ドイツでの生活 1896 – 1914とは? わかりやすく解説

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ドイツでの生活 1896 – 1914

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 04:39 UTC 版)

アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー」の記事における「ドイツでの生活 1896 – 1914」の解説

1896年ヴェレフキンとヤウレンスキーは、当時11歳使用人だったヘレーネ・ネスナコモフ (1885 - 1965)をともなってミュンヘン引っ越しシュヴァービング区のギゼラ通り23番地3階居心地のいい二間借りた。ヴェレフキンはヤウレンスキーのために10年間、自身画業を完全に放棄して愛弟子指導捧げ更なる画家修業スロヴェニア人アントン・アツュベ託した。ヤウレンスキーはこのアツュベの画塾大きな影響を受け、ロシア人友人イーゴリ・グラーバリとドミトリー・カルドフスキー (1866 - 1943)と親しくなり、共同制作をした。アツュベは、きらきら瞬くのような卓越した色彩感覚有しており、また「巨匠絵画技法」を大切にしていた。 アツュベに感化された面がヤウレンスキーの油彩において特徴的に表れているのは、署名1900年との記入がある肖像画15歳ヘレーネ (Helene fünfzehnjährig)」(カタログ・レゾネ作品目録13 ―以下、カタログ・レゾネフランス語頭文字取ってCR略記する)である。ヘレーネ2年後、ヤウレンスキーとの間に息子アンドレアスを産むことになる。この作品重要な鍵と目されるのは、絵画技法観点だけでなく、様式面においても次なる時代画する大道を行く作品」の先鋒となるべく、先行するみずからの写実的な絵画CR 7, 8, 11)にみられる「レンバッハブラウン」のような落ち着いてどっちつかず色合い拒絶したということにある。 「戸外での踊り (Tanz im Freien)」(CR 25)は、非自然的な明暗表現をしたヤウレンスキーの絵画発展史において注目すべき絵である。この絵を詳細に調査したところ、予期せぬ事実判明した。それは1903年9月、ヴェレフキンの後を追ってノルマンディーにヤウレンスキーが旅立つ少し前に起こっている。レントゲン写真によって、今日の姿の下に以前の絵が見つかったのである。そこにあったのは、黒いスカート着た女性の姿で、様式としてはスペイン衣装着たヘレーネの絵(CR 21)へと移行するものであった。ヤウレンスキーとヴェレフキンの手記によると、この絵に塗り重ねられ新しい絵には1904年日付記されており、このことからこの作品は「ライヒャーツハウゼンの夕方 (Abend in Reichertshausen)」(CR 68のような絵の先駆けで、重要なとなると考えられている。ヤウレンスキーとヴェレフキンの芸術家二人組1904年7月から9月まで、避暑のためにライヒャーツハウゼン(ドイツ語版)に滞在している。以前作品との比較によって、ヤウレンスキーの絵画根本的な革新遂げたことが分かる。アツュベのもとで学んだ画風である、平面的な特徴背景に好対比を成す色彩薄片小さな鉤型で描く構成台頭し以前長く伸びた能筆色彩筆致後退している。当時ヤウレンスキーはフランス新し芸術関心寄せて熱心に研究しており、こうして彼の絵画もまた色彩豊かなものになっていった。 1905年をヤウレンスキーはドイツ過ごした。フュッセン・イム・アルゴイとその周辺では一連の鮮やかな絵画作品制作している。いくつかの作品では、そのモティーフとなった所を正確に特定できる例えば、フュッセン城とその前方に建つザンクト・マンク修道院ドイツ語版)を描いた作品CR 99)がある。これらの絵はまだ明らかに後期印象主義フィンセント・ファン・ゴッホ画風特徴認められる。この特徴は、ヤウレンスキーがパリ第三回サロン・ドートンヌの、セルゲイ・パヴロヴィチ・ジャキレフが企画したロシア部門展に送った六つ作品例えピクルスかご(CR 75)―においても表れている。