ドイツでの生活 1896 – 1914
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「アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー」の記事における「ドイツでの生活 1896 – 1914」の解説
1896年ヴェレフキンとヤウレンスキーは、当時11歳で使用人だったヘレーネ・ネスナコモフ (1885 - 1965)をともなってミュンヘンへ引っ越し、シュヴァービング区のギゼラ通り23番地の3階に居心地のいい二間を借りた。ヴェレフキンはヤウレンスキーのために10年間、自身の画業を完全に放棄して愛弟子の指導に捧げ、更なる画家修業をスロヴェニア人のアントン・アツュベに託した。ヤウレンスキーはこのアツュベの画塾で大きな影響を受け、ロシア人の友人イーゴリ・グラーバリとドミトリー・カルドフスキー (1866 - 1943)と親しくなり、共同制作をした。アツュベは、きらきらと瞬く光のような卓越した色彩感覚を有しており、また「巨匠の絵画技法」を大切にしていた。 アツュベに感化された面がヤウレンスキーの油彩において特徴的に表れているのは、署名と1900年との記入がある肖像画「15歳のヘレーネ (Helene fünfzehnjährig)」(カタログ・レゾネ(作品目録) 13 ―以下、カタログ・レゾネのフランス語頭文字を取ってCRと略記する)である。ヘレーネは2年後、ヤウレンスキーとの間に息子アンドレアスを産むことになる。この作品が重要な鍵と目されるのは、絵画技法の観点だけでなく、様式面においても次なる時代を画する「大道を行く作品」の先鋒となるべく、先行するみずからの写実的な絵画(CR 7, 8, 11)にみられる「レンバッハブラウン」のような落ち着いてどっちつかずの色合いを拒絶した、ということにある。 「戸外での踊り (Tanz im Freien)」(CR 25)は、非自然的な明暗表現をしたヤウレンスキーの絵画の発展史において注目すべき絵である。この絵を詳細に調査したところ、予期せぬ事実が判明した。それは1903年9月、ヴェレフキンの後を追ってノルマンディーにヤウレンスキーが旅立つ少し前に起こっている。レントゲン写真によって、今日の姿の下に以前の絵が見つかったのである。そこにあったのは、黒いスカートを着た女性の姿で、様式としてはスペインの衣装を着たヘレーネの絵(CR 21)へと移行するものであった。ヤウレンスキーとヴェレフキンの手記によると、この絵に塗り重ねられた新しい絵には1904年の日付が記されており、このことからこの作品は「ライヒャーツハウゼンの夕方 (Abend in Reichertshausen)」(CR 68)のような絵の先駆けで、重要な鍵となると考えられている。ヤウレンスキーとヴェレフキンの芸術家二人組は1904年の7月から9月まで、避暑のためにライヒャーツハウゼン(ドイツ語版)に滞在している。以前の作品との比較によって、ヤウレンスキーの絵画は根本的な革新を遂げたことが分かる。アツュベのもとで学んだ画風である、平面的な特徴の背景に好対比を成す色彩の薄片と小さな鉤型で描く構成が台頭し、以前の長く伸びた能筆な色彩の筆致は後退している。当時ヤウレンスキーはフランスの新しい芸術に関心を寄せて熱心に研究しており、こうして彼の絵画もまた色彩豊かなものになっていった。 1905年をヤウレンスキーはドイツで過ごした。フュッセン・イム・アルゴイとその周辺では一連の色鮮やかな絵画作品を制作している。いくつかの作品では、そのモティーフとなった場所を正確に特定できる。例えば、フュッセン城とその前方に建つザンクト・マンク修道院(ドイツ語版)を描いた作品(CR 99)がある。これらの絵はまだ明らかに後期印象主義とフィンセント・ファン・ゴッホの画風の特徴が認められる。この特徴は、ヤウレンスキーがパリの第三回サロン・ドートンヌの、セルゲイ・パヴロヴィチ・ジャキレフが企画したロシア部門展に送った六つの作品―例えばピクルスかご(CR 75)―においても表れている。ヤウレンスキーは自身の回顧録の中で幾度もフランス旅行について言及しているが、そこには誤解がある。この旅行は、1906年にヴェレフキンとともにブルターニュ地方のカランテク(フランス語版)からパリとアルルを経てソセ・レ・パン(フランス語版)へ向かう旅であったが、「1905年」との記入がある。