8代時代
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高嶋部屋の実質上の初代は、若松部屋を飛び出し独力で部屋を築いた8代高嶋(元幕内・八甲山)である。8代は関脇・輝昇や小結・巴潟などといった関取を育てた。巴潟は7代友綱の養女と結婚し、友綱部屋の後継者として目され、現役時代から友綱部屋に移籍した。 1951年(昭和26年)1月に8代高島が死去した時には所属力士の吉葉山は大関に、三根山は関脇に昇進していた。
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8代(佐賀ノ花)時代
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8代は、1952年(昭和27年)1月に引退して以降は年寄専任となり、横綱・大鵬や大関・大麒麟などといった数多くの関取を育て上げた。当時の部屋では、7代が掲げた「分家独立を推奨する」という方針の下で、8代の時代も分家独立が相次いだ。いわゆる分家「阿佐ヶ谷系」が順当に枝分かれが進んだ一方で、本家「両国系」の分家独立に際しては混乱が相次いだ。8代は二所ノ関一門の総帥となるまでに部屋を大きくしたものの、1975年3月に急性白血病で死去した。 その後は、8代の通夜の晩に後継の名乗りを上げた大鵬(元横綱・大鵬)が一代年寄を返上して9代二所ノ関を襲名して部屋を継承するか、部屋付き親方である17代押尾川(元大関・大麒麟)が後継として9代二所ノ関を襲名すると目されていた。正式に後継者が決定するまで、6代の弟子で二所ノ関一門の最長老であった10代湊川(元幕内・十勝岩)が暫定的に部屋を引き継ぐ形で9代二所ノ関を襲名したが、その期間は実に1年4ヶ月にも及んだ。 部屋の相続争いに嫌気が差した大鵬は後継争いから降り(大鵬は現役中の1966年の春に8代から縁談を持ち掛けられ、その際に「もし、その娘との結婚を承諾すれば、将来は二所ノ関部屋の後継者として考えても良い」と暗に漏らされていながら、その縁談を断ったといういきさつを自著で明かしている)、対する17代押尾川の後継は大おかみ(8代未亡人)が拒否して、混乱は長期間に及んだ。結局、部屋に所属する幕内力士の金剛が8代の次女と婚約して娘婿になることで年寄・10代二所ノ関を襲名することに決定し、金剛は1976年9月に27歳で現役を引退して部屋を継承した。
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