ヤウレンスキーは自身回顧録の中で幾度もフランス旅行について言及しているが、そこには誤解がある。この旅行は、1906年にヴェレフキンとともにブルターニュ地方のカランテク(フランス語版)からパリアルル経てソセ・レ・パン(フランス語版)へ向かう旅であったが、「1905年」との記入がある。地中海沿岸マルセイユ近郊に、画家友達ピエール・ジリュー (1876 - 1948)が住んでおり、その地でヴェレフキンは再び画業着手した。ヤウレンスキーは1906年パリ第四回サロン・ドートンヌいくつかのブルターニュ習作」を出品している。それらは今回もまたロシア部門出展されたが、今日ではそれを確認することはかなわない1906年クリスマスを、ヤウレンスキーとヴェレフキンはソセ・レ・パンで過ごし1907年1月に、フェルディナント・ホドラー訪問するためにジュネーヴ立ち寄りミュンヘンへと帰った1907年2月後半にヤウレンスキーはミュンヘン芸術協会で、ベルリン後期印象主義画家クルト・ヘルマン (1854 - 1919)とナビ派芸術家ヤン・フェアカーデ(オランダ語版)と出会った。フェアカーデは「ランゲヤン」の筆名論文執筆している人物であった1908年からフェアカーデはしばしばヤウレンスキーのアトリエ制作した8月にはヤウレンスキーとヴェレフキンはドナウ=リース郡市場町カイスハイム滞在していたことが明らかになっている。ひと月ののちにはヴァサーブルク・アム・イン(ドイツ語版)へ移っており、途中さまざまな日付入ったヴェレフキンのスケッチ残されている。また同様に日付入りのヴェレフキンのスケッチによって、彼らが10月にはムルナウ・アム・シュタッフェルゼー(ドイツ語版)を訪れていることが分かっている。1907年12月初頭にはフェアカーデの旧友ポール・セリュジエミュンヘン来ている。彼のために画家のフーゴ・トレンドル(ドイツ語版)が、ヤウレンスキーの住まいからそれほど遠くないところにアトリエ借りている。セリジエの紹介で3人はポール・セザンヌ画法親しんでおり、ヤウレンスキーの静物画CR 177)には特にはっきりとその影響読み取れる1908年春の時点でもなお、ヤウレンスキーの絵画は相変わらず後期印象主義ファン・ゴッホ忠実であり続けていた。ヴェレフキンの資金援助によって、フランツ・ヨーゼフ・ブラークル画廊からファン・ゴッホの絵「オヴェールの通り (Die Straße in Auvers)」「ピロン爺さんの家 (La maison du père Pilon)」を購入している。ヤウレンスキーは、点描派にどっぷり浸った絵画最終的に行き詰ってしまう前に誰か別の高次存在ひときわ感動できる芸術家を必要としていた。1908年復活祭に、フェアカーデはヤウレンスキーをウラディスラフ・スレヴィンスキー (1854 - 1918)に紹介した。スレヴィンスキーはポール・ゴーギャン友人で、ポーランド人であった。スレヴィンスキーは「へっぽこ色彩画家」―すなわち後期印象主義者―に明白に嫌悪感抱いており、ヤウレンスキーの絵画から点描や鉤描を取り除かせ、ヤウレンスキーをゴーギャン的な平面絵画へと転換させた(CR 184222比較参照されたし)。この転換成し遂げる途中でヤウレンスキーはしばらくの間ヴァシリー・カンディンスキーガブリエレ・ミュンターほかミュンヘン芸術家仲間たち方向づけるとなった1908年夏は、ヴェレフキンとヤウレンスキー、ミュンターカンディンスキーの二組の芸術家にとって非常に充実した、また芸術史的にも伝説的な意味をもつ集団制作の時となった。しかしひょっとすると、この二組の芸術家ペアの関係には直後から影が差していたのかもしれない。というのは、1908年クリスマスにヴェレフキンとヤウレンスキー、アドルフ・エルプスレーオスカー・ヴィッテンシュタイン (1880 - 1919)だけでミュンヘン新芸術家協会構想立ち上げているからである。さしあたりカンディンスキーミュンターはこの計画に関わっていなかった。カンディンスキーはのちに、 自分のいないところで協会準備ための会合が開かれていたことを知り怒りあらわにした。1909年1月ミュンヘン芸術協会トップとなることを勧められると、カンディンスキーしぶしぶながらもこれを受け入れて怒りを鞘におさめた1909年1月にはミュンヘン新芸術家協会設立起草文が書かれカンディンスキー初代理事選任された。