ギリシア美術とは? わかりやすく解説

ギリシア美術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/25 15:44 UTC 版)

ギリシア美術(ギリシアびじゅつ)は、現在のギリシャ共和国を含むバルカン半島アナトリア半島などの古代・中世のギリシア人居住地域を中心に発展した美術および、現在のギリシャ共和国の美術。単に「ギリシア美術」といった場合は、古代ギリシア時代の美術を指すことが多い[1]

古代ギリシア美術

シフノス人の宝庫の装飾(デルフィ考古学博物館所蔵)

古代ギリシア哲学者達は、美術を「熟練した洞察力と直感を用いた美的な成り行き」として定義している。そこで、絶対的な美の基本は見るものをどれくらい感動させられるか、という点にある。その結果、ギリシアの芸術作品は、完璧な美を備えている神々の姿をとった彫刻が多い。紀元前11世紀頃にエジプト文明の影響を受けて誕生し、西洋絵画のルーツとされている[2]

ギリシア彫刻の発展は紀元前7世紀以降のアルカイック期、クラシック(古典)期、ヘレニズム期に分けられる。アルカイック初期の彫刻には、独特な微笑と、両手を腿に当てた直立したほぼ左右対称的な彫刻(クロイソスのクーロス像など)があり、エジプトのファラオ像の影響が見られる。これらの特徴は次第に消えていき、クラシック期には、自然主義的で理想の人体美を追求し、動作に富む非対称で写実的な彫刻が創られ、ヘレニズム期には、より激しい動きの構図と感情表現が加えられるようになった[3]。後期には顔の表情があまり表れなくなるが、これは当時の考えであった、「人間的感情を公で出すのは野蛮である」に基づくものである。

これら古代ギリシアの美術は、ローマ美術オリエントの美術に大きな影響を与え、またオリエントの美術の影響も受けている。

ビザンティン美術

中世になると古代ギリシア文明の栄えていた地域は東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国という)の領土となり、古代ギリシアの美術にキリスト教正教会)、オリエントの影響を受けたビザンティン美術が発展した。ビザンティン美術の高度なモザイク技術や建築イコンなどは東ヨーロッパの正教圏、西欧の美術にも大きな影響を与えた。特に8世紀の偶像禁止令以降、イコンは抽象化が進んだが、ビザンツ帝国衰退後はモザイク画に代わってフレスコ画が主流となる[4]

近現代ギリシア美術

脚註

  1. ^ 例えば『角川 世界史辞典』(角川書店)P252の「ギリシア美術」の項目では「古代ギリシア人の手になる陶器、工芸や彫刻、建築などの分野が中心をなす美術」と書かれている。
  2. ^ 『ビジュアル版 一冊でつかむ西洋絵画』、2023年9月20日発行、岡部昌幸、株式会社河出書房新社、P10。
  3. ^ 『ビジュアル版 一冊でつかむ西洋絵画』、2023年9月20日発行、岡部昌幸、株式会社河出書房新社、P10~11。
  4. ^ 『ビジュアル版 一冊でつかむ西洋絵画』、2023年9月20日発行、岡部昌幸、株式会社河出書房新社、P11。

関連項目

外部リンク


ギリシア美術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 18:17 UTC 版)

