隠居から復活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 16:50 UTC 版)
応永5年(1398年)、畠山満家の嫡男として生まれた。第4代将軍足利義持より偏諱を受けて持国(「国」は祖父・基国などが使用した畠山氏の通字)と名乗る。 父・満家と同じく室町幕府に出仕、正長2年(1429年)に第6代将軍足利義教(義持の弟)の元服式では法体である父の代わりを務め、永享5年(1433年)の父の死により家督相続、幕府の重臣として会議に参加した。 永享4年(1432年)の大和永享の乱で大和へ出兵、永享6年(1434年)に義教が延暦寺に軍勢を派遣させて包囲すると諫言して両者を和睦させ、翌永享7年(1435年)に再度大和に出陣、大和宇智郡守護に任命された。 三管四職家のうち、主に第3代将軍足利義満の時代に取り立てられ勢力を躍進させたのは赤松氏、一色氏、そして持国の畠山氏であったが、義満時代に有力な守護大名であった斯波氏や山名氏が弱体化すると、上の三家が将軍権力の障害となるようになった。特に三管領の一角を占める畠山氏は幕政の中核をしめ、代々の将軍にとって目の上のたんこぶであった。 6代将軍足利義教は畠山満家の死後、「万人恐怖」と評される恐怖政治を敷き、特に上記三家に対する干渉を強めるようになった。義教は赤松満祐の同族・貞村を重用し、永享12年(1440年)には一色義貫・土岐持頼が殺害されている。 嘉吉元年(1441年)には義教の矛先は畠山氏に向けられ、持国は結城合戦への出陣を拒んだことから、家督を弟持永に譲らされ隠居を余儀なくされる。 しかし、持国以上に義教の行動に恐怖を覚えた満祐が、同年6月に義教を殺害する事件が勃発する(嘉吉の変)。持国はただちに挙兵して持永を討ち、家督を奪回した。8月に京都で嘉吉の土一揆が蜂起した時、鎮圧に反対して管領の細川持之と対立する。一揆構成員の中に山城の畠山氏被官が紛れていた事が理由だった。 7代将軍に義教の嫡子の足利義勝が就任し、赤松氏が討伐されると持之は管領を辞任し、持国が管領となる。同年、出家し徳本(とくほん)入道と名乗る。翌年に満祐が擁立していた足利義尊を討ちとり、嘉吉3年(1443年)に義勝が病死すると足利義政の8代将軍就任に運動する。禁闕の変に対処したり、嘉吉4年(1444年)に嘉吉の乱平定の功労者だった山名宗全を懐柔するため、満祐の従弟の赤松満政が領有する播磨東三郡を宗全に与え、伊勢貞親と義政の擬似父子関係を取り結んだりもしている。
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