5月から9月まで、二組の芸術家ペアムルナウで再び集団制作取り組んだ。このとき、ダンサーのアレクサンデル・ザッハロフ(ドイツ語版)はヴェレフキンとヤウレンスキーとともにミュンヘンオデオン (ミュンヘン)(ドイツ語版)でのデビュー準備している。 12月1日第一回展16人の芸術家参加得て開かれたが、新聞や雑誌からは多大な否定的な評を受けた。そのすぐ後にはヤウレンスキーとヴェレフキンの関係が再びかなり険悪になり、それが原因で彼女はロシアリトアニアカウナス単身旅立ったかの地でヴェレフキンは1909年の冬を過ごし1910年春は弟のペーター・フォン・ヴェレフキン (1861 - 1946)のもとで過ごしている。弟のペーター1904年から1912年までカウナス市長務めている。 1910年復活祭にはヴェレフキンはミュンヘン戻った。ヴェレフキンの親友で、ミュンヘン新芸術家協会秘書務めていたエルプスレーは5月パリ芸術家参加得て協会第二回展成功させるべく、ジリューとともにフランスへ旅行している。9月1日に、協会第二回展開幕した今回29人の芸術家参加得ており、ロシアフランスから来た「未開人」の割合相対的に高かった。この展覧会同様に新聞大衆からの嘲笑こうむった侮蔑をこめた批評の中で、展覧会参加した芸術家たちは「未開人呼ばわりされている。フランツ・マルクはこの展覧会をひっそりと訪れており、批評大勢占めていた誹謗中傷に対して今日では芸術史にその意義担保されている偉大な批評著し9月終わりにエルプスレーのもとに届けられている。そのあとすぐにマルクミュンヘン新芸術家協会芸術家たちとファーストコンタクト持っている。ヴェレフキンと、そして特にヤウレンスキーとは「非常に早く個人的芸術的な意見一致をみた。」という。同じころ、アウグスト・マッケ彼のエリザベート (1888 - 1978)もヤウレンスキーとヴェレフキンと知り合っている。クリスマスの少し前、カンディンスキーロシアから戻ってきた。12月31日にはマルクは、アウグスト・マッケ従兄弟画家ヘルムート・マッケ (1891 - 1936)とともに、ヴェレフキンのサロン初めカンディンスキー対面したカンディンスキーマルクにとっての特別な佳境は、1911年1月2日アルノルト・シェーンベルクコンサート訪れたであった。このとき、ヴェレフキン、ヤウレンスキー、ミュンターヘルムート・マッケもともにコンサート訪れている。このとき、その後方向性決定づける絵画における「汚れ」についての議論起こった。この芸術的問題は、ヴェレフキンは1907年にすでに解決しており、彼女の絵画変革もたらしていた。ミュンヘン新芸術家協会保守勢力の間では、みるみる抽象化していくカンディンスキー絵画に対して共感できないとする声が広がっており、これに対してカンディンスキー1月10日協会トップの座を降りることで応え後任にはエルプスレーが就いた5月初めからジリューはヴェレフキンとヤウレンスキーのもとに住みマルクとともにハインリヒ・タンハオザー画廊自身の絵を出展する展覧会準備始めた7月にはヤウレンスキーとヴェレフキンはヘレーネアンドレアスとともにバルト海沿岸のプレロウ(ドイツ語版)へ避暑訪れた同地でヤウレンスキーは自身表現主義創作活動重要な佳境経験した。 「私はその地で…[中略]…とても強く燃えるような色彩描いた自然的物質的でなく、抽象的な色彩で…[中略]…これが私の芸術における方向転換だったのだ。」 「丘I (Der Buckel I)」(CR 381)や「バルト海にて (An der Ostsee)」(CR 416)、「プレロウの教会 (Kirche in Prerow)」(CR 422)といった作品に、ここでヤウレンスキーが得たインスピレーションがよく表れている。その年の終わりには二人パリ訪れ、そこでアンリ・マティス知り合っている。12月2日ミュンヘン新芸術家協会第三回展の出展審査会カンディンスキー作品コンポジション V / 最後の審判 (Komposition V/Das Jüngste Gericht)」を拒絶したため、長期わたって準備続けていた1911年冬から翌年にかけての青騎士編集部展を開催するためにカンディンスキーは、ミュンターマルクとともに協会去ったミュンター1911年8月6日付のカンディンスキーからの手紙によって、このたくらみはじめに打ち明けられたことが明らかになっている。