コンサート関連
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1976年にソロデビューした時期が、ちょうど矢沢永吉のソロデビューと重なり、CBSソニーが矢沢を売り出す一環として行ったのが、矢沢のフィルムコンサートであった。同じCBSソニー所属だった関係で浜田は、そのフィルムコンサートの前座を務めた。ギターケース一つ下げて地方の指定された会場へ何度か一人で行った。そこは会場の周辺をオートバイとシャコタンに改造されたクルマが取り巻く暴走族の集会のような光景。会場内はリーゼントに革ジャンという客で埋め尽くされている。フィルムコンサートは、本人がステージに立つコンサートよりも熱狂的なファンが集まるため、「期待の新人、浜田省吾です」などという司会の声はまるで耳に入らず、「永ちゃん」コールを繰り返し、「早く、永ちゃんやれよ!!」と罵声が飛ぶ。スタッフから革ジャンを借りて、トイレで髪を濡らしてリーゼントにして持ち歌を歌うが、曲が終わっても聞こえてくるのは、「永ちゃん」コールであった。さらに地方にプロモーションに行くと、広島以外ではまったくの無名で、浜田を知る人は皆無。聞かれることは「広島フォーク村ってどうなったんですか?」「吉田拓郎はどんな人ですか?」ばかりで、吉田拓郎は恩人ではあるが、嫌悪感すら生まれ、名前を耳にするのもうとましくなったという。 1970年代後半の長い下積み時代、小さな町で数百人を集めてのライブに全精力を使い果たして、ホテルに帰ってテレビを付けると『ザ・ベストテン』をやっていて、後からデビューした人達が何十万枚とレコードを売って歌う姿を見る。テレビという巨大な主流・メインカルチャーに対して、「ライブはカウンターカルチャーだと思う。テレビからこぼれ落ちた大切なものを僕達は丁寧にすくって、大切に育ててきた」という自負をインタビューで述べている。 1980年代のコンサートで、出待ちに恵俊彰がいたことがある。恵は、何か渡さないとと思い、ポケットにあった10円玉を手渡したことがある。浜田自身も記憶に残っていると後世語っている。 1980年代半ば頃からコンサート・チケットがプラチナ化しており、毎回発売と同時に完売するほどの人気を誇る。ほとんどメディアに露出せず、レコード制作とライブ活動だけで人気を維持し続けている稀有な存在といえる。専用のトラックを早くから持ち、日本で初めてツアーを中心に活動を組立てたミュージシャンである。 1988年8月20日、静岡県浜名湖・渚園では史上初となる野外ライブ「A PLACE IN THE SUN at 渚園」を開催、52,000人を動員した。また同日には甲子園で静岡県立浜松商業高等学校(通称「ハマショウ」)が延長の末2対1で負け、「ハマショー(浜商)だめだったね…」と電車内などで地元人が言っていたため、渚園へ浜田(ハマショー)のコンサートに向かおうとしていた観客の中には「浜田省吾のコンサートが中止になったのか」と動揺した人もいたという。 1988年のツアーでは、3時間あまりのコンサートでアゴに支障をきたした。コンサートの期間中、日常生活では、マウスピースをしていた。 同じく1988年のツアーでは長岡で歌っている途中にサングラスを落とした。その時のMCでは「みんなも見るの初めてだろ?」と返した。その時いたファンにとっては大サービスだった。 基本的には1会場あたり2,000人規模のホール・ツアーと、1万人規模のアリーナ・ツアーの2つを行う。また、数万人を動員する大規模な野外ライブも開催している。また、ドーム・コンサートには否定的で、これまで一度も行っていない。スタジアム・ライブも、1984年に横浜スタジアムで開催したのみで、それ以来一度も行われていない。日本武道館でのコンサートも意外に少なく、1982年の初武道館が1回、その20年後の2002年に2回、計3回しか行っていない。ただし、「Act Against Aids」の武道館公演に2000年と2004年の2回ゲスト出演している。 1998年からのコンサートでは、客の年齢層を確かめる「年代別チェック」が恒例になっている。30代と40代の客が圧倒的に多いが、徐々に年齢層が高くなってきており、親子連れも多くなって10代の比率も増えている。親子2代で浜省ファンという人も多く、更には祖父母の代からのファンも存在する。