エスニコスディハズモスとは? わかりやすく解説

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エスニコス・ディハズモス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/18 06:47 UTC 版)

国家大分裂
第一次世界大戦

エレフテリオス・ヴェニゼロス(左)と国王コンスタンティノス1世(右)
1913年ごろ、国家大分裂の前の写真
1914年 / 1915年 - 1917年
場所ギリシャ王国
結果

ヴェニゼロス派の勝利

衝突した勢力
王党派
支援:
 ドイツ帝国
 オーストリア=ハンガリー帝国
ヴェニゼロス派
支援:
フランス
 イギリス
指揮官
コンスタンティノス1世
イオアニス・メタクサス
エレフテリオス・ヴェニゼロス
Pavlos Kountouriotis
Panagiotis Danglis
ギリシャの歴史

この記事はシリーズの一部です。

ギリシャ ポータル

エスニコス・ディハズモス[1](ギリシャ語: Εθνικός Διχασμός、日本語で国家大分裂)とは、ギリシャの首相であったエレフセリオス・ヴェニゼロスと国王コンスタンティノス1世の間で、ギリシャが第一次世界大戦に参戦すべきかどうかという論争を中心とした一連の事件である。

解説

第一次世界大戦に際し、首相ヴェニゼロス連合国側での参戦を主張したが、国王コンスタンティノス1世は中立を望んだ[2]。両者の溝は深まり、1915年にヴェニゼロスが首相を辞任すると、国王はディミトリオス・グナリス英語版を首相に任命した[2]。連合国(イギリスとフランス)の支援を受けたヴェニゼロスは、1916年9月にアテネの政府に対抗すべくテッサロニキに政府を樹立した[2]。こうして、ひとつの国家にふたつの政府が併存する「国家大分裂(エスニコス・ディハズモス)」と呼ばれる状況が生まれた[2]

1917年5月、国王がイギリスとフランスの圧力に屈したことで、国家大分裂はヴェニゼロス派の勝利に終わり、ギリシャは連合国側で第一次世界大戦に参戦することになった[3]。ヴェニゼロスはテッサロニキからアテネに帰還し、国王は王位を息子のアレクサンドロスに譲り、亡命した[3]

この対立は、国内を2つの陣営に分け、ギリシャ社会に極めて深い亀裂を生じさせた。この軋轢の影響は1930年代の終わりまで残った。その後の小アジアの災害も、国家大分裂の影響が大きいと主張する研究者もいる。

脚注

  1. ^ 良樹, 佐藤、Sato, Yoshiki「ヴェニゼロスと近代ギリシャにおけるイレデンティズム : 英文による先行研究のレビュー」『同志社政策科学院生論集 = Doshisha policy and management review』第11巻、2022年2月25日、37–46頁、doi:10.14988/00028703 
  2. ^ a b c d 村田2012, p.165
  3. ^ a b 村田2012, p.166

参考文献

  • Leon, GB (1974), Greece and the Great Powers 1914–17, Thessaloniki: Institute of Balkan Studies, https://books.google.com/books?id=WYmyAAAAIAAJ 
  • Leontaritis, George B. Greece and the First World War (1990) 587 pp
  • Driault, Edouard. Greece and the First World War (1908–1923)
  • Heinz A. Richter. Greece, 1915-1917, in the Russian archives
  • Mazower, Mark. "The Messiah and the Bourgeoisie: Venizelos and Politics in Greece, 1909–1912," Historical Journal (1992) 35#4 pp. 885–904 in JSTOR
  • 村田奈々子『物語近現代ギリシャの歴史 - 独立戦争からユーロ危機まで- 』(2012年2月、中公新書)


外部リンク


エスニコス・ディハズモス(国家分裂)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 16:35 UTC 版)

