大相撲本場所の開催
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 09:20 UTC 版)
太平洋戦争(大東亜戦争)中の2度、大相撲の本場所の会場となったことがある。両国国技館(初代)を軍に接収された相撲協会の苦肉の策で、当然「晴天10日間」の興行だった。マウンドに急ごしらえの土俵をつくったと当時の関係者の証言が残る。ただし、後楽園での開催は幕内・十両の取組だけで、幕下以下は、5月は両国国技館、11月は神宮外苑相撲場で、日程を前倒しして非公開で開催された。 昭和19年5月場所 双葉山定次と羽黒山政司の立浪部屋の両横綱が優勝を争った。双葉山が9日目に照國万藏に破れ、決定戦制度のなかった時代、番付上位者優勝の制度だったために、羽黒山の2度目の優勝が決まった。千秋楽も勝って10戦全勝。 7日目は晴天で、しかも日曜日だったため、観客が土俵溜まりから外野席まで8万人以上が入るという、相撲史上空前絶後の人数を記録した。 昭和19年11月場所 野外での興行であるため、力士の体調管理に配慮し、翌年1月場所を前倒しして開催したもの。大関前田山英五郎と関脇東富士欽壹の高砂一門の兄弟弟子が優勝を争い、9勝1敗の同点、番付上位の前田山の優勝。若瀬川泰二も幕内下位ながら最後まで全勝をつづけたが、三根山隆司に敗れ優勝を逃した。 双葉山は6日目に東富士に敗れ、翌日から休場。引退を決意したと言われているが、関係者の説得でこの時は翻意した。しかし、結局この後楽園球場での東富士戦が、双葉山の実際に土俵に上がっての最後の敗戦になった。 備考 後楽園で横綱をつとめた力士は、双葉山定次、羽黒山政司、安藝ノ海節男、照國万藏の4人。後楽園で幕内をつとめて後に横綱に昇進した力士には、前田山英五郎と東富士欽壹がいる。 後楽園で大関をつとめたのは前田山と佐賀ノ花勝巳。佐賀ノ花は5月場所の7勝3敗で大関昇進。後楽園場所で誕生した唯一の新大関である。ただ新大関場所となる11月場所では初日から連敗の後3日目から休場、後楽園球場で大関としては1勝もあげられなかった。 後楽園球場で最多勝をあげた力士は、羽黒山(10戦全勝+7勝3敗)と前田山(8勝2敗+9勝1敗)でともに17勝である。
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