阿佐ヶ谷勢の隆盛とは? わかりやすく解説

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阿佐ヶ谷勢の隆盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 16:37 UTC 版)

大ノ海久光」の記事における「阿佐ヶ谷勢の隆盛」の解説

1945年昭和20年3月東京大空襲二所ノ関部屋焼失東京杉並区真盛寺間借りをする。これが阿佐ヶ谷との縁の始まりだった。玉錦後を引き継いだ玉ノ海が、「幕内まで昇進した者には内弟子採用して分家独立することを奨励する方針打ち出したことから、大ノ海弟子育成志す室蘭から若ノ花スカウトし真盛寺連れてきて、若ノ花内弟子第一号として二所ノ関部屋入門し1946年昭和21年初土俵踏んだ現役中1948年昭和23年)に幕内昇進後から師範務めていた縁もあり、杉並区阿佐ヶ谷にあった日本大学相撲部合宿所に「大ノ海道場」を設立隣接地部屋建設始めて内弟子育成しはじめ事実上独立をする。 1951年昭和26年)、「アメリカへの相撲紹介」を目的とした訪米団が構想されると、部屋建設資金稼ぎ目的訪米団に入る。団長4代高砂前田山と共に訪米リングにあがると、現役レスラーとの興業バカ受けする。「君ならレスラーとして大成するからアメリカ残らないか。」と、全米プロレス協会会長からスカウトされ、死ぬまで食える金が保証されることもあり迷うが、「君に弟子がいるのだから、すべてを水に流して協会戻りなさい。」と出羽海理事長に諭されたこともあり帰国する帰国すると、米国から大金持って帰ってくると早合点した大工部屋建物建ててくれていた。若ノ花は「師匠米国レスラーになるなら自分訪米するつもりだったという。場所を巡業によって休場したのはアメリカ巡業先との契約延長によって帰国が間に合わなかったためである。正当な理由なしに本場所休場したため、協会内では厳し処分通常の全休当の番付降下が当然という議論噴出したが、相撲普及功績認められ休場した9月場所は5勝10敗相当の下降幅に留めるという措置為された。このアメリカ生活によって大ノ海番付十両まで落としたが、帰国した若ノ花小結まで番付上げていた。絵に描いたよう師弟逆転であり、若乃花は後に「あれはどうにもサマにならなかった」と自著の中で述懐している。 1952年昭和27年5月場所引退後番付上、実質同年1月場所引退一緒に訪米した4代高砂から名跡借りて芝田山部屋興す1953年昭和28年5月、仲が良かった10代花籠(照錦)と名跡交換して11花籠襲名同時に部屋名も花籠部屋変更する。 「いつか阿佐ヶ谷天皇賜杯優勝旗運びたい、横綱育てたい。」と志し毎朝3時起きて市場食料買い出しをして、5時に部屋戻ってあけても暮れて若い頃四股名譲った若ノ花稽古台務めた本家二所ノ関部屋巡業組合から外され幕内力士若ノ花だけの陣容僻地巡業して食いつなぐ状況で、質屋通いは当たり前で支払滞るため米屋酒屋何度も変えざるを得ない日本一の貧乏部屋」だったことから出羽海理事長から「やっていけるのか」と心配されるほどだったが、若ノ花躍進とともに経営軌道にのった。1956年昭和31年5月場所若ノ花決定戦制して初優勝両国離れて山の手優勝旗運ばれたのは初めてのことで、青梅街道には数十見学者集まったことで都電ストップ若ノ花乗せたオープンカーは、新宿西口から阿佐ヶ谷花籠部屋まで3時間かかるほどの大騒ぎとなった1961年昭和36年9月場所から1962年昭和37年1月場所にかけては現役幕内力士7人「花籠七若」(第45横綱若乃花若ノ海若秩父若三杉、 若ノ國、若駒、 若天龍)を擁した1970年代に入ると、第54輪島大関魁傑などの活躍第二の黄金期となった分家二子山部屋大関貴ノ花含めた3人は阿佐ヶ谷トリオ呼ばれ絶大な人気博した。 2横綱(第45若乃花、第54輪島)1大関魁傑)を含む三役以上8人など関取十両以上)を27育て目立った活躍がなかった現役時代とは対照的に弟子育成大きな功績残し名伯楽称賛された。のびのび育て持てる力を最大限発揮させる方針育成自分横綱になれなかったからこそ力士の持つ個性的確に早くつかみとり、親方として立場変わった一日早く頭を切り替えて指導する考え本田宗一郎との対談話したところ意気投合したという。 