エレフテリオス・ヴェニゼロス」の記事における「エスニコス・ディハズモス(国家分裂)」の解説

「エスニコス・ディハズモス」も参照 第一次世界大戦勃発時、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世の妹を娶り、ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国軍事力信じていたコンスタンディノス1世イギリスフランス敬意払っていたヴェニゼロスとの間には確執徐々に生じていた。戦争勃発すると、ヴェニゼロス連合側に参加して戦うべきと考えイギリス外相エドワード・グレイ申し出ていた。その一方で中央同盟側に参加したいイギリス海軍前にギリシャ無力であることをよく知っていたコンスタンディノス1世あくまでも中立維持すべきと主張していた。 1914年11月オスマン帝国参加するブルガリア参戦させたくなかったイギリス1915年1月カヴァラドラマセレスブルガリア移譲そのかわり北部イピルス地方小アジア沿岸地域重要な地域ギリシャ移譲するという曖昧な提案行ったヴェニゼロス英仏軍のテッサロニキ上陸ルーマニアの参戦ブルガリア挟撃連合軍求めた上でこれに従うべきであるとしたが、国王と軍の相談役はこの約束が確実ではないということ渋っていた。そしてロシア抗議ルーマニアが行動を起こす気がないことでヴェニゼロス要求取り下げたが、参戦することをあきらめことはなかった。2月ダーダネルス海峡においてガリポリの戦い勃発するとヴェニセロスはこれに参加することを強く説いたため、コンスタンディノス1世参加一度認めたが、軍参謀イオアニス・メタクサスがこれに抗議して辞任する参加拒否したため、国王方針変更直面したヴェニゼロス1915年3月6日首相辞任した1915年6月選挙が行われるとヴェニゼロス派が議会大勢占めたため、ヴェニゼロス職務復帰したヴェニゼロスセルビア、及びブルガリア互いに譲歩するように説得したが、国王コンスタンディノスドイツに対してギリシャ中立保持することを保証した考えられていたことや連合国セルビアギリシャブルガリア譲歩するよう圧力強めていたことからヴェニゼロス説得失敗終わった9月ブルガリア総動員仕掛けるとギリシャ総動員を行うように国王要求したが、国王拒否した。これに対しヴェニゼロス辞職仄めかすしたため国王渋々同意したが、攻撃仕掛ける気は毛頭なかった。しかし、ヴェニゼロスギリシャセルビア救援義務があるとして、イギリスフランス招いた上でさらに国王承認得た上でテッサロニキに軍を派遣したが、10月ブルガリア参戦して国王攻撃することを認めずさらには英仏軍がテッサロニキ上陸すると、ヴェニゼロス罷免した。 12月選挙が行われたが、ヴェニゼロス国王憲法上の権利濫用非難して選挙放棄した。そのため、ヴェニゼロス派は前回選挙4分の1しか票を得る事ができなかった。一方協商国国王率い政府との関係悪化しはじめ、1915年10月テッサロニキ協商国が兵を置いてギリシャ中立翌年1月コルフ島占領して中立のままであった。そしてセルビア軍行軍拒みブルガリア軍マケドニアのルペルを引き渡したことでさらに関係は悪化した8月テッサロニキにおいてヴェニゼロス支持していた陸軍将校らがクーデター起こした。これには協商国組織『エスニキ・アミナ(民族防衛)』の後ろ盾があり、ヴェニゼロスはここに臨時政府設立ギリシャ事実上分裂した協商国はこの行為歓迎はしたが、公認はせずに国王の方への圧力高めてゆく手法を取った12月イギリス・フランス両軍ピレウスアテネ上陸、さらに圧力高めた上でヴェニゼロス率い臨時政府承認国王率い政府に対して賠償金求めた。そして6月国王コンスタンディノス1世に対して立憲君主としての権利侵害に対して国外退去求めた国王コンスタンディノス1世はこれに応じて国外へ退去その後アレクサンドロス継いだ。 この出来事分裂状態であった表面上はギリシャ統一されヴェニゼロスが再び首相に就任したが、国王忠誠誓っていた南ルメリアペロポネソスではヴェニゼロス派が粛清されるなどギリシャ未だ分裂したままであったヴェニゼロス国会を再召集1915年6月議席数が正しいものであり、ヴェニゼロス派が放棄した12月選挙無効であると主張このため新たに招集され議会ヴェニゼロス大量信任票を投じた首相に就任したヴェニゼロス国王派追放解雇行いその手軍部にまで及んだヴェニゼロス1918年9月マケドニア戦線において協商国攻勢が始まるとこれに軍を参加させ戦果挙げた。この戦いで西部戦線崩壊始まり11月11日休戦となったヴェニゼロスパリ講和会議ギリシャ代表団長として参加協商国協力してきたことを盛んにアピールした。そしてスミルナ (現在のイズミル) の要求行いコンスタンティノープル国際管理賛成、そして東西テッサリア地方までを要求した。さらにドデカネス諸島、及びイピルス北部領土的主張行った1919年5月15日ギリシャ軍イタリア分遣隊スミルナに向ったことを理由イギリスフランスアメリカ承認の元、スミルナ占領ギリシャ人トルコ軍からの報復から守ることを理由駐屯した。 