花筵生産の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 04:37 UTC 版)
錦莞筵の販路が海外に開け、その前途有望になると、眠亀の発明を盗もうとする者が現れ、眠亀は盗用を防ごうと苦心した。明治18年(1885年)、専売特許条例の施行日(明治18年(1885年)4月18日)に、錦莞錦ならびに莞織機の専売特許を出願し、第23号及び第24号を以てその特許を得た。しかし、藺草染色法については、花筵業の生命であり一個人に専有しておくことは国家産業の発達を阻害する恐れがあるとして出願しなかった。明治19年(1886年)、眠亀は業務拡張のため、錦莞筵の専売特許権を佐藤某外一名に分権した。そして岡山市二日市に工場を設け、将来の発展に必要となる技術者の養成にあたった。明治23年(1890年)には備中玉島(現在の倉敷市玉島地域)に、明治25年(1892年)には岡山市天瀬(現在の岡山市北区天瀬)に、明治26年(1893年)には茶屋町(現在の倉敷市茶屋町地域)及び賀陽郡大井村(現在の岡山市足守地域)に、明治27年(1894年)には津高郡横井村(現在の岡山市津高地域)および香川県高松市に、明治28年(1895年)には都宇郡中庄村(現在の倉敷市中庄)に工場を設置し、専ら錦莞筵の製作に従事した。その織機の台数は、本支部を合わせて1000台ぐらいとなり、産出額は10万円に達した。その盛況をみて、同業者も現れ、花筵の改良を競い、綾筵、紋花筵、並花筵等の数種の花筵が生産されるようになった。花筵業は発展し、その輸出額は多い年においては600万円以上に達した。
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