大相撲時代のエピソード
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現役時代には時折怪我に苦しんで冷静さを失い、パッチを貼ってお祈りを行うだけの詐欺めいた治療で1000万円を請求され、これに黙って応じてしまったことがある。後年こそは笑い話で済ませているものの、当時は「もうなんとしてでも治して、土俵に立ちたいという気持ちから、黙って払ってしまうんだなぁ。さすがに、1000万円は払い切れなかったけど」という具合に追い詰められていた。 関脇時代までは「天下をとる」を「点をとる」になぞらえ、点のない「曙」だったが、大関昇進を機に点のある「曙」に改めた。入門当時は「大海」(たいかい)と名乗り前相撲も取ったが、三段目に大魁(たいがい)という力士がおり、混乱を避けるため改名せざるを得なくなり、「曙」となった。大魁が別の四股名(鬼竜山)に改名した後の1990年3月場所に曙の弟が東関部屋に入門し、大海力(=つとむ)を名乗ったが、わずか2場所でハワイに帰国した。東関が本来スカウトしたかったのは下半身の細い曙ではなく均整の取れた力士体型を有していた弟の方であったという説もあり、その弟は東関部屋の継承資格を満たすこともできるほどに出世を期待されていたというが、そもそも弟は角界入りする意欲が無かった。ちなみに「曙(あけぼの)」の四股名の幕内力士は、大坂相撲において1924年1月場所新入幕の曙 源太郎(長崎県出身、旧時津風部屋所属、最高位前頭8枚目)がいる。 春場所への意気込みを問われた際に、よく『枕草子』の「春は曙」(春は曙が良い)と言う有名な文を引用した。 土俵上ではライバルだった貴乃花とはプライベートでは親友だった。貴乃花が引退する時には「これから必要になる」と自ら生地を選んだネクタイを贈っている。 来日した時から「雲の上の人」だったハワイ出身の先輩である元大関小錦に対しては、1993年11月場所13日目に、小錦が負ければ大関から陥落する取組の相手を務めた事がある。対戦結果は曙が完勝、小錦は5勝8敗と9月場所(0勝2敗13休)に続き2場所連続負け越しにより大関転落となった。勝負が決まると小錦に軽く一礼したことが話題となった。この取り組みについて、のちに曙本人は「正直言って休場したい程嫌だった。でも先輩に対して手加減するのは失礼だと思い、心を鬼にして全力で当たったが、余りに辛過ぎる恩返しだった。」と自身の引退時に語っている。なお、翌日小錦に自身の勝利を謝ったが「これからの力士であるお前が俺に勝てないでどうする」と叱責されたという。 休場中だった1999年1月場所の最中、曙は周囲に極秘のまま当時の時津風理事長(元大関豊山)へ突如引退届を提出していた。しかし時津風理事長からは「今はじっくりと怪我を治す事だけに専念しなさい。進退を考えるのはそれからだ」と笑顔で励まされつつ慰留されたという。 2000年3月場所では土佐ノ海を相手に1960年の決まり手制定以降、幕内史上初めてとなる褄取りで勝利を収めた。しかし本人は褄取りの決まり手を知らず、報道陣のインタビューに対し「何それ? 知らなかったよ」と答えた後、当時「技のデパート」と呼ばれていた舞の海になぞらえ、「技のデパートハワイ支店」と自らを称した。 曙は巨体と対照的に極めて繊細な神経の持ち主であった。大酒豪だが酒席では同席者への配慮を欠かさない。泥酔者が出るといつも自分の背中を「担架」代わりにして運びだす姿があった。酒席はもちろん、いつも携帯電話を手放さず、暇があると電話をかけまくる。根が飛び切りの寂しがりやということもあるが、親しい人にはとことんマメな付き合いをせずにいられない性格もある。 1993年7月に最愛の父が死去した際、曙から「ダディのひつぎに写真や新聞を入れたい」と連絡を受け、記者はハワイに同行した。「チャドが呼んでいる」と言われ、記者が霊安室に入ると、曙が「ダディに最後のキスをする写真を記者に撮らせる」と母ジャニスさんを必死に説得していた。そこには記者が写真や新聞を提供してくれた恩は何としても返さなければならないという姿勢があった。 現役終盤期、7代高砂(当時は11代若松)から縄跳びを調整法として勧められた。最後に2回優勝を上積みできたのは、縄跳びで俊敏性を鍛えたことによる。 嫌いな食べ物はゴボウ。来日して間もない頃に初めてゴボウを口にした際、独特の風味に驚いて飲み込むことができず、それ以来トラウマになってしまったという。テレビ番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』にゲスト出演した際、当時のことを「悪戯で木の根っ子を食べさせられたと思っていた」と語っている。 1993年日本プロスポーツ大賞殊勲賞受賞 1993年12月に東京ドームで行われたU2の東京公演にて、ボーカルのボノからのテレビ電話を受け大型スクリーンに登場したことがある。 元々は、ホテルマンになることを志していた。東関部屋に入門したのも、日本語を習得することが目的であり、入門当初は力士として身を立てていくことは全く考えていなかった。一方で東関は「オレは強くなるんだ、強くなるためには、日本語をちゃんと覚えるんだという並々ならぬ覚悟があった。だから早く覚えたし、上手になった」と評している。 1990年代前半には女性タレントの相原勇と交際しており、結婚寸前まで行ったことがあるが、1997年に破局した。2000年には別の女性と結婚し、3人目の子供も生まれた。後に2017年3月31日にTBSで放映された『今夜解禁!ザ・因縁』で20年ぶりに相原と2人で顔を合わせ、真相を語った。曙本人からではなく曙の代理人を名乗る人物(当時の曙の付き人)から「横綱のことは忘れてください。結婚はなかったことにしてください」と別れを告げられた(ことが納得しがたい)と話す相原に対し、曙は「俺は『別れた』と伝えたつもりだよ。俺が相撲取れないとき、結婚ばっかり迫られて、なんで励ましてくれないの?とりあえず結婚を置いといて、『がんばりましょう』と何でいえないの。そこで気持ちが切れた」とその理由を語った。その後は互いの主張を繰り返すも、冷静さを取り戻した曙は「自分の中ではもうけじめをつけて終わっていることだし、いい経験というのは失礼かもしれないけど、そういう経験があったから今があると思っている」と話した。相原も「すごいすっきりしている。本当に会えてよかった。堂々と生きていける気がする」と笑顔。この収録を最後に破局騒動には一切触れないと番組内で約束した。 取的時代のある時1980円で飲み放題の店に入り、チューハイをジョッキで40杯飲んだ。翌日も顔を出すと店主が青ざめ、以来その店は力士の飲み放題を断るようになったという。ただ酒豪伝説と言っても、曙は昭和の力士達と異なり日本酒やウイスキーではなく比較的アルコール度数の低いチューハイを好んでいたため、この点で留意すべきである。因みに来日当初は日本人の酒好き、煙草好きを不思議に思っていたそうである。
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