札幌農学校へとは? わかりやすく解説

札幌農学校へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:20 UTC 版)

新渡戸稲造」の記事における「札幌農学校へ」の解説

15歳になった1877年9月になると、当時国内で唯一学士号授与する高等教育機関であった札幌農学校(現北海道大学)の二期生として入学した農学校創立時副校長事実上校長)として一年契約赴任した少年よ大志を抱け」の名言有名なウィリアム・クラーク博士は既に米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった在学中札幌丘珠事件発生し加害である巨羆の解剖をした。稲造は祖父達同様、かなり熱い硬骨漢であったある日の事、学校食堂張り紙が貼られ「右の者、学費滞納付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れ決められてたまるか」と叫び衆目前に関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学一歩手前まで追い詰められるが、友人達必死嘆願により何とか退学免れる。他にも、教授論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり「アクチーブ」(活動家)というあだ名付けられた。 クラーク一期生に対して倫理学」の授業として聖書講じその影響一期生ほぼ全員キリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道総攻撃にあい続々入信し始め一人一人クラーク残していった「イエス信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教興味持ち自分英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名した後日同期内村鑑三宗教家)、宮部金吾植物学者)、廣井勇土木技術者)らとともに函館駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼受けたクリスチャン・ネームは「パウロであった。この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。学校喧嘩発生した際「キリスト争ってならないと言った」と仲裁入ったり、友人たちから議論参加呼びかけられても「そんな事より聖書読みたまえ。聖書には真理書かれている」と一人聖書読み耽ったりするなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃あだ名は「モンク修道士)」で、友人内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。 この頃から稲造は視力悪化し眼鏡をかけるようになったが、やがて眼病患い、それが悪化して勉強への焦りからうつ病までもを患ってしまう。数日後病気知った母から手紙送られてきて、1880年7月盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったがため、鬱病がさらに悪化してしまった。その後母の死知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り病気の治療のために東京へ出る。その後洗礼授けたハリス横浜にて再会しトーマス・カーライルの『衣服哲学』(『サーター・リサータス』、Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となり、生涯幾度となく読み返した

※この「札幌農学校へ」の解説は、「新渡戸稲造」の解説の一部です。
「札幌農学校へ」を含む「新渡戸稲造」の記事については、「新渡戸稲造」の概要を参照ください。

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