花筵製法の改良
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明治5年(1872年)、眠亀は家督を嗣子に譲り、発明考案に専念することにした。眠亀はさまざまな機械の考案に手を入れていたが、機運が熟していないのか、社会はこれを顧みず、眠亀は、非常に苦しい状況に陥った。明治9年(1876年)、ついに、眠亀は筵織機の改良に着手した。当時、日本の藺織業は農民の副業にとどまり、専業者もいなかったため、藺織業の歴史が長いにもかかわらず、その製法は未発達であった。藺織機としては、樋(とい)と称して筬(おさ)と綾取とを兼ねる装置である粗略な織機が一種あったきりで、筵を織り上げるには挿藺工と織工の2人を必要とした。眠亀は、布織機をヒントに、筬と綾取とを各別に装置し、これにより挿藺工を省略し、繊工ひとりで織り上げる機械を案出した。その案出した機械で織り上げた筵は、価格を幾分おさえることができたが、筵の品質は、従来の物とはそれほど変わらなかった。眠亀は、筵の組織を根本的に革新する必要があるとし、地質を緻密で強靱な物にすると同時に筵のデザインを精巧で優美にすることに主力を注いた。それにはまず、従来の筵に比べて、経糸をはるかに増やした緻密な筵を織り上げる筵織機を発明する必要があるとして、日々研鑽(けんさん)し続けた。ある日、セイロン島(現在のスリランカ)で織り上げた龍髭製敷物を見る機会があり、その製品の強靭性と卓越したデザインが、ほとんど眠亀の理想そのままの品であった。しかし、それは、職人の手作業によるものであり高価な物であった。眠亀はそれを見て、藺草により龍髭製を凌鴛する美術品を機械により製造し、安価で大量に供給したいとの念を抱いた。
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