花籠部屋 (1953-1985) 大ノ海・輪島時代
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二所ノ関部屋所属の幕内・大ノ海は、1948年(昭和23年)1月に杉並区阿佐ヶ谷の日本大学相撲部合宿所に間借りをして、若乃花(第45代横綱)など数名の内弟子を連れて事実上の独立をする。1952年(昭和27年)5月場所限りで引退して年寄・8代芝田山を襲名、正式に分家独立して間借りしていた日本大学相撲部合宿所の隣接地に芝田山部屋を創設する。8代芝田山は1953年(昭和28年)5月、仲が良かった10代花籠(照錦)と名跡交換して11代花籠を襲名、同時に部屋名も花籠部屋に変更した。 小部屋の悲哀を味わいながら「いつか阿佐ヶ谷に天皇賜杯と優勝旗を運びたい、横綱を育てたい。」と志し、毎朝3時に起きて市場に食料の買い出しをして、5時に部屋へ戻ってあけても暮れても若ノ花の稽古台を務めた。本家・二所ノ関部屋の巡業組合から外され、幕内力士が若ノ花だけの陣容で僻地を巡業して食いつなぐ状況で、質屋通いは当たり前で支払が滞るため米屋も酒屋も何度も変えざるを得ない「日本一の貧乏部屋」だったことから出羽海理事長から「やっていけるのか」と心配されるほどだったが、若ノ花の躍進とともに経営も軌道にのった。 1956年(昭和31年)5月場所で若ノ花は決定戦を制して初優勝。両国を離れて山の手に優勝旗が運ばれたのは初めてのことで、青梅街道には数十万の見学者が集まったことで都電はストップ、 若ノ花を乗せたオープンカーは、新宿西口から阿佐ヶ谷の花籠部屋まで3時間かかるほどの大騒ぎとなった。1961年(昭和36年)9月場所から1962年(昭和37年)1月場所にかけては現役幕内力士7人「花籠七若」(第45代横綱若乃花、 若ノ海、 若秩父、若三杉、 若ノ國、若駒、 若天龍)を擁した。 1970年代に入ると、第54代輪島、大関魁傑などの活躍で第二の黄金期となった。分家・二子山部屋の大関貴ノ花を含めた3人は阿佐ヶ谷トリオと呼ばれ絶大な人気を博した。 2横綱(第45代若乃花、第54代輪島)1大関(魁傑)を含む三役以上8人など関取(十両以上)を27人育て、目立った活躍がなかった現役時代とは対照的に弟子育成に大きな功績を残し、名伯楽と称賛された。。 花籠部屋のみならず分家独立した二子山部屋からは第56代横綱若乃花(2代)、第59代横綱隆の里の2横綱と貴ノ花、若嶋津の2大関、放駒部屋からは第62代横綱大乃国と、阿佐ヶ谷にある本家・分家から横綱・大関以下多くの大勢の関取を輩出したことから阿佐ヶ谷勢と称される一大勢力を築き上げ、阿佐ヶ谷は「東の両国、西の阿佐ヶ谷」と言われた大相撲の拠点となった。一時は花籠一門を称している。現在も花籠部屋、二子山部屋、放駒部屋の系統は二所ノ関一門阿佐ヶ谷系と言われる。 日本相撲協会理事として長きにあたって活躍、1975年(昭和50年)の押尾川騒動では二所ノ関一門の長老として調停役を果たした。日本相撲協会の歴代理事長の多くは、出羽海一門出身者によって占められているが、のちに花籠部屋出身である二子山(初代若乃花)と放駒(魁傑)が日本相撲協会理事長に就任した。 1981年(昭和56年)3月場所において11代の娘婿である輪島が引退し、同時に12代花籠を襲名して花籠部屋を継承した。しかし、1982年(昭和57年)には12代の夫人(当時)が自殺未遂を起こし、1985年(昭和60年)11月には自身の年寄名跡を担保に入れて多額の借金をしていたという前代未聞の事実が発覚した。この問題を受けて、12代は同年12月に廃業を表明。後継として17代放駒(元大関・魁傑)や14代常盤山(元関脇・若秩父)に打診するも断られて部屋は消滅、花籠部屋出身である一門の総帥・二子山(横綱・初代若乃花)の指名により、所属力士は魁傑が率いる放駒部屋へ移籍した。1986年(昭和61年)5月には12代の義母である11代花籠未亡人が首を吊って自殺した。
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