阿佐ヶ谷系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 03:07 UTC 版)
阿佐ヶ谷系は、1952年(昭和27年)に二所ノ関部屋から最初に独立した8代芝田山(元幕内・大ノ海)を源流とする。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で両国の建物が消失した二所ノ関部屋は、1950年(昭和25年)まで杉並区の真盛寺に間借りしていた。玉ノ海が、「幕内まで昇進した者には内弟子を採用して分家独立することを奨励する」方針を打ち出したことから、大ノ海も弟子育成を志し、若ノ花(のち第45代横綱)をスカウトして真盛寺へ連れてくる。若ノ花は内弟子第一号として二所ノ関部屋に入門し、1946年(昭和21年)初土俵を踏んだ。大ノ海はアマチュア相撲の名門である日本大学相撲部員に稽古を付けたことがあり、その縁で現役中の1948年(昭和23年)杉並区阿佐ヶ谷の日本大学相撲部合宿所に「大ノ海道場」を設立、隣接地に部屋の建設を始めて内弟子を育成しはじめ事実上の独立をする。 大ノ海は1952年(昭和27年)5月場所の引退後に8代芝田山を襲名、芝田山部屋を創設し、二所ノ関部屋から正式に分家独立を果たす。1953年(昭和28年)5月、芝田山から11代花籠に名跡変更、同時に部屋名も花籠部屋に変更する。親方の花籠は食料調達など部屋の経営に精力を注ぎ、稽古場は一番弟子だった「土俵の鬼」初代若乃花が「二所の荒稽古」で指導した。1955年(昭和30年)秋場所に大関に昇進した若乃花は、1956年(昭和31年)夏場所に初めて阿佐ヶ谷に優勝をもたらす。両国を離れて山の手に優勝旗が運ばれたのは初めてのことで、青梅街道には数十万人が祝賀に集まったことで都電はストップ、 若乃花を乗せたオープンカーは、新宿西口から阿佐ヶ谷の花籠部屋まで3時間かかるほどの大騒ぎとなる現象を起こす。 若乃花は1958年(昭和33年)初場所後に第45代横綱に昇進して花籠部屋繁栄の礎を築き、花籠部屋は1961年(昭和36年)9月場所から1962年(昭和37年)1月場所にかけて現役幕内力士7人「花籠七若」(第45代横綱若乃花、 若ノ海、 若秩父、若三杉、 若ノ國、若駒、 若天龍)を擁した。後に花籠部屋から分家独立した二子山部屋、放駒部屋も阿佐ヶ谷に部屋を置いた。 1970年代の輪島、初代貴ノ花、魁傑の「阿佐ヶ谷トリオ」をはじめとして、横綱・大関を含む多くの関取を輩出した花籠部屋、二子山部屋の全盛時代は「東の両国、西の阿佐ヶ谷」と言われた大相撲の拠点となり、「阿佐ヶ谷勢」と呼ばれた一大勢力であった。1974年4月から一時期は花籠一門として独立していた。。 この背景には、花籠部屋創設当時、一門別の巡業だったにも関わらず、本家二所ノ関部屋が花籠部屋を巡業組合に入れなかったために花籠部屋が経済的に苦境に陥ったことや、11代花籠が米国から帰国時に、当時の出羽海理事長がとりなして相撲界に復帰、花籠が理事選出馬時には、出羽海一門の余り票を借りて当選した経緯から、1968年(昭和43年)の時津風理事長急死の際には、主流派出羽海一門の総帥である武蔵川理事を後任理事長に推薦して主流派入りした経緯がある。1974年(昭和49年)の理事長選で、本家二所ノ関は伊勢ケ浜を反出羽海一門候補として擁立しようとしていたが、理事だった11代花籠と花籠の弟子である10代二子山は二所ノ関と袂を分かって、出羽海一門の春日野理事長誕生を支持した結果、11代花籠は事業部長に就任した。 また、1975年に両国系から理事となっていた8代二所ノ関が死去すると、翌1976年の役員改選で両国系は二所ノ関部屋の後継問題のゴタゴタが長引いた影響で後継理事を擁立は出来ず、11代花籠の弟子である役員待遇だった10代二子山が後継理事となり阿佐ヶ谷系から理事を2人擁立となった。この時に、後継理事の声もあった大鵬幸喜は1980年の改選で11代花籠が停年に絡むため理事を退任したのを受けて後継理事となるが、花籠が務めていた事業部長には二子山が就任した。 花籠部屋は、後を継いだ12代花籠(元横綱・輪島)の不祥事で1985年(昭和60年)に閉鎖され、花籠から分家独立した元大関魁傑率いる放駒部屋に吸収された。それに伴い花籠一門は事実上消滅して二所ノ関一門に復帰合流する形となった。 以降は10代二子山(元横綱・初代若乃花)が1962年(昭和37年)に花籠部屋から分家独立して創設した二子山部屋が中心となる。二子山部屋は横綱・大関を長年にわたって輩出し続け、その力士たちの多くが独立、合計で6部屋に達した。 阿佐ヶ谷系からは、8人の横綱(45代・初代若乃花、54代・輪島、56代・2代若乃花、59代・隆の里、62代・大乃国、65代・貴乃花、66代・3代若乃花、72代・稀勢の里)と、5人の大関(初代貴ノ花、魁傑、若嶋津、貴ノ浪、髙安)が輩出されている。 二子山部屋は1993年(平成5年)、初代若乃花停年後に初代貴ノ花が分家独立していた藤島部屋と合流して中野区中野新橋へ移転し、放駒部屋は魁傑停年後に大乃国が杉並区高井戸で分家独立していた芝田山部屋へ合流したことで、現在阿佐ヶ谷から相撲部屋は消滅している。 日本相撲協会の歴代理事長の多くは、出羽海一門出身者によって占められているが、阿佐ヶ谷系からは、二子山(初代若乃花)と放駒(魁傑)が日本相撲協会理事長に就任した。
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