8代・木村玉之助~名人・木村越後
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「木村越後」の記事における「8代・木村玉之助~名人・木村越後」の解説
1900年6月に上位から3人目となり、1903年5月には次席に就き、1905年4月に吉田司家より行司故実門人に加えられ、紫房団扇(軍配)を許された。事務的能力にも長け、協会取締役・11代朝日山四郎右衛門(元前頭岩ヶ谷岩松)の片腕として活躍、協会内でも彼の人望、手腕は大坂相撲の宝であった。1912年5月に8代木村玉之助を襲名したが、1916年1月に「玉之助という名は、代々終わりがよくない」との理由で返上し、木村越後を名乗った。越後として3場所務め、師匠・朝日山が1916年7月に没した後、1917年1月限りで引退、現役名のまま一代頭取を許された。越後を師と仰ぐ22代木村庄之助は、20世紀以降では唯一、行司の名誉尊号と云われる“松翁”を許された名行司20代木村庄之助に匹敵する名人だと讃えている。
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