札幌農学校と海外武者修行とは? わかりやすく解説

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札幌農学校と海外武者修行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 14:00 UTC 版)

広井勇」の記事における「札幌農学校と海外武者修行」の解説

札幌農学校では内村鑑三新渡戸稲造宮部金吾とともに二期生となった教頭には前年帰国したウィリアム・スミス・クラークに代わって、その愛弟子であるウィリアム・ホイーラー着任していた。ホイーラー当時20代半ば土木技術者であったが、わずか3年任期の間に、今も残る札幌市時計台(旧農学校演武場)や、木混合トラス構造豊平橋設計するなど活躍しており、国境越えて貢献するその姿は、勇の進路大きな影響与えた。他に、セシル・ピーボディらから土木工学数学測量術物理学などを学んだ在学中1877年明治10年6月、勇ら同期生6人は、函館駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼受けてキリスト教改宗した。勇は彼らの中でも非常に熱心な信者であったが、ある日内村鑑三に「この貧乏国に在りて民に食べ物供せずして宗教教うるも益少なし。僕は今よりは伝道断念して工学に入る」と宣言し内村らに伝道託したという。 1881年明治14年7月札幌農学校卒業後、官費生の規定従い開拓使御用掛に奉職11月には媒田開事務係で鉄路科に勤務し北海道最初鉄道である官営幌内鉄道小樽-幌内工事携わり初め小規模鉄道橋梁行った翌年開拓使廃止にともない工部省移り鉄道局日本鉄道会社東京-高崎建設工事監督として、荒川橋梁架設あたった。 翌1883年明治16年12月単身私費横浜港からアメリカ合衆国渡った。師ホイーラーらの紹介中西部セントルイス陸軍工兵隊本部技術者採用されミシシッピ川ミズーリ川治水工事携わった後、チャールズ・シェイラー・スミス(Charles Shaler Smith)の設計事務所橋梁設計従事したセントルイスでの両職場とも、当時世界最長アーチ橋であり、鋼鉄最初に用いた大規模橋梁でもあったイーズ橋のたもとにあり、強い印象書き残している。当時スミス事務所では、隣のケンタッキー州北米初、かつ世界最長かつ最高高さのカンチレバー橋であるハイen:High_Bridge_of_Kentucky)を設計していた。 スミス病没後は、はじめ南部バージニア州ロアノークにあるノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道、のちに北部デラウェア州橋梁建設会社エッジ・ムーア・ブリッジ(Edge Moor Bridge)に移って技術者として働く傍ら橋梁建築について英文著した技術書『プレート・ガーダー・コンストラクション』(Plate-Girder Construction)を刊行した同書は、理論から実践的な標準設計までを貫く内容からアメリカ大学教科書として長く使用され1914年には5刷が出るほど好評だったという。

※この「札幌農学校と海外武者修行」の解説は、「広井勇」の解説の一部です。
「札幌農学校と海外武者修行」を含む「広井勇」の記事については、「広井勇」の概要を参照ください。

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