遮光器土偶
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遮光器土偶 (しゃこうきどぐう)は、縄文時代晩期につくられた土偶の一型式である。一般に「土偶」といえばこの型のものが連想されるほど有名な型である[1]。眼部にあたる部分がイヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしていることからこの名称がつけられた(遮光器を付けた姿の表現ではなく、目の誇張表現と考えられている)[2][3][4]。
遮光器土偶の登場
温暖で暮らしやすい気候の続いていた縄文時代は、その後期に入ると冷涼化が始まった[3][5]。海浜部での海岸線の後退や木の実や海産物の激減など、温暖な気候の恵みに支えられていた縄文人の食生活は打撃を受け、人口は減少傾向に向かったとされる[3][5]。縄文文化も相対的に退嬰がみられ、特に大陸や朝鮮半島で栄えていた先進的な文化の接近を受け始めていた北九州地方ではその傾向が顕著であった[6]。
このような情勢の縄文時代晩期において、日本列島内で唯一文化的な発展が際立っていたのが東北地方北部地域の 亀ヶ岡文化であった[3][6][7][8]。この文化に伴う土偶として登場するのが遮光器土偶である[3][6][7][8]。
遮光器土偶は、主に東北地方北半部で縄文時代晩期前半に作られた[7][9]。この名称は、坪井正五郎(1891年)の指摘による[3][9]。坪井はこの土偶の眼部表現がイヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器に似ていることにより、遮光器をかけているのではないかと考えた[3][9]。坪井の指摘に基づき、甲野勇や中谷治宇二郎が昭和初期に「遮光器土偶」という名称を使いだしたのが始まりとされる[9]。
ただしこの説には「これは土偶の造形表現上で、極端に眼部の表現が誇張されたものだ」という反論が早くから出されていた[3]。原田昌幸(2010年)の指摘[3]にあるとおり、底湿地遺跡の発掘調査が進んできても遮光器自体の出土は見受けられない[3]。さらに原田は、遮光器土偶を型式学的な視点から捉え、眼部の表現が誇張されるのはこの土偶型式の一時期のみで限られていることもあわせて指摘している[3]。これらの状況により、単にこの土偶が作られた時期に流行した眼部の表現方法に過ぎないとされた[3][4]。
江坂輝彌は遮光器土偶の眼部表現について「突如としてあのような容貌で出現したのであろうか」という疑念を抱いていた[10]。自身の著書『土偶』を執筆した時期(1960年)には類例の土偶も少なく、明確な解釈を持つことができなかった[10]。しかし研究が進み広船遺跡(青森県平川市)や野面平(のもてたい)遺跡(青森県三戸郡田子町)[注釈 1]のような出土例が集積されていくにつれて、江坂は「これは眼部を次第に誇張したものだ」との確信を持つことができた[10]。江坂は「これらの土偶を初現として眼部を誇大化していく遮光器土偶の変遷をたどることができる」と評価した[10]。
特色と分布
遮光器土偶は「遮光器眼手法」で眼部が表現された土偶が基本となる[4][11]。この手法は「粘土の貼付ではなく線で眼を描き、楕円形の区画の中央に横一線を引く」眼部の表現である[4][11]。