地中海沿岸のマルセイユ近郊に、画家友達のピエール・ジリュー (1876 - 1948)が住んでおり、その地でヴェレフキンは再び画業に着手した。ヤウレンスキーは1906年、パリの第四回サロン・ドートンヌにいくつかの「ブルターニュの習作」を出品している。それらは今回もまたロシア部門に出展されたが、今日ではそれを確認することはかなわない。 1906年のクリスマスを、ヤウレンスキーとヴェレフキンはソセ・レ・パンで過ごし、1907年1月に、フェルディナント・ホドラーを訪問するためにジュネーヴへ立ち寄り、ミュンヘンへと帰った。1907年の2月後半にヤウレンスキーはミュンヘンの芸術協会で、ベルリンの後期印象主義画家クルト・ヘルマン (1854 - 1919)とナビ派の芸術家ヤン・フェアカーデ(オランダ語版)と出会った。フェアカーデは「ランゲヤン」の筆名で論文も執筆している人物であった。1908年からフェアカーデはしばしばヤウレンスキーのアトリエで制作した。8月にはヤウレンスキーとヴェレフキンはドナウ=リース郡の市場町カイスハイムに滞在していたことが明らかになっている。ひと月ののちにはヴァサーブルク・アム・イン(ドイツ語版)へ移っており、途中のさまざまな日付の入ったヴェレフキンのスケッチが残されている。また同様に日付入りのヴェレフキンのスケッチによって、彼らが10月にはムルナウ・アム・シュタッフェルゼー(ドイツ語版)を訪れていることが分かっている。1907年12月の初頭にはフェアカーデの旧友のポール・セリュジエがミュンヘンへ来ている。彼のために画家のフーゴ・トレンドル(ドイツ語版)が、ヤウレンスキーの住まいからそれほど遠くないところにアトリエを借りている。セリジエの紹介で3人はポール・セザンヌの画法に親しんでおり、ヤウレンスキーの静物画(CR 177)には特にはっきりとその影響が読み取れる。 1908年春の時点でもなお、ヤウレンスキーの絵画は相変わらず後期印象主義とファン・ゴッホに忠実であり続けていた。ヴェレフキンの資金援助によって、フランツ・ヨーゼフ・ブラークル画廊からファン・ゴッホの絵「オヴェールの通り (Die Straße in Auvers)」「ピロン爺さんの家 (La maison du père Pilon)」を購入している。ヤウレンスキーは、点描派にどっぷり浸った絵画に最終的に行き詰ってしまう前に、誰か別の高次の存在、ひときわ感動できる芸術家を必要としていた。1908年の復活祭に、フェアカーデはヤウレンスキーをウラディスラフ・スレヴィンスキー (1854 - 1918)に紹介した。スレヴィンスキーはポール・ゴーギャンの友人で、ポーランド人であった。スレヴィンスキーは「へっぽこ色彩画家」―すなわち後期印象主義者―に明白に嫌悪感を抱いており、ヤウレンスキーの絵画から点描や鉤描を取り除かせ、ヤウレンスキーをゴーギャン的な平面絵画へと転換させた(CR 184 と 222を比較参照されたし)。この転換を成し遂げる途中でヤウレンスキーはしばらくの間、ヴァシリー・カンディンスキーやガブリエレ・ミュンターほかミュンヘンの芸術家仲間たちを方向づける師となった。1908年夏は、ヴェレフキンとヤウレンスキー、ミュンターとカンディンスキーの二組の芸術家にとって非常に充実した、また芸術史的にも伝説的な意味をもつ集団制作の時となった。しかしひょっとすると、この二組の芸術家ペアの関係には直後から影が差していたのかもしれない。というのは、1908年クリスマスにヴェレフキンとヤウレンスキー、アドルフ・エルプスレー、オスカー・ヴィッテンシュタイン (1880 - 1919)だけでミュンヘン新芸術家協会の構想を立ち上げているからである。さしあたり、カンディンスキーとミュンターはこの計画に関わっていなかった。カンディンスキーはのちに、 自分のいないところで協会準備のための会合が開かれていたことを知り、怒りをあらわにした。1909年の1月、ミュンヘン新芸術協会のトップとなることを勧められると、カンディンスキーはしぶしぶながらもこれを受け入れて怒りを鞘におさめた。1909年の1月にはミュンヘン新芸術家協会の設立起草文が書かれ、カンディンスキーが初代理事に選任された。5月から9月まで、二組の芸術家ペアはムルナウで再び集団で制作に取り組んだ。