプロジェクトは、当世最高の科学的知性持ち主たち (その多くヨーロッパからの亡命者であった) と、アメリカ工業力の粋を結集しドイツより先に核分裂を元とした爆発装置作りあげるという目的向かって邁進させた。イギリスアメリカは、両国リソース情報をこの計画のために共有するという合意至ったが、ソ連などの他の連合国には知らされなかった。 莫大な工業力と科学力によって、マンハッタン計画世界中優れた科学者研究・開発両面巻き込んでいった。アメリカ前例がないほどの莫大な投資をこの計画戦時中研究費やし、この研究に関わった研究所アメリカ・カナダ30所以上にも登る科学的な研究は、主にロスアラモス研究所として知られる秘密研究所行われたさて、ウラン自然界では2つ同位体ウラン238ウラン235として出現するウラン235中性子吸収すると、核分裂起こし2つ核分裂生成物産みだす。そのとき同時に途方もないエネルギーと、平均2.5個の中性子放出する。しかしウラン238は、中性子吸収して核分裂起こさず核分裂反応止める働きを持つ(但し、これは低速中性子線場合であって高速中性子照射によりU238核分裂起しU235同様に分裂に際して大きなエネルギー中性子放出する)。 ウランによる原子爆弾作成するためには、ほとんど純粋な (少なくとも80 %の) ウラン235が必要であり、そうでなければウラン238即座に核分裂連鎖反応止めてしまうということ分かった最大難問は、天然ウランの中でたった0.7 %しか含まれず、化学的な性質変わらないウラン235だけを濃縮することだ、とフェルミマンハッタン計画科学者チーム即座に認識した戦時プロジェクト中に遠心分離法ガス拡散法そして電磁濃縮法という3つのウラン濃縮方法開発された。そのどれも、ウラン238235よりもほんの少しだけ原子量大きいという物理的性質利用したのであるこのうち遠心分離法効率良くなく、更なる研究要するため、早々に放棄された。アーネスト・ローレンスによって発明されサイクロトロンによって可能になったのが電磁濃縮法で、この方法は質量の差によるローレンツ力違い基づいている。しかし、大金投じて建設されサイクロトロンによるウラン濃縮思ったような成果挙げられなかった。ガス拡散法は、原子質量差による気体拡散速度の差を利用したのであるが、これが当時一番効率良く別の秘密研究所テネシー州オークリッジ建設されウラン235製造精製大規模に行われたウラン濃縮への投資莫大であった当時オークリッジ内の工場一つであるK-25 (en:K-25) は、一つ建物にある工場としては世界最大のものだったオークリッジ研究所では最大1万人もの従業員雇っていたが、彼らのほとんどは自分何をしているのかについて知らされていなかった。 ウラン238原子爆弾最初の段階では使用できないものの、ウラン238中性子吸収する最初不安定なウラン239となり、その後いくつかの不安定核への崩壊経て安定核種である人工原子プルトニウム239崩壊するプルトニウム核分裂性物質であり、核爆弾使用しうる。反応制御持続可能な原子堆 (atmic pile) —原始的な原子炉呼び方—が世界で初めて、エンリコ・フェルミによってシカゴ大学地下作られその後大規模な反応炉秘密裏ワシントン州ハンフォード・サイトとして知られる所へ建設された。ハンフォード・サイトでは、コロンビア川冷却水として使いウラン238原爆のためのプルトニウム変化させていた。 核分裂兵器作動させるためには、中性子照射される際に臨界質量核分裂性物質なければいけない。最も単純な原子爆弾動作方式は、ガンバレル型又はガンタイプと呼ばれるもので、臨界量達しない核分裂性物質 (ウラン235など) に対して別の核分裂物質衝突させ、臨界を起こさせ、速い速度核分裂連鎖起こし所望爆発生じさせるのである1942年まで考案され核兵器には、ウラン使用したリトルボーイ」、プルトニウム型の「シン・マン」、そして、爆縮方式による「ファット・マン」があった。 1943年始めオッペンハイマーは、シン・マンファット・マン両方計画続けるべきか決定しなければならなかった。プルトニウム砲身型は大量研究資源費やしていたにもかかわらず、最も核爆弾製造できる不確かなプロジェクトだった。1944年4月エミリオ・セグレによって、これはシン・マン使われていたプルトニウムに、同位体プルトニウム240含まれており、それが不完全核爆発起こしたためであるとされている。そのため、リトルボーイファットマン研究のみが続けられることとなった。 特に、爆縮方式によるファットマン開発優先されることになったその方法は、化学的な爆発物使い臨界量以下のプルトニウム周囲から強い圧力を掛けて圧縮し臨界起こさせるというものである爆縮方式には、火薬衝撃波を完全に均等な形でプルトニウム伝えなければならないという難問がある。