札幌農学校と海外武者修行
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札幌農学校では内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾らとともに二期生となった。教頭には前年帰国したウィリアム・スミス・クラークに代わって、その愛弟子であるウィリアム・ホイーラーが着任していた。ホイーラーは当時20代半ばの土木技術者であったが、わずか3年の任期の間に、今も残る札幌市時計台(旧農学校演武場)や、木鉄混合トラス構造の豊平橋を設計するなど活躍しており、国境を越えて貢献するその姿は、勇の進路に大きな影響を与えた。他に、セシル・ピーボディらから土木工学、数学、測量術、物理学などを学んだ。 在学中の1877年(明治10年)6月、勇ら同期生6人は、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けてキリスト教に改宗した。勇は彼らの中でも非常に熱心な信者であったが、ある日内村鑑三に「この貧乏国に在りて民に食べ物を供せずして宗教を教うるも益少なし。僕は今よりは伝道を断念して工学に入る」と宣言し、内村らに伝道を託したという。 1881年(明治14年)7月に札幌農学校卒業後、官費生の規定に従い開拓使御用掛に奉職、11月には媒田開採事務係で鉄路科に勤務し、北海道最初の鉄道である官営幌内鉄道の小樽-幌内間工事に携わり、初めて小規模の鉄道橋梁を行った。翌年開拓使の廃止にともない工部省に移り、鉄道局で日本鉄道会社の東京-高崎間建設工事の監督として、荒川橋梁の架設にあたった。 翌1883年(明治16年)12月、単身私費で横浜港からアメリカ合衆国に渡った。師ホイーラーらの紹介で中西部セントルイスの陸軍工兵隊本部の技術者に採用され、ミシシッピ川とミズーリ川の治水工事に携わった後、チャールズ・シェイラー・スミス(Charles Shaler Smith)の設計事務所で橋梁設計に従事した。セントルイスでの両職場とも、当時世界最長のアーチ橋であり、鋼鉄を最初に用いた大規模橋梁でもあったイーズ橋のたもとにあり、強い印象を書き残している。当時スミスの事務所では、隣のケンタッキー州で北米初、かつ世界最長かつ最高高さのカンチレバー橋であるハイ橋(en:High_Bridge_of_Kentucky)を設計していた。 スミスの病没後は、はじめ南部バージニア州ロアノークにあるノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道、のちに北部デラウェア州の橋梁建設会社エッジ・ムーア・ブリッジ(Edge Moor Bridge)に移って技術者として働く傍ら、橋梁建築について英文で著した技術書『プレート・ガーダー・コンストラクション』(Plate-Girder Construction)を刊行した。同書は、理論から実践的な標準設計までを貫く内容から、アメリカの大学で教科書として長く使用され、1914年には5刷が出るほど好評だったという。
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