大相撲時代のエピソードとは? わかりやすく解説

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大相撲時代のエピソード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 23:30 UTC 版)

曙太郎」の記事における「大相撲時代のエピソード」の解説

現役時代には時折怪我苦しんで冷静さ失いパッチ貼っお祈りを行うだけの詐欺めいた治療1000万円を請求され、これに黙って応じてしまったことがある後年こそは笑い話済ませているものの、当時は「もうなんとしてでも治して土俵立ちたいという気持ちから、黙って払ってしまうんだなぁ。さすがに1000万円は払い切れなかったけど」という具合追い詰められていた。 関脇時代までは「天下をとる」を「点をとる」になぞらえ、点のない「曙」だったが、大関昇進機に点のある「曙」に改めた入門当時は「大海」(たいかい)と名乗り前相撲取ったが、三段目に大魁(たいがい)という力士がおり、混乱避けるため改名せざるを得なくなり、「曙」となった。大魁が別の四股名鬼竜山)に改名した後の1990年3月場所に曙の弟が東関部屋入門し大海力(=つとむ)を名乗ったが、わずか2場所でハワイ帰国した東関が本来スカウトしたかったのは下半身の細い曙ではなく均整取れた力士体型有していた弟の方であったという説もあり、その弟は東関部屋継承資格満たすともできるほどに出世期待されていたというが、そもそも弟は角界入りする意欲無かったちなみに「曙(あけぼの)」の四股名幕内力士は、大坂相撲において1924年1月場所新入幕の曙 源太郎長崎県出身旧時津風部屋所属最高位前頭8目)がいる。 春場所への意気込み問われた際に、よく『枕草子』の「春は曙」(春は曙良いと言う有名な文を引用した土俵上でライバルだった貴乃花とはプライベートでは親友だった。貴乃花引退する時にはこれから必要になる」と自ら生地選んだネクタイ贈っている。 来日した時から「雲の上の人」だったハワイ出身先輩である元大関小錦に対しては、1993年11月場所13日目に、小錦負ければ大関から陥落する取組相手務めた事がある対戦結果は曙が完勝小錦は5勝8敗と9月場所(0勝2敗13休)に続き2場所連続負け越しにより大関転落となった勝負が決まると小錦軽く一礼したことが話題となった。この取り組みについて、のちに曙本人は「正直言って休場したい程嫌だった。でも先輩に対して手加減するのは失礼だと思い、心を鬼にして全力当たったが、余りに辛過ぎ恩返しだった。」と自身引退時に語っている。なお、翌日小錦自身勝利を謝ったが「これから力士であるお前が俺に勝てないでどうする」と叱責されたという。 休場中だった1999年1月場所最中、曙は周囲極秘のまま当時時津風理事長(元大関豊山)へ突如引退届を提出していた。しかし時津風理事長からは「今はじっくりと怪我治す事だけに専念しなさい。進退考えるのはそれからだ」と笑顔励まされつつ慰留されたという。 2000年3月場所では土佐ノ海相手1960年決まり手制定以降幕内史上初めてとなる褄取り勝利を収めた。しかし本人褄取り決まり手知らず報道陣インタビュー対し何それ? 知らなかったよ」と答えた後、当時技のデパート」と呼ばれていた舞の海なぞらえ、「技のデパートハワイ支店」と自らを称した。 曙は巨体対照的に極めて繊細な神経の持ち主であった大酒豪だ酒席では同席者への配慮欠かさない泥酔者が出るといつも自分背中を「担架代わりにして運びだす姿があった。酒席はもちろん、いつも携帯電話手放さず、暇があると電話かけまくる。根が飛び切り寂しがりやということもあるが、親しい人にはとことんマメ付き合いをせずにいられない性格もある。 1993年7月最愛の父が死去した際、曙から「ダディのひつぎに写真新聞入れたい」と連絡を受け、記者ハワイ同行した。「チャド呼んでいる」と言われ記者霊安室に入ると、曙が「ダディ最後のキスをする写真記者撮らせる」と母ジャニスさんを必死に説得していた。そこには記者写真新聞提供してくれた恩は何としても返さなければならないという姿勢があった。 現役終盤期、7代高砂(当時11若松)から縄跳び調整法として勧められた。最後に2回優勝上積みできたのは、縄跳び俊敏性を鍛えたことによる嫌いな食べ物ゴボウ来日して間もない頃に初めゴボウを口にした際、独特の風味驚いて飲み込むことができず、それ以来トラウマになってしまったという。テレビ番組とんねるずのみなさんのおかげでした』にゲスト出演した際、当時のことを「悪戯木の根っ子食べさせられたと思っていた」と語っている。 1993年日本プロスポーツ大賞殊勲受賞 1993年12月東京ドーム行われたU2東京公演にて、ボーカルボノからのテレビ電話を受け大型スクリーン登場したことがある。 元々は、ホテルマンになることを志していた。東関部屋入門したのも、日本語習得することが目的であり、入門当初力士として身を立てていくことは全く考えていなかった。一方で東関は「オレ強くなるんだ、強くなるためには、日本語をちゃんと覚えるんだという並々ならぬ覚悟があった。だから早く覚えたし、上手になった」と評している。 1990年代前半には女性タレント相原勇交際しており、結婚寸前まで行ったことがあるが、1997年破局した。2000年には別の女性と結婚し、3人目の子供も生まれた。後に2017年3月31日TBS放映された『今夜解禁!ザ・因縁』で20年ぶりに相原2人顔を合わせ真相語った。曙本人からではなく曙の代理人名乗る人物当時の曙の付き人)から「横綱のことは忘れてください結婚なかったことにしてください」と別れ告げられた(ことが納得しがたい)と話す相原対し、曙は「俺は『別れた』と伝えたつもりだよ。俺が相撲取れないとき、結婚ばっかり迫られて、なんで励ましてくれないのとりあえ結婚を置いといて、『がんばりましょう』と何でいえないの。そこで気持ち切れた」とその理由語ったその後互い主張繰り返すも、冷静さ取り戻した曙は「自分の中ではもうけじめをつけて終わっていることだし、いい経験というのは失礼かもしれないけど、そういう経験あったから今があると思っている」と話した相原も「すごいすっきりしている。本当に会えよかった堂々と生きていける気がする」と笑顔。この収録最後に破局騒動には一切触れない番組内約束した取的時代のある時1980円で飲み放題の店に入りチューハイジョッキ40飲んだ翌日顔を出す店主青ざめ以来その店は力士飲み放題を断るようになったという。ただ酒豪伝説と言っても、曙は昭和力士達と異なり日本酒ウイスキーではなく比較アルコール度数の低いチューハイ好んでいたため、この点で留意すべきである因みに来日当初日本人酒好き煙草好きを不思議に思っていたそうである。

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