もし、わずかでも圧縮力不均等だった場合臨界起こす前にプルトニウムもろとも木っ端微塵飛散してしまい、効果的な爆発起こすことができなくなってしまう。爆破加工用いられていた爆薬レンズ応用し光学的なレンズのように、燃焼速度速い火薬と遅い火薬組み合わせることで、対称衝撃波伝える、という方法によってこの問題解決された。 Dデイの後、グローブス将軍はアルソス(英語版計画 (Project Alsos) として知られる科学者チーム命じてヨーロッパ上陸し東へ邁進する連合国軍追従してドイツ計画の進行状況調べさせ、また同時に侵攻してくるソ連軍ドイツ核物質人材奪われないようにさせた。ナチスドイツヴェルナー・ハイゼンベルクらによって原爆製造計画していたものの、結果としては、ナチス計画に対して目立った投資をしておらず、それゆえ成功とはほど遠いのだったという。 詳細は「ドイツの原子爆弾開発」を参照 一部歴史家は、このとき科学者チームナチス核爆弾ラフな設計図発見した、と主張している。研究は、ドイツ核エネルギー計画 (en:German nuclear energy project) によって指揮されていた。1945年3月には、物理学者クルト・ディーブナー (en:Kurt Diebner) によってナチス科学者チーム指揮されていて、原始的な装置開発当たっていたとされる1945年5月8日ドイツ連合国に対して無条件降伏した時点で、マンハッタン計画は、未だ使用できる兵器完成まで数ヶ月遅れていた。同年4月にはアメリカの大統領フランクリン・ルーズベルト死去し、前副大統領であったハリー・トルーマンが後を継いだ当時戦時であり、なし崩し的大統領権限拡大しており、トルーマン大統領就任まで核開発計画について知らされていなかったと伝えられている。トルーマン大統領就任後24時間以内に、この戦時秘密計画について初め知らされたという。とはいえ、まったく無知であったわけではないようで、『トルーマン委員会』と呼ばれた上院国家防衛調査委員会において、莫大な戦費使われていることを知り調査活動出たスティムソン軍事長官要請受けて中止したという。 確実に動作するプルトニウム兵器作るのは難しかったので、事前に核実験実施望まれた。トルーマンは、すぐ後に控えた戦後ヨーロッパ情勢決定する会談有利に進めるため、その前に核実験結果知りたい望んでいた。1945年7月16日ニューメキシコ州アラモゴード北の砂漠で、ガジェット名付けられ原爆用いてトリニティ実験というコードネーム付けられ人類最初核実験実施された。原爆TNT換算で約19 ktものエネルギー放出した。これは当時までに使用されあらゆる兵器威力上回るものであった実験成功ニュース直ちトルーマン大統領へ届けられた。 トルーマンは、科学者たち軍上層部日本への原爆使用方法についての意見総合し最終的に日本の都市原爆投下することを決定した一部には、原爆デモンストレーション用として無人地区使用するべきとの意見 もあったが、大部分は人の住む都市実際に原爆兵器として使われることを望んだ。これには、日本政府に対して抗戦意図挫くために強力なメッセージ送り、特に日本本土に対しての上作戦不要にすることによって、米軍将兵犠牲を減らすという軍事的な動機に基づくものであったとされる。もし本土への上が行われれば米軍将兵死傷者50万人超える とされており、また日本側にも同数上の犠牲者が出ると想定されたので、トルーマンは「原爆投下戦争短縮し、何百万もの生命救った ("We have used it in order to shorten the agony of war, in order to save the lives of thousands and thousands of young Americans.")」 と主張している。 1945年5月10日ロスアラモス内のオッペンハイマー執務室で、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾投下目標として、次の4都市がはじめて選定された。それは、京都広島横浜小倉である。最終的には、広島長崎ターゲット選ばれ1945年8月6日広島ウラン原爆リトルボーイが、3日後にプルトニウム型のファットマン長崎投下された。犠牲者については諸説あるが、2発の原爆で計20万人程度亡くなったとされている。 日本対す原爆使用不可避であったのかには議論がある が、ソ連への示威行為であったとの指摘もある。

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