大相撲・阿佐ケ谷勢
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昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲から昭和25年(1950年)まで、大相撲の二所ノ関部屋が真盛寺に間借りしていた縁で、昭和27年(1952年)に8代芝田山(元幕内・大ノ海)が二所ノ関部屋から独立して、杉並区阿佐ヶ谷の日本大学相撲部練習所の隣接地に芝田山部屋を創設した。のちに花籠部屋へ名称変更する。 昭和30年(1955年)秋場所に大関に昇進した一番弟子の初代若乃花が、昭和31年(1956年)夏場所に初めて阿佐ヶ谷に優勝をもたらす。両国を離れて山の手に優勝旗が運ばれたのは初めてのことで、青梅街道には数十万人が祝賀に集まったことで都電はストップ、 若乃花を乗せたオープンカーは、新宿西口から阿佐ヶ谷の花籠部屋まで3時間かかるほどの大騒ぎとなる現象を起こす。若乃花は昭和33年(1958年)初場所後に第45代横綱に昇進、7人の幕内力士「花籠七若」を擁して花籠部屋繁栄の礎を築く。後に花籠部屋から分家独立した二子山部屋、放駒部屋も阿佐ヶ谷に部屋を置いた。 1970年代、輪島、初代貴ノ花、魁傑の阿佐ヶ谷トリオが活躍して人気を得る。横綱(45代・初代若乃花、54代・輪島、56代・2代若乃花、59代・隆の里、62代・大乃国)、大関(初代貴ノ花、魁傑、若嶋津)をはじめ多くの関取を輩出した花籠部屋、二子山部屋、放駒部屋の全盛時代は阿佐ヶ谷勢と呼ばれ、阿佐ヶ谷は「東の両国、西の阿佐ヶ谷」と言われた大相撲の拠点だった。二子山部屋は、初代若乃花停年後に初代貴ノ花が分家独立していた藤島部屋と1993年に合流して中野新橋へ移転、輪島の花籠部屋を吸収した放駒部屋は2013年の魁傑停年後に大乃国が独立した芝田山部屋へ合流したことで、2013年に阿佐ヶ谷から相撲部屋は消滅した。この系統は二所ノ関一門阿佐ヶ谷系と呼ばれており、二子山(初代若乃花)と放駒(魁傑)は日本相撲協会理事長を務めた。
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