西洋美術史」の記事における「ギリシア美術」の解説

詳細は「ギリシア美術」を参照 アーサー・エヴァンズクノッソス発掘によって、地中海域で最初に開花したとされるクレタ美術ミノス美術英語版))の解明なされた新石器時代末期から青銅器時代初頭にかけて、キュクラデス諸島などで人体特徴簡潔に捉えた石偶や彩色土器金属器などが制作されている。旧宮殿時代に入ると農業海上貿易によって都市経済的に大きく発展しマリアクノッソスアヤ・トリアダなど各地荘厳な宮殿造営された。工芸品数多く制作されカマレス陶器のような豪華なものも出現している。 紀元前1700年頃に発生した大地震により一時壊滅危機陥るが、新宮殿時代に入るとより複雑で豪華な装飾を持つ宮殿離宮建立された。自然と人類を見事に調和させ、自由闊達描いた壁画残されており、こうした作風ペロポネソス半島隆昌したミュケナイ美術受容継承された。紀元前1400年頃に入ってミュケナイ人がクレタ島征服すると、ミュケナイ美術最盛期迎え、後のギリシア建築大きな影響与え建造物複数建築された。ミュケナイ美術時代を経るに従って豊かな自然主義的作品から簡素化され装飾モチーフ用いた形式主義的作品へと変遷しており、その理由については明らかになっていないその後紀元前12世紀頃のドーリス人大移動を境に衰退期へと移行しミュケナイ美術はその幕を閉じることとなった紀元前11世紀中ごろアテネケラメイコスからミュケナイ陶器とは異な特徴持った陶器出現した黒線平帯によって区分した装飾帯に波状線や同心円文を配した構築的な装飾持ったこれらの様式原幾何学様式呼ばれミュケナイ美術とは明確に区別されるようになった紀元前925年頃になるとこの傾向はより顕著に現れるようになり、紀元前8世紀前半登場したディピュロン陶器メアンダー文、ジグザグ文、鋸歯文菱形文などを複雑に組み合わせた装飾配されている。 こうした幾何学的な構想陶器文様限らずテラコッタ青銅彫刻などにおいても同様の傾向見られ動物人間など各部位幾何学的形態置き換えた後に全体再構築するという過程経て制作されており、有機的形態分析による認識法や、部分均衡全体調和によるギリシア美術固有の造形理念見られる。以上のような経緯経てギリシア美術は確立に至るが、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン記した古代美術史』に代表されるように、ギリシア美術こそが西洋美術はじまりであるとする言説存在している。 その後エジプトアッシリアシリア東方から持ち込まれ工芸品通じて、ギリシア美術における装飾モチーフ表現領域大きく拡大し、パメルット(英語版)、ロータスロゼットなどの植物文やスフィンクスなどの空想動物用いられるようになった。プロト・コリントス式陶器コリントス陶器など、こうした装飾モチーフ利用して制作され作品はギリシア美術の中でも特に東方化様式呼称し、区別されている。 一方アテネでは叙事詩物語への関心高まったことによりこれらをモチーフとした陶器彫刻制作され、これらはやがて神話表現へと昇華していくこととなった紀元前7世紀に入るとエジプト彫刻影響大掛かりな彫刻制作されるようになり、この頃作られ男性裸体像(クーロス英語版))は既に両足前後させて体重均等に支えポーズをとっており、ギリシア彫刻としての特徴見て取れるここまでに培われた表現基盤技術的要素背景として紀元前7世紀中盤ごろよりギリシア美術において最も創造力満ちたアルカイック美術展開された。人体彫刻はより自然な骨格筋肉まとったものへと発展し神殿建築分野ではこれまでの日干煉瓦材木に代わって石材使用されるようになり、アポロン神殿ドイツ語版)に代表される周柱式神殿誕生した紀元前6世紀にはサモスヘラ神殿エフェソスのアルテミス神殿など、イオニア式オーダーによるより巨大な神殿建立されるに至り、これに伴う建築装飾技法大い発達した浮彫彫刻では静止像に動性を、運動像に瞬間静止表現できるよう試行錯誤繰り返されるようになり、その過程アルカイックスマイルなどの立体表現生み出された。なお、ギリシア美術で好んで使用され素材である大理石の色によってギリシア彫刻特徴としてその「白さ」が取り上げられることがあるが、制作当時エジプトから輸入され顔料などを用いて鮮やかな彩色施されていたことが近年の研究によって明らかになっている。 陶器画の分野ではアッティカコリントス陶器技法吸収して黒絵式技法確立しフランソワの壺代表されるような、神々英雄神話的場面描出した作品制作された。アマシスエクセキアスはこの技法をさらに洗練させ、前者人間味溢れ神々の姿を、後者重厚な筆致崇高な神々の姿を描き出し神人同形アントロポモルフィズム)という観念確かなものとしている。その後黒絵式陶器画は赤絵式陶器画へと転換していき、より細部こだわった絵画的表現なされるようになったこうした技法発展背景は、板絵壁画といった新し芸術表現対す絵画的探究表れだったのではないか考えられている。 紀元前5世紀初頭に入ると、ポリュグノトス (en:Polygnotos (vase painter)) やミコン英語版)といった画家によって「トロイア陥落」「マラトンの戦い」などの神話歴史画描かれ、大絵画というジャンル確立する至った。四色主義(テトラクロミズム)という制約の下、形像重複短縮法といった技法駆使することによって絵画上に奥行きのある空間表現試みており、絵画彫刻におけるギリシア美術の進むべき方向性示したという意味で特筆すべき存在となった彫刻分野作品においてはそれまで直立不動姿態から支脚/遊脚の概念取り入れたコントラポストへと変化しており、クリティオスの青年英語版)やデルフォイ御者像(英語版)などが制作された。 この時代ペルシア撃退しギリシア世界覇権獲得したアテネ最盛期迎え、ギリシア美術もそれにあわせてクラシック時代という新し領域へと突入することとなったペリクレスによってアクロポリス整備推進されオリンピアゼウス神殿パエストゥムポセイドン神殿培った技術イオニア的な優美さ付加したパルテノン神殿建立される。彫刻分野ではパルテノン神殿造営指揮したフェイディアスによってアテナ・パルテノスの黄金象牙像が制作された他、ポリュクレイトスによって体中線をS字湾曲させるなどの技法生み出されコントラポスト極致確立された。絵画分野ではアポロドロスによって空間表現不可欠な幾何学的遠近法空気遠近法融合化を図った作品制作された。その他、明暗技法優れた才能発揮したゼウクシス性格表現寓意的表現優れていたパラシオスなどがギリシア美術における絵画発展牽引している。 クラシック時代後期に入ると個人主義台頭し美術界においても多大な影響与えた彫刻分野ではプラクシテレススコパスリュシッポスが静像に内面性を付加させた表現技法生み出すとともに裸体女性像価値大きく引き上げることに貢献したアレクサンドロス3世宮廷彫刻家として知られるリュシッポス肖像彫刻分野でも優れた作品残しており、後世ヘレニズム美術英語版)やローマ美術彫刻家達に大きな影響与えた同じく宮廷画家であったアペレス明暗法ハイライト遠近法駆使した絵画創出し古代最大画家評価されている。 アレクサンドロス3世の死後、ヘレニズム諸王国が出現し経済活動人口流動活発化すると美術産業化顕著となった富裕層市民住宅壁画装飾して彫刻彩ることが流行化し古典主義美術伝統一時的に途絶えることとなったこうした現象についてローマ時代文筆家大プリニウスは「美術紀元前3世紀第2四半期滅亡し紀元前2世紀中頃復興した」としている。

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