そこでカンディンスキーミュンターに、準備作業状況について次のように伝えている。 「私は今、描き描いてます。ただただ最後の審判スケッチを。どれもこれも不満足です。でも私は、これをうまくし遂げて見せねばなりません!忍耐あるのみです。」 マッケカンディンスキーらの「騒動準備進んでいることに気付いていた。二十余年ののちカンディンスキーは、自身マルクによる潔いとは言えない協会脱退たくらみについて初め口を開いている。「われわれふたりはもうずっと以前から「騒動」の気配感じ別の展覧会準備をしていたのです。」 加えて1938年11月22日のガルカ・シャイアー (1889 1945)宛て書簡の中で、さらにはっきりとミュンヘン芸術家協会脱退いきさつについて言及している。 1912年避暑旅行でヤウレンスキーとヴェレフキンはカルドフスキーとその妻で売れっ子画家のオルガ・デッラ・フォス (1875 - 1952)とともに市場町オーバーストドルフ訪れている。この年、ヤウレンスキーの表現主義創作活動頂点極めていた。中でも卓越した作品は、肖像画では例えば「トゥーランドットII (Turandot II)」(CR 468)や「自画像 (Selbstbildnis)」(CR 477)が、風景画では「オーバーストドルフ山脈景色 (Landschaften Gebirge bei Oberstdorf)」(CR 545)や「青い山々 (Blaue Berge)」(CR 556)が挙げられるオーバーストドルフからミュンヘンへ戻ると、ヴェレフキンとヤウレンスキーは上品な装丁刷り上がったミュンヘン新芸術家協会第四回展のための冊子「新絵画(Das Neue Bild)」を 受け取った。この本のテキストそれぞれの芸術家解説文が気に入らなかったヴェレフキンとヤウレンスキーは腹を立て、それがもとでミュンヘン新芸術家協会脱退した。8人の芸術家参加したミュンヘン新芸術家協会第三回展と青騎士第一回展12月18日から同日程で開かれたミュンヘン新芸術家協会1920年にエルプスレーの手によって正式にミュンヘン市の法人登記簿から抹消されている。1913年にはヴェレフキンとヤウレンスキーは、ヘルヴァルト・ヴァルデンドイツ語版)の画廊デア・シュトゥルムドイツ語版)で開かれた青騎士編集部展に参加したその後再びヴェレフキンとヤウレンスキーの関係が良好とはいえなくなり、ヴェレフキンはまた、故郷リトアニアの弟ペーターのもとへ行ったペーター1912年ヴィリニュス首長になっていた。 ヤウレンスキーの絵画はかつての燃えるような色彩失っていた。例えば「巻き毛婦人 (Frau mit Stirnlocke)」(CR 584)や「ザッハロフの肖像 (Bildnis Sacharoff)」(CR 601)がある。 1914年1月ヤウレンスキーは、パトロン失った苦境から脱するために、資金援助をしてくれる人物探そう試みている。ところが驚くべきことに、ヤウレンスキーははや1914年2月12日には、ジュルナール・デ・ボルディゲーラ紙に、イタリアリヴィエラ高級なビーチ客人として招かれたとの記述が見つかる。その地でヤウレンスキーは、去年陰鬱な画面からはうって変わって明るく光に満ちた絵を例外なく描いている。こうした絵のいくつか描かれ細部は、今でもかの地見出すことができる。例えば「ボルディゲーラの家 (Haus in Bordighera)」(CR 623)や「感謝祭ボルディゲーラ (Fest der Natur - Bordighera)」(CR 624)がある。ヤウレンスキーがボルディゲーラからミュンヘン帰ったとき、ギゼル通りのヴェレフキンの家はまだからっぽであった。そこで彼は、ヴェレフキンをミュンヘンに連れ戻すためロシアへ赴き、最終的にはこの試みに成功した6月終わりにはヤウレンスキーが、ヴェレフキンは7月26日ミュンヘン戻り、その6日後、第一次世界大戦勃発した

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