花籠部屋のみならず分家独立した二子山部屋からは第56横綱若乃花(2代)、第59横綱隆の里の2横綱貴ノ花若嶋津の2大関放駒部屋からは第62横綱大乃国と、阿佐ヶ谷にある本家分家から横綱・大関以下多く大勢関取輩出したことから阿佐ヶ谷勢と称される一大勢力築き上げ阿佐ヶ谷は「東の両国、西の阿佐ヶ谷と言われ大相撲拠点となった一時花籠一門称した。現在も花籠部屋二子山部屋放駒部屋系統二所ノ関一門阿佐ヶ谷系と言われる協会理事として長きにあたって活躍し1968年昭和43年)の時津風理事長急死の際は、計数明るく頭も切れる出羽海一門総帥である武蔵川理事後任理事長推薦した。この背景には本家継いだ二所ノ関ソリが合わなかったため、当時巡業一門別だったにも関わらず二所ノ関一門から外されるなど冷遇されたが、武蔵川の引きで票を借りて理事当選巡業部長執務実力認められ経緯がある。 1974年昭和49年)には伊勢ケ浜を反出羽海一門候補として擁立しようとしていた本家二所ノ関反して若い春日野理事長出羽海一門)を擁立し反主流派票の切り崩し辣腕振るった功績協会NO2事業部長就任した1975年昭和50年)の押尾川騒動では二所ノ関一門長老として調停役を果たした日本相撲協会歴代理事長多くは、出羽海一門出身者によって占められているが、のちに大ノ海弟子である二子山初代若乃花)と放駒魁傑)が日本相撲協会理事長就任している。 停年直前膵臓がん判明し治療していた。1981年停年定年)の10日前に弟子娘婿(後に解消)の輪島部屋を譲るため廃業退職)した。後見として輪島支える間も僅か、膵臓がんのため同年9月死去65歳没。死没をもって従五位叙位勲四等瑞宝章追贈された。9月場所後の輪島引退相撲断髪式では、土俵上で遺族輪島傍らに立ち、大ノ海遺影掲げ二子山止め鋏を入れた。 「私の苦労の道は、若乃花努力の道である。若乃花との一心同体経営花籠部屋築き上げた。」と述べており、花籠親方食料調達など経営精力注ぎ稽古場もっぱら部屋頭若乃花が、本家二所ノ関部屋仕込みの「二所の荒稽古」で指導した孫弟子にあたる貴ノ花は、「花籠親方とうちの師匠若乃花)ほど仲のいい師弟はいない。」と述べ花籠部屋から二子山部屋分家独立ほど円満な独立珍しかったという。 因みに若乃花四股名は、弟子初代若乃花幹士花田勝治)を初代、その弟子2代若乃花幹士(元若三杉壽人下山勝則)を二代目初代の甥若乃花勝花田勝)を三代目として数えることが一般的であるが、初代若乃花幹士師匠である大ノ海敬意表し、「私の師匠大ノ海)が初代若ノ花であり、自分二代目である」と語っていた。 1951年アメリカ巡業中にプロレスから勧誘されたことも知られているが、自身四股名譲った弟子大ノ海敬士引退後プロレスラーになったことも因縁めいている。息子本名:中島克治)も大ノ海四股名幕下力士だった。アメリカ巡業影響なのか戦後から洋食傾倒し和食一切食べなくなったという[要出典]。 大ノ海死後1982年4月輪島嫁いだ長女五月自殺図り失敗その後離婚また、若乃花輪島らの横綱を陰で支えた妻のトミは、「日本一の貧乏部屋」と評され布団まで質に入れるなど辛酸舐めながら苦労重ねて隆盛させた花籠部屋1985年12月輪島不祥事消滅したことを苦に、翌1986年5月23日夕刻老後のために購入した八王子市横川町別荘物置で、鴨居電気コードをかけ縊死自殺遂げた65歳没。 次男は、孫弟子15花籠親方太寿山忠明)が1992年二子山部屋から分家独立して花籠部屋再興する際に、山梨県北都留郡上野原町での開設尽力したが、他部屋への出稽古新規入門者の相撲教習所通学支障来したことから、1996年12月東京都墨田区部屋移転させる開設尽力した経緯から移転猛反対した次男は、東京地方裁判所年寄名跡返還求め民事訴訟起こしたが、1998年9月裁判次男敗訴し決着している。 その後2012年5月24日部屋経営難理由として、同じ二所ノ関一門所属する峰崎部屋吸収合併され、花籠部屋再度消滅した

※この「阿佐ヶ谷勢の隆盛」の解説は、「大ノ海久光」の解説の一部です。
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