手工業
手工業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 15:57 UTC 版)
農民の自立が進むと、それまで宮廷に属していた工人も解放されて自立し、手工業が一般的に行われ市場が成立する。日用品や農具、織物や紙など。今日各地方の特産物と呼ばれるものは室町時代が起源であるものも多く、京都の西陣では明から輸入した生糸を利用して高級織物である西陣織がつくられた。 そのほか、日明貿易の関係上、堺、山口、博多などの都市近辺で高級織物が生産されるようになったほか、社寺の建立が地方にも拡大したため、製紙業が大きく発展した事と、製陶業が応仁の乱前後から地方にも広まった点が室町時代の特徴である。 また室町時代前期には大寺社の改修や建立により、後期には戦国大名の城郭・軍船などの建設の関係上、鎌倉時代よりも林業が発達、流通も行われた。天文初年の本願寺修築に土佐国にもとめているほか、天文年間の京の材木座には美濃や飛騨の材木が取り扱われている。
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手工業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 09:23 UTC 版)
考古学の発掘の成果により、嶺南地区では遅くても春秋時代に既に青銅器が私用され、原始的な青銅鋳造技術が存在していたことが明らかになっている。しかし当時において青銅器の使用は一般的なものでなく、秦始皇帝が嶺南と趙佗が建国した南越国を統一し、中原より青銅器の鋳造技術がもたらされた後に発展、使用する青銅器の種類と数量が飛躍的に増大した。南越王墓と羅泊湾1号墓からはそれぞれ500件と200件を超える青銅器が出土している。これらの青銅器は一部の兵器と日用生活品以外、殆どが南越国で鋳造されたものであり、勾鑃、越式銅鼎、提筒、香炉、鼓、壷などの種類が確認されている。 嶺南地区の鉄器は始皇帝による統一後に大量に出現している。南越国の時代、鉄器を使用することは一般的なものであったと考えられ、南越王墓からは246件の農具、工具、武器など多様な鉄器が出土している。しかし南越国での鉄資源は非常に限定されたものであり、その材料は中原からの輸入に依拠するか、或いは鉄製品の再利用によったものと考えられている。 南越国の墳墓副葬品として最も多く出土しているものが陶器である。南越王墓より991件が出土し、日常生活で実際に使用されたもののほかに、副葬品としての明器、レンガや瓦なども出土している。これらの陶器は南越国で製造されたものであり、独特な様式は幾何印紋陶器と称されている。 また南越国では玉器の製造が非常に発達しており、南越王墓からは244件が出土している。これら玉器は儀礼用、埋葬用、装飾用などに分類され、多様な様式のものがさまざまな用途に使用されていた。特に有名な出土品としては絲縷玉衣、青白玉角杯、承盤高足杯、玉璧、龍虎并体玉帯鉤、龍紋重環玉珮などがある。これらは南越国内で加工されていたものと考えられ、その原料は自国産のもの以外に、その多くを国外からの輸入に頼っていた。 上記手工業以外、南越国には金銀加工、紡績、漆細工などの手工業が発達していた。それらは南越王墓より出土した文帝行璽龍紐金印、泰子亀紐金印、虎頭金鉤銜玉龍、金帯鉤などにより当時の技術をうかがい知ることができる。
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手工業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)
手工業は、工部および少府監、将作監の三つが所管していた。唐政府は、府兵に似た組織を適用して、大量の職人を管理した。官営手工業に従事する職人は三種類あり、官奴婢らの無期服務者、輪番職人(番戸は1年3番、雑戸は2年5番。1番は1か月)、1年に20日の賦役の義務を負う一般職人がいた。無期服務者は絹で代納することができた。職人は徴税等により賦役を免除を許されたが、技巧であると認めたものは許されなかった。職人は世襲であり、転業も許されなかった。 また、「雇」となる手芸職人は、日当絹3尺が相場であり、雇には政府が正式に認めた職人や輪番終了後の職人がなることがあった。これは和雇と呼ばれ、比較的自由であったが、輪番の非番のものが、和雇を名目に束縛されることがあった。職人は日当として代物が支払われるが、政府による不払いが時代が進むほど増えていった。 役所における職人の訓練には一定の期間を設けており、年末に試験を行い、合格したものは職人となれた。特に優れたものは「巧」、一般的には「匠」と呼ばれた。役所は技術相伝であり、民間にも徒弟制度があった。武器の私製は禁止し、奴婢に対しては、死刑や流刑で対し、統制を行った。政府に官手芸職人、民間手芸職人は管理されたが、彼らの働きが、手工業を発展させる原動力となった。 