万人恐怖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:07 UTC 版)
4代将軍義持は、応永35年(1428年)に後継者を定めないまま死去した(嫡男の5代将軍義量は早世していた)。宿老による合議の結果、出家していた義持の4人の弟達の中から「籤引き」で後継者が選ばれることになった。その結果、天台座主の義円が還俗して義宣と称し(後に義教と改名)、6代将軍に就任した。この経緯から義教は後世に「籤引き将軍」と呼ばれる。 当初は有力守護大名による衆議によって政治を行っていた義教だが、長老格の畠山満家、三宝院満済、山名時熙の死後、次第に指導力を発揮するようになった。 義教は将軍の権力強化を狙って、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者を家督に据えさせた。永享11年(1439年)の永享の乱では、長年対立していた鎌倉公方足利持氏を滅ぼした。比叡山延暦寺とも対立し、最終的にこれを屈服させたものの、僧侶達が根本中堂を焼き払って自殺する騒ぎとなった。 足利将軍の中では父の3代将軍足利義満に比肩しうる権力を振るった義教だが、猜疑心にかられて過度に独裁的になり、粛清の刃は武家だけでなく公家にも容赦なく向けられた。当時の公家の日記には、些細なことで罰せられ所領を没収された多くの者達の名が書き連ねられている。中には遠島にされたり、命を奪われた者もいた。 また元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一以来、細々と存続を続けてきた後醍醐流宮家に対し、これを「根絶やし」にするという方針を打ち出したのも義教である。それを明確に裏付ける史料が存在する。伏見宮貞成親王の日記『看聞御記』の永享6年(1434年)8月20日条として「およそ南方御一流、今においては断絶さるべし云々(凡南方御一流。於干今可被断絶云々)」。この年2月には小倉宮家の当主(法名は聖承であることが知られているものの、出家前の俗名は不明)が出家、8月には護聖院宮家の2人の王子(金蔵主と通蔵主)が喝食となり、護聖院宮家は絶家となっている。 伏見宮貞成親王はこうした義教の統治期を「薄氷を踏むの時節(踏薄氷時節)」(『看聞御記』永享3年3月24日条)と表現し、比叡山炎上の噂話を禁じた際の記述「万人恐怖」(『看聞御記』永享7年2月8日条)は義教の統治期を物語る象徴的フレーズとなっている。
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