10歳未満の子供をコンサート会場に連れてきた親には、「胎教のときから聞かせてたんでしょ?生まれたときにサングラスかけてなかった?」と冗談をいうこともある。 自分で作詞・作曲をしていない曲をコンサートで歌うことはめったにない。 コンサートでの定番曲「HELLO ROCK&ROLL CITY」を歌うときは、歌詞の一部をコンサート開催地に変えて歌う。津市でコンサートをやるときや、市ではなく町でコンサートをやるときはメロディと歌詞が合わないので困ってしまうとも話している。利府町の宮城グランディ・21で行う場合、「Hello 宮城グランディ〜」と歌う。 最近は、利府タウンと歌うこともある。 前述の「HELLO ROCK&ROLL CITY」だけでなく、本人の意向によって曲の歌詞を変えて歌うことが多い。ラスト・ダンスでは「二人靴がすりへるほど歩いたこの街」を「二人靴がすりへるほど歩いた○○」とコンサート開催地に変えたり、「夏の終り」では「潮風と波の音を枕にひとり暮らそう」を「潮風と波の音を枕にふたり暮らそう」と変えたりする。 1998年から始まった「ON THE ROAD 2001」は、4年間に及ぶ世紀を跨いだ前人未到のロングツアーであった。ホール、ライブハウス、アリーナ、野外ライブなどの各会場を織り交ぜた計198公演で、延べ60万人を動員した。47都道府県すべてでコンサートを行い、奄美大島や佐渡ヶ島などキャリア20年以上の中で初めてとなる会場もあった。1990年代に2000年という言葉を最初に掲げた世界初のアーティストである。 1998年10月7日に行なった姫路市文化センターで行なったコンサートでは、館内停電が発生した。急遽復旧まで、生ギターで数曲演奏するハプニングが発生した。この映像はSHOGO HAMADA Visual Collection "FLASH&SHADOW"のDVDで確認できる。 2000年に奄美大島の名瀬市でコンサートを行った際、地元の「南海日日新聞」にて『久々の大物歌手が名瀬で公演するチケットの売出し日、(中略)全盛期を過ぎても、まさかここまで根強い人気があるとは』と掲載された。ステージで早速ネタにされ、「俺はこれからが全盛期だと思ってるんだよ!」と笑いながら語った。後日、同紙に『あの一言は撤回します。素晴らしいコンサートでした』との記事が掲載される。 同じく2000年、黒磯でのコンサート中、開始2曲目で「脹脛断裂」してしまう。それでもコンサートはやり遂げた。このことはテレビのワイドショーでも採り上げられた。しかし、映像が昔のもので、バックに流れたのは20年前にヒットした「風を感じて」であった。本人は「このことが一番ショックだった」と語っている。 2001年以降のアリーナツアーでは、センターステージを設けることが多くなった。2001年以降のアリーナコンサートでは、アンコールの前に浜田本人の映像が数分流れる。2001年の場合は浜田本人が楽屋入りするまでの動画、2005年はそのコンサート土地でのエピソードを語る動画、2011年はコンサート当日の1年以上前に撮影された動画である。 コンサートでは、歌詞にあわせて身振り手振りで歌うことが多い。例えば、「電話」という歌詞があるところでは手で電話をかける仕草をしたり、「ドライブ」という歌詞がある部分ではハンドルを回す仕草、「こんな気持ちのまま」の歌詞にある「0時になる前に」という歌詞では腕時計を見る仕草をする。 「J.BOY」は、FC会員限定ツアー『100% FAN FUN FAN』以外の通常ライブでは、必ず歌う曲である。 2011年から行われたコンサート「ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"」では、新曲アルバムのない状態でのコンサートだった。本人は、コンサート内で、「新曲ができるのを待っていたら60代になってしまうから、それまでにコンサートでみんなに会いたかったため」と発言している。このツアーのチケットは一般のプレイガイドでは販売されず、すべてツアーサイト上で「ON THE ROADチケットセンター」に登録して購入する独自のシステムが採用された。チケット販売の種類には先行販売、一般販売、二次販売、直前販売などがある。会場によっては当日券も販売される。また、このコンサートでは送付されるチケットには座席番号は印字されておらず、当日まで自分の座席が分からない仕組みになっていた。会場の入口ゲートにて、専用機器でチケットのバーコードを読み込むことで、座席が印字された紙が手渡され、そこで初めて座席が分かるというもの。これはチケットの転売対策として、2009年に開催されたファンクラブ限定ツアー「100% FAN FUN FAN 2009 featuring Katz Hoshi 春の音楽会 "春来たりなば夏遠からじ…"」から試験的に導入された。 2015年頃まではほぼ4年ごとにコンサートを行っていたので、「オリンピックと同じ周期なんで次回のコンサートは4年後です!」と本人が直接言うことが多かった。オリジナルアルバムも発売間隔が広くなり、2009年のファンクラブ限定ツアー(『Journey of a Songwriter 〜 旅するソングライター』の初回限定盤DVD月Blu-ray収録)では、新曲の「恋する気分」を初めて演奏する前に「この曲は5年後に発売するアルバムに収録予定です」と笑いながら自虐をいうシーンがある。実際には2015年に収録され、6年後の発売となった。しかし、2015年にホールツアー(ON THE ROAD 2015)を行うと、翌年にはソロデビュー40周年、J.BOYのリリースから30周年記念となるアリーナツアー(ON THE ROAD 2016)を開催、2017年から2019年までファンクラブ限定ツアーを毎年開催している。 コンサートの舞台の袖をいっぱいを使って動いて歌うことが多い。まれに歌詞を間違えることもあり、2011年のコンサートでは「あれから二人」の歌詞「重ねた唇」を「束ねた唇」と歌い、最初からやり直したこともある。 2016年のコンサートではステージの左右、中央の3ヶ所にプロンプターを設置した。 メディアに登場しないため意外に思われるが、コンサートのMCでは饒舌ぶりを見せる。また、必ず開催地の感想や思い出を語り、ファンへの感謝の気持ちを述べる。ほぼ全ての会場で、入り待ちのファンに手を振って応えている。 関西(特に大阪)でコンサートを行う際は、MCで笑いを取ろうとする傾向がある。オーディエンスにネタと気づかれない場合は、「今の笑うとこなんだけど…」と自分で言うこともある。 2016年、ソロデビュー40周年記念として、ON THE ROAD 82からON THE ROAD 2016までの歴代ツアーパンフレットを電子書籍にて完全復刻した。 2016年11月5日、2016年11月6日に予定されていたマリンメッセ福岡でのライブは急性声帯炎、急性咽頭喉頭炎の為、延期することになり、本人体調不良での延期は約16年ぶりとなった。前回は2000年5月2日の四日市市文化会館、4日、5日の名古屋国際会議場である。次開催の横浜アリーナでは、この延期について触れ、「ご承知のように、福岡をキャンセル、延期してしまいました」「これがめちゃめちゃ悔しくて」と発言。月に10本以上やってる若い頃は、そういう事態になっても「頑張ってるからしょうがないと言われたけど、今はやっぱり歳だ、と言われる。その一点だけでも悔しくてやろうと思ったけど」と悔しさを繰り返し述べた一方で、「でも、あの時点でやっていたら、多分今日はなかった。判断は正しかった」とも述べた。 2018年のコンサートでは、2016年のノーベル賞受賞者のボブ・ディランに由来して、自分も○○賞(ノーベル賞・芥川賞・直木賞など)の受賞を狙っていると冗談を述べ、リスナーからつけてもらった愛称である浜省(浜賞)を大事にこれからも頑張ると笑いをとった。 2018年からは自身の音楽をもう一度見直し、そして見つけて大切にしてくれたファンに聞いてもらいたい、かつ、浜田自身が若い頃夢中になったビートルズやカーペンターズのようにメンバーが故人となっているミュージシャンはもう聞くことができないという寂しさから、自身の過去作品を年代別で披露するファンクラブ限定ツアーを毎年開催、それに先行しセルフカバーシングルを毎年リリースしている。2018年は自身の1970年代に作った曲、2019年には1980年代前半に作った曲のみで構成されたコンサートとなっている(2020年にも1980年代後半がテーマのツアーが予定されていたが新型コロナウイルスの影響で開催中止)。
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