手工業は、民営のものも発達し、家庭で製造するものと、工房で人を雇いつつ自ら生産を行い販売を行うものがあった。行組織も発達するとともに、官営の大規模な工房が増加し、専門に雇工として従事するものも現れている。 手工業では紡績業の絹の生産が最も発達していた。租庸調の税制により、農民にとって、絹を政府におさめねばならないことから、大事な副業であった。絹は、絹織物、錦織物として朝廷の衣に用いられ、八等に分けて評価された。極めて軽く、透明に近い薄紗に、蝋纈染により精緻な絵が描けるほど彩色技術が進んでいた。錦は彩色の飾り模様を持った織物で、織る前に糸に染色を施したものであった。漢代から縦糸を使って模様を表した経錦を引き継ぎ、横糸を使った緯錦を加え、より細密で多彩となった。絹織物は前半は北方で栄え、中唐以降は南方で発展した。また、玄宗期から都市部に大規模な個人紡績工場も出現し、綿織業も発達した。 絹は唐代前半は貨幣の役割を果たして国内で流通し、外国にも主要な貿易品としてシルクロードを通って大量に輸出された。 磁器は、陶器から分離して独立した分野として生産されるようになった。磁器のうち、白磁は、河北邢州の「邢窯」の代表とし、北方でつくられ、堅牢かつ純白であった。また、青磁は、越州を代表とし、南方で作られ、精緻で、うわぐすりが潤沢で茶器として好まれた。唐三彩も作られ、陶磁器は外国に大量に輸出された。製磁業は拡大し、顕著な進歩をして、金銀器、漆器に代わり、日用不可欠なものになった。唐代の陶磁器は高い水準に達しており、高い評価を現代にまで受けている。 製紙は、原料として麻・藤・樹皮・竹・繭・絹などが使われ、種類の拡大に伴い、生産コストが減少した。また、原料の違いによる紙の品種も増えた。紙は大いに普及し、四川や江南で名紙と知られたものが作られた。蜀の地では加工紙も作られ、書画の発達とともに精巧となった。また、大規模な製紙工場も造られている。 鉱業は少府監下の掌治署令が管掌し、後に塩鉄使の管掌となった。銅鉄には税を課し、白蝋は官で販売していた。西北辺境では、採鉱や冶金をすることを禁じ、冶金所では、生産に官に報告する必要があった。他の地域では、私人が自由に採ることができた。銀、銅、鉄、錫、鉛、丹砂があり、銅鉄の生産が多かった。石炭や石油の探鉱も存在した。 金属器も発達した。鋳造器物の技術も精巧であり、揚州の銅鏡は世に知られ、巨大な鏡など多様な銅鏡がつくられた。また、主に宮廷で使用された金銀器物の技術も向上し、金銀器は中央アジアや西アジアの装飾を参考にして作られ、装飾は緻密なものになった。鋳造器物の製造には、水力利用した溶解作業も行われ、全体的な生産や質は向上し、金属製品の供給は増大した。 造船業は工部配下の水部郎中と都水監配下が管掌していた。政府が大規模な造船を行ったことも多かった。造船技術は発達を続け、江南各地で造船業が発達し、官営の工場も増え、民間の造船も増えていた。民間の船には積載量一万石に達すものもあり、船員には船中で一生を過ごすものもあった。豪商が大船を所持し、商品輸送に使われた。 製塩業は、唐政府により統制、独占され、海塩、地塩、井塩は全て管理された。唐代中期以降は、塩鉄使が設置される。井塩は、四川の東側に集中していた。海水塩については、江南に偏在していた。各地の塩について、食用にする地域が厳しく規定された。私塩の売買は厳罰で臨まれたため、塩は相当に高額となった。中期以降の唐王朝は塩税に支えられ、製塩職人は過酷な労働を強いられて、自由を有しなかった。次第に、塩の密売が起き、茶密売とあわせて農民暴動につながっていった。
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手工業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:19 UTC 版)
E.I. ゲルマン(英語: E. I. Gelman、ロシア語: Е. И. Гельман、ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民俗学研究所)は、渤海の施釉土器と陶磁器の起源が唐にあるとしながらも、唐三彩と施釉土器とは異なる特色があるといい、渤海に三彩が定着することができたのは、安史の乱後に、中国で三彩の生産がほとんど破綻し、その職人が仕事を見つけて渤海へと渡り、これが渤海の三彩の起源であり、渤海の粘土は質が異なるため、渤海で生産された三彩は特徴を持つようになり、渤海で生産された三彩は「渤海三彩」と呼ぶことができると主張している。 エ・ヴェ・シャフクノフ(極東連邦大学、英語: E. V. Shavkunov、ロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)は、クラスキノ土城から出土した渤海瓦には顕著な高句麗瓦の特徴や影響は見られないと指摘している。
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