このとき、ダンサーのアレクサンデル・ザッハロフ(ドイツ語版)はヴェレフキンとヤウレンスキーとともにミュンヘンのオデオン (ミュンヘン)(ドイツ語版)でのデビューを準備している。 12月1日、第一回展が16人の芸術家の参加を得て開かれたが、新聞や雑誌からは多大な否定的な評を受けた。そのすぐ後にはヤウレンスキーとヴェレフキンの関係が再びかなり険悪になり、それが原因で彼女はロシア領リトアニアのカウナスへ単身旅立った。かの地でヴェレフキンは1909年の冬を過ごし、1910年春は弟のペーター・フォン・ヴェレフキン (1861 - 1946)のもとで過ごしている。弟のペーターは1904年から1912年までカウナス市長を務めている。 1910年の復活祭にはヴェレフキンはミュンヘンに戻った。ヴェレフキンの親友で、ミュンヘン新芸術家協会の秘書を務めていたエルプスレーは5月、パリの芸術家の参加を得て協会の第二回展を成功させるべく、ジリューとともにフランスへ旅行している。9月1日に、協会第二回展が開幕した。今回は29人の芸術家の参加を得ており、ロシアとフランスから来た「未開人」の割合が相対的に高かった。この展覧会も同様に新聞と大衆からの嘲笑をこうむった。侮蔑をこめた批評の中で、展覧会に参加した芸術家たちは「未開人」呼ばわりされている。フランツ・マルクはこの展覧会をひっそりと訪れており、批評の大勢を占めていた誹謗中傷に対して、今日では芸術史にその意義を担保されている偉大な反批評を著し、9月の終わりにエルプスレーのもとに届けられている。そのあとすぐにマルクはミュンヘン新芸術家協会の芸術家たちとファーストコンタクトを持っている。ヴェレフキンと、そして特にヤウレンスキーとは「非常に早く、個人的・芸術的な意見の一致をみた。」という。同じころ、アウグスト・マッケと彼の妻エリザベート (1888 - 1978)もヤウレンスキーとヴェレフキンと知り合っている。クリスマスの少し前、カンディンスキーがロシアから戻ってきた。12月31日にはマルクは、アウグスト・マッケの従兄弟で画家のヘルムート・マッケ (1891 - 1936)とともに、ヴェレフキンのサロンで初めてカンディンスキーと対面した。 カンディンスキーとマルクにとっての特別な佳境は、1911年1月2日にアルノルト・シェーンベルクのコンサートを訪れた時であった。このとき、ヴェレフキン、ヤウレンスキー、ミュンターとヘルムート・マッケもともにコンサートを訪れている。このとき、その後の方向性を決定づける、絵画における「汚れ」についての議論が起こった。この芸術的問題は、ヴェレフキンは1907年にすでに解決しており、彼女の絵画に変革をもたらしていた。ミュンヘン新芸術家協会の保守勢力の間では、みるみる抽象化していくカンディンスキーの絵画に対して、共感できないとする声が広がっており、これに対してカンディンスキーは1月10日に協会トップの座を降りることで応え、後任にはエルプスレーが就いた。5月の初めからジリューはヴェレフキンとヤウレンスキーのもとに住み、マルクとともにハインリヒ・タンハオザー画廊で自身の絵を出展する展覧会の準備を始めた。7月にはヤウレンスキーとヴェレフキンはヘレーネとアンドレアスとともにバルト海沿岸のプレロウ(ドイツ語版)へ避暑に訪れた。同地でヤウレンスキーは自身の表現主義的創作活動の重要な佳境を経験した。 「私はその地で…[中略]…とても強く、燃えるような色彩で描いた。自然的、物質的でなく、抽象的な色彩で…[中略]…これが私の芸術における方向転換だったのだ。」 「丘I (Der Buckel I)」(CR 381)や「バルト海にて (An der Ostsee)」(CR 416)、「プレロウの教会 (Kirche in Prerow)」(CR 422)といった作品に、ここでヤウレンスキーが得たインスピレーションがよく表れている。その年の終わりには二人はパリを訪れ、そこでアンリ・マティスと知り合っている。12月2日、ミュンヘン新芸術家協会第三回展の出展審査会はカンディンスキーの作品「コンポジション V / 最後の審判 (Komposition V/Das Jüngste Gericht)」を拒絶したため、長期にわたって準備を続けていた1911年冬から翌年にかけての青騎士編集部展を開催するためにカンディンスキーは、ミュンターとマルクとともに協会を去った。