札幌農学校時代
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札幌農学校第1期生16人は、教頭クラークの徳育を直接に受けた。開校直後にクラークは、学生らにただ一言、'Be gentleman'(紳士たれ)との鉄則を示した。大島は、終生この鉄則を意識した人生を送ることになった。1877年3月、クラークに感化された第1期生全員は、「イエスを信ずる者の誓約」 (Covenant of Believers in Jesus) に署名し、キリスト教徒となることを誓った(同年9月にはメソジスト監督のメリマン・ハリスより正式に洗礼を受けている)。 1877年4月16日、クラークは任期を終えて札幌農学校を去った。大島はクラークとの別離を漢詩に詠んでいる(クラークの別離の言葉については、ウィリアム・スミス・クラークを参照のこと)。 懐クラーク先生 青年奮起立功名 馬上遺言籠熱誠 別路春寒島松駅 一鞭直蹴雪泥行 札幌農学校在学中は、第2期生の新渡戸稲造、内村鑑三らと親交を深めた。内村は元々はキリスト教に強固に反対していたが、大島らの熱心な教化により、キリスト者となった。
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札幌農学校時代
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明治10年(1877年)4月に東京英語学校は東京大学予備門と改称されて、東京英語学校を修了すれば東京大学への進学が認められることになった。しかし、内村が入学して3年後の明治9年(1876年)、北海道開拓に携わる技術者を養成する目的で札幌農学校が創立された。内村は、北海道開拓使の役人の演説と官費生の特典に心を動かされて、経済上の理由もあり、札幌農学校への入学を決意する。札幌へ旅立つ前に、東京の芝で1ヶ月の合宿をした。その時、東京大学予備門時代の同級・新渡戸稲造、宮部金吾、岩崎行親らと立行社というグループを結成した。 内村ら第二期生が入学する前までに、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークら、いわゆるお雇い外国人の強い感化力によって第一期生は既にキリスト教に改宗していた。初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、新渡戸稲造と宮部金吾が署名したことがきっかけで、ついにほとんど強制的に立行社の岩崎行親と同じ日に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられる。内村はヨナタンというクリスチャンネームを自ら付けた。当時札幌には教会がなかったので、彼らは牧師の役を交代で務めた。そうして毎日曜日の礼拝を学内で開き、水曜日には祈祷会を開いていた。改宗することによって、若い内村は神社を見るたびに頭を下げずに済むようになったことを喜んだ。 明治11年(1878年)6月2日には、アメリカ・メソジスト教会のM.C.ハリスから洗礼を受ける。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達で集会(「小さな教会」と内村は呼ぶ)を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを目標とするようになる。その学生の集団を札幌バンドという。 在学中、内村は水産学を専攻し明治14年(1881年)7月、札幌農学校を農学士として首席で卒業した。卒業の際、新渡戸、宮部、内村の3人は札幌の公園で将来を二つのJのために捧げることを誓い合った。卒業後、宮部は札幌農学校で教鞭を取るために東京大学に行き、新渡戸も農学校で教鞭を取ることになったが、内村は北海道開拓使民事局勧業課に勤め、水産を担当した。勤務の傍ら、札幌に教会を立て、それを独立させることに奔走した。翌年に南2条西6丁目の古い家屋を購入して、札幌基督教会(札幌独立キリスト教会)を創立する。また、明治14年(1881年)10月に結成された札幌YMCAの副会長になった。 明治15年(1882年)に開拓使が廃止されると、札幌県御用係になり、漁業調査と水産学の研究を行った。ほどなく伝道者になるために県に辞職願を提出した。同年6月に辞職願は受理された。その後、津田仙の学農社農学校の教師になり、12月からは農商務省の役人として水産課に勤め、日本産魚類目録の作成に従事した。同月の第三回全国キリスト信徒親睦会には、札幌教会代表で有名な演説を行った。
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