8代将軍就任とは? わかりやすく解説

8代将軍就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:24 UTC 版)

徳川吉宗」の記事における「8代将軍就任」の解説

享保元年1716年)に第7代将軍徳川家継8歳早世し、徳川将軍家血筋徳川家康三男徳川秀忠男系)が絶えた後を受け、御三家の中から家康との世代的な近さ理由に、御三家筆頭尾張家抑えて第8代征夷大将軍就任した、と一般的には説明されているが、実は館林藩主で家継叔父に当たる松平清武と子の松平清方という、徳川家光男系子孫存在していた。しかし、館林藩では重税のため一揆頻発して統治安定していなかった上、本人ひとたび他家養子出た身であり、すでに高齢だったという事情により、選考対象から外れていた。清武自身将軍職対す野心はあまりなかったと言われている(詳しく清武の項目を参照)。 御三家筆頭とされる尾張家では、当主4代藩主徳川吉通その子5代藩主五郎太正徳3年1713年)頃に相次いで死去した。そのため吉通の異母弟継友尾張藩6代藩主となる。継友皇室とも深い繋がり近衛家熙の娘の安己君婚約し間部詮房新井白石らによって引き立てられており、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院家継生母月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反白石幕臣たちの支持得て8代将軍就任した吉宗将軍就任にあたって紀州藩廃藩とせず存続させた。過去の例では、5代将軍徳川綱吉館林藩館林家、6代将軍徳川家宣甲府藩甲府家は、当主将軍継嗣として江戸城呼ばれる廃藩絶家にされ、甲府家の家臣幕臣となっている。しかし吉宗は、御三家東照神君家康)から拝領した聖地であるとして、従兄徳川宗直家督を譲ることで存続させた。その上で紀州藩のうちか加納久通有馬氏倫大禄でない者を40余り選び側役として従えただけで江戸城入城した。この40余りは、吉宗お気に入りを特に選抜したわけではなく、たまたまその日当番だった者をそのまま帯同したという。こうした措置が、側近政治反感抱いていた譜代大名旗本から好感持って迎えられた。

※この「8代将軍就任」の解説は、「徳川吉宗」の解説の一部です。
「8代将軍就任」を含む「徳川吉宗」の記事については、「徳川吉宗」の概要を参照ください。

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