ミュンターは1911年8月6日付のカンディンスキーからの手紙によって、このたくらみをはじめに打ち明けられたことが明らかになっている。そこでカンディンスキーはミュンターに、準備作業の状況について次のように伝えている。 「私は今、描きに描いています。ただただ最後の審判のスケッチを。どれもこれも不満足です。でも私は、これをうまくし遂げて見せねばなりません!忍耐あるのみです。」 マッケはカンディンスキーらの「騒動」準備が進んでいることに気付いていた。二十余年ののちカンディンスキーは、自身とマルクによる潔いとは言えない協会脱退のたくらみについて初めて口を開いている。「われわれふたりはもうずっと以前から「騒動」の気配を感じ、別の展覧会の準備をしていたのです。」 加えて1938年11月22日のガルカ・シャイアー (1889 1945)宛ての書簡の中で、さらにはっきりとミュンヘン芸術家協会脱退のいきさつについて言及している。 1912年の避暑旅行でヤウレンスキーとヴェレフキンはカルドフスキーとその妻で売れっ子画家のオルガ・デッラ・フォス (1875 - 1952)とともに、市場町のオーバーストドルフを訪れている。この年、ヤウレンスキーの表現主義的創作活動は頂点を極めていた。中でも卓越した作品は、肖像画では例えば「トゥーランドットII (Turandot II)」(CR 468)や「自画像 (Selbstbildnis)」(CR 477)が、風景画では「オーバーストドルフの山脈の景色 (Landschaften Gebirge bei Oberstdorf)」(CR 545)や「青い山々 (Blaue Berge)」(CR 556)が挙げられる。オーバーストドルフからミュンヘンへ戻ると、ヴェレフキンとヤウレンスキーは上品な装丁で刷り上がったミュンヘン新芸術家協会第四回展のための冊子「新絵画(Das Neue Bild)」を 受け取った。この本のテキストとそれぞれの芸術家の解説文が気に入らなかったヴェレフキンとヤウレンスキーは腹を立て、それがもとでミュンヘン新芸術家協会を脱退した。8人の芸術家が参加したミュンヘン新芸術家協会第三回展と青騎士第一回展が12月18日から同日程で開かれた。ミュンヘン新芸術家協会は1920年にエルプスレーの手によって正式にミュンヘン市の法人登記簿から抹消されている。1913年にはヴェレフキンとヤウレンスキーは、ヘルヴァルト・ヴァルデン(ドイツ語版)の画廊デア・シュトゥルム(ドイツ語版)で開かれた青騎士編集部展に参加した。その後再びヴェレフキンとヤウレンスキーの関係が良好とはいえなくなり、ヴェレフキンはまた、故郷リトアニアの弟ペーターのもとへ行った。ペーターは1912年、ヴィリニュスの首長になっていた。 ヤウレンスキーの絵画はかつての燃えるような色彩を失っていた。例えば「巻き毛の婦人 (Frau mit Stirnlocke)」(CR 584)や「ザッハロフの肖像 (Bildnis Sacharoff)」(CR 601)がある。 1914年1月ヤウレンスキーは、パトロンを失った苦境から脱するために、資金援助をしてくれる人物を探そうと試みている。ところが驚くべきことに、ヤウレンスキーははや1914年2月12日には、ジュルナール・デ・ボルディゲーラ紙に、イタリアのリヴィエラの高級なビーチに客人として招かれたとの記述が見つかる。その地でヤウレンスキーは、去年の陰鬱な画面からはうって変わって、明るく光に満ちた絵を例外なく描いている。こうした絵のいくつかに描かれた細部は、今でもかの地で見出すことができる。例えば「ボルディゲーラの家 (Haus in Bordighera)」(CR 623)や「感謝祭―ボルディゲーラ (Fest der Natur - Bordighera)」(CR 624)がある。ヤウレンスキーがボルディゲーラからミュンヘンに帰ったとき、ギゼル通りのヴェレフキンの家はまだからっぽであった。そこで彼は、ヴェレフキンをミュンヘンに連れ戻すためロシアへ赴き、最終的にはこの試みに成功した。6月の終わりにはヤウレンスキーが、ヴェレフキンは7月26日にミュンヘンへ戻り、その6日後、第一次世界大戦が勃発した。
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