ドイツでの若年期
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「エリーザベト・シュヴァルツコップ」の記事における「ドイツでの若年期」の解説
ドイツ帝国・プロイセン王国ポーゼン州(英語版、ドイツ語版)(現ポーランド、ヴィエルコポルスカ県)のヤロチン(英語版)(独: Jarotschin, ポーランド語: Jarocin)で、ギムナジウムの教師フリードリヒ・シュヴァルツコップと妻エリーザベト(旧姓フレーリッヒ)の一人っ子として生まれた。幼少期から音楽に興味を持ち、歌の他にピアノ、ギター、ヴァイオリン、オルガンを習った。13歳の時に、マグデブルクで行われたグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』の学校公演でエウリディーチェを歌った。 1933年、ナチスが政権を握った直後に、校長を務めていたシュヴァルツコップの父親は、彼の学校でのナチ党会議を拒否したため、当局により解任され、他の教育のポストに就くことも禁止された。17歳のエリーザベトはアビトゥーアを取得した後に医学の道に進んだ可能性があったが、解任された教師の娘として、大学 (Universität) に入ることを許されず、音楽の勉強を始めた。 1934年、ベルリン高等音楽学校 (Berliner Hochschule für Musik)(現:ベルリン芸術大学)に入学し声楽を学んだ。最初はコントラルトとして出発し、ルーラ・ミシュ=グマイナーに師事してメゾソプラノとなる訓練を受けた。後に歌手で名教師のマリア・イーヴォギュン、そしてハインリヒ・エゲノルフに師事し、コロラトゥーラ・ソプラノに転向した。また、ゲオルク・フォラートゥーンの歌曲の教室にも通った。 1938年4月15日、シャルロッテンブルクのドイツ・オペラハウス(現:ベルリン・ドイツ・オペラ)でワーグナー『パルジファル』の2番目の花の乙女を歌いデビューした。彼女はベルリンに4年間滞在しているが、1940年に芸術面での突破口が開いた。リヒャルト・シュトラウス『ナクソス島のアリアドネ』踊り子ツェルビネッタでのデビューの際、自身もコロラトゥーラ・ソプラノであるマリア・イーヴォギュンの関心を引き、イーヴォギュンはシュヴァルツコップを自分の個人的な門下生として、ソプラノのレパートリーと歌曲を教えた。同年にシュヴァルツコップはドイツ・オペラハウスとの完全契約を獲得したが、その条件はナチへの入党であった。 シュヴァルツコップは、ときには非難されたことでもあるが、自然な音色というものは重視しなかった。彼女が重視したのはそれぞれの曲に合った精緻な音色と想像力であった。彼女はイタリアオペラのように音色を変化させることはしなかった。最盛期には絶対的に正確な「イントネーション」を持ち合わせていた。彼女は晩年までそれを保持し続けた。
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