ドイツでの玉井
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ドイツ到着後の玉井は、ハンブルクやベルリンの輸入品店で働く生活を送っていたが、その生活の中でドイツ人のアジアに対する知識や考えに誤解が多いことに気づく。これを問題と考えた玉井は、日清戦争が起きたことを機に、ドイツの新聞で日本や清などアジアについての原稿を書くようになり、同時に、ドイツにおける日本についての言論などを日本の新聞社へ送るということも行なった。こうして玉井はジャーナリストとしての道を歩み始める。また、1898年(明治21年)には、シベリア横断、特にイルクーツク-トムスク間についての記録である『KARAWANEN REISE IN SIBIRIEN(西比利亜征槎紀行)』を刊行した。 同年3月、玉井は月刊誌『東亜 (Ost-Asien)』を発行する。ドイツにおいて、日本人によって雑誌が発行されるのは初めてのことであった。『東亜』は「日独貿易の大機関」とうたっており、日本を中心とした東アジアの情勢に関する報道の他、貿易に関する日本の法律のドイツ語訳や、ヨーロッパ在住の日本人の連絡先、ヨーロッパから東アジアに向かう船の時刻表などを掲載するなど、貿易を円滑にする情報を多く発信した。関連して、ドイツ企業の日本における特許取得の代理店などといった事業も行なっている。また、『東亜』の発行部数は5000部ほどであったが、そのうち3割程度は日本で販売されており、この、日本とドイツの両方で発売されているという点を活かして、日本とドイツ両方の企業から広告を多く取っていた。『東亜』に広告を掲載していた企業としては、ドイツ企業ではルーベック機械製造会社など工業機械会社が多く、またステッドラーなども広告を掲載している。日本企業では髙島屋、ヒゲタ醤油、日本郵船、横浜正金銀行などが広告を掲載していた。 『東亜』は1910年(明治43年)2月まで通算139号が発行されており(玉井の死後は老川茂信が主筆を引き継いだ)、そのうち138号分は東京大学総合図書館に所蔵されている。なお、『東亜』によく原稿を掲載していた人間としてアレクサンダー・フォン・シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの息子)がおり、アレクサンダーの原稿は、後世『ジーボルト最後の日本旅行』など単行本で出版された。 こうしてジャーナリストとして活動を続ける中で、玉井の家にはよく人が集まるようになっていき、ドイツに在留した日本人で玉井の家に行ったことのないものはないと言われるほどであった。このことから「私設公使」の異名をとるようになる。玉井の家に来た人物は寄せ書き帳に一筆するのがしきたりであったが、その寄せ書き帳には、新渡戸稲造、松村松年、高岡熊雄、大島金太郎といった札幌農学校時代の同僚をはじめ、長岡外史、大岡育造、美濃部達吉、後藤新平、長岡半太郎、芳賀矢一、巖谷小波、鈴木貫太郎、川上音二郎・貞奴などといった名前が残っている。 1904年(明治37年)、日露戦争が始まると玉井は、『東亜』誌上で戦争報道などを行なうかたわら、シベリアから脱出してきた戦争難民への支援や日本赤十字社への募金を呼びかけるなどといったキャンペーンも行なった。このうち日本赤十字社への募金については、平均的な初任給が月20円の時代に約1万2500円が集まったことが記録されている。また、この頃玉井は明石元二郎と接触していたことが妻・エツの証言から判明しており、公式な記録は残っていないため詳細は不明だが、情報収集などの点で明石の対露工作に協力していたのではないかとみられている。 しかし、この頃から玉井は結核に罹り、これが原因で1906年(明治39年)9月25日に死去。40歳。墓所は、ベルリンと光市の両方にある。 1924年(大正13年)、ベルリン商工会議所前に胸像が建立される。これは後に第二次世界大戦で破壊された。 1942年(昭和17年)、玉井のシベリア横断が初めて日本のマスコミ(大阪毎日新聞)に取り上げられる。 1963年(昭和38年)、『KARAWANEN REISE IN SIBIRIEN(西比利亜征槎紀行)』が初めて日本語訳され、小林健祐訳「シベリア隊商紀行」の題で筑摩書房の『世界ノンフィクション全集 47』に収録された。
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