1920年8月ギリシャオスマン帝国間でセーヴル条約結ばれた。この条約ではスミルナ管理権が五年継続されその後国際連盟管理下で住民による投票が行われ、この地域帰属決定されることが明記された。ヴェニゼロススミルナ小アジアギリシャ人集めれば将来住民投票勝てるという確信持ってこれを迎えた。しかし条約調印2か月後、国王アレクサンドロス1世急死するとその雲行き怪しくなった。1920年11月選挙では元国王コンスタンディノスヴェニゼロス対立表面化し、反ヴェニゼロス派が元国王支持行ったことでヴェニゼロス派は大敗ヴェニゼロス自身落選するという憂き目となった選挙勝利した国王派イギリスフランスイタリア反対があったにも関わらず国民投票行い国王復帰決定コンスタンディノスは再び王位に就きヴェニゼロス派は粛清された。選挙運動中、国王派ヴェニゼロス拡大主義反対主張してきたが、いざ国政を握るとヴェニゼロスの後を継いで拡大主義続けることは明白となった。しかし、ムスタファ・ケマル率いトルコ前にギリシャ軍惨敗スミルナ陥落し、『メガリ・イデア』は終り告げた小アジアにおけるギリシャ軍撃破され、小アジア暮していたギリシャ人らは難民化しエーゲ海島々ギリシャ本土逃亡した。その中、ヴェニゼロス派の陸軍少佐ニコラオス・プラスティラスを中心とするグループ権力を掌握することに成功した。この出来事のために国王コンスタンディノス退位し長男ゲオルギオス即位し文民政府が一応建てられたが、結局権力革命委員会握っていた。そして、ギリシャ国内では敗北混乱からスケープゴートを選ばざるを得なかった。このため小アジア司令官ハジアネスティス将軍初めとして8人の政治家兵士らが軍事法廷裁かれ、6名が銃殺刑宣告された。しかし、この裁判ヴェニゼロス派とその対立者との溝を広げるばかりであった。そして1924年4月ヴェニゼロス派は対立の深まる国王派との対決決着をつけるべく国民投票行い王政廃止共和国化(ギリシャ第二共和政)されることが決定されたが、この結果をもってしても国王派ヴェニゼロス派との対決が止むことはなく、戦間期通じて対立は続く。 首相に復帰したヴェニゼロス新たにローザンヌ開かれた講和会議ギリシャ立場主張外交手腕発揮しようと努力していた。が、セーヴル条約得た領土多く放棄と、ギリシャ・トルコ間の敵対関係緩和するためにギリシャ・トルコ間での住民交換を行うことがローザンヌ条約として決定された。この住民交換ギリシャ本土移動した難民たちはヴェニゼロス支持者となった1929年世界恐慌が始まるとギリシャにもその影響が及び1930年1931年財政危機起こした。そのために翌年ヴェニゼロスはイギリス・フランス・イタリアを訪問して融資申し込んだが、すでに国家予算43%が対外責務によって占められているギリシャに対して融資する国はなかった。そして翌年金本位制から離脱する4月には責務不履行となり、ギリシャ国内に経済危機発生する至ったヴェニゼロス近代的ブルジョワ社会変貌させることを目指していたが、この出来事によりヴェニゼロス支持していた企業家らは離反して行った。さらに反ヴェニゼロス派はこの経済危機発生により、活動再開ヴェニゼロス対立する人民党党首パナヨティス・ツァルダリスはヴェニゼロス批判、さらに反ヴェニゼロス派による中傷キャンペーンまでが行われた。 1933年3月選挙が行われると人民党勝利した。そのためプラスティラスは反ヴェニゼロス派による粛清恐れクーデターを再び起こそうとしたがこれに失敗、そのため6月会食終えたヴェニゼロス凶弾襲った。幸いヴェニゼロス無傷であったが、随行一名死亡運転手と妻が負傷した。この事件人民党関与疑われた。1935年3月には再びクーデター試みられ、これにはヴェニゼロス関係していたが失敗終りヴェニゼロスパリ亡命したヴェニゼロス亡命後ギリシャ国内ではヴェニゼロス派と王政復古派との争い続いた1935年10月には王政復古議会宣言され選挙によって王政復古決定された。ゲオルギオス2世帰国しヴェニゼロス含めたヴェニゼロス派の恩赦決定した。そしてヴェニゼロスギリシャ団結するために国王協力するべきであることを提言している。恩赦得たヴェニゼロスクレタ島へ戻ることを熱望した。しかし、ギリシャ国内ではまだ混乱続いており、ヴェニゼロス帰国によりさらに拍車がかかることが想像された。一方でヴェニゼロスドイツナチス政権奪取したことで大規模な戦争起ることを懸念しており、そのためにもギリシャ国内の団結望んでいた。結局彼の望みは叶わず1936年3月18日パリにて没した死去後ヴェニゼロス亡骸アテネ運ばれることを拒否され結局ヴェニゼロス政治的原点であるクレタ島アクロティリ埋葬された。

※この「エスニコス・ディハズモス(国家分裂)」の解説は、「エレフテリオス・ヴェニゼロス」の解説の一部です。
「エスニコス・ディハズモス(国家分裂)」を含む「エレフテリオス・ヴェニゼロス」の記事については、「エレフテリオス・ヴェニゼロス」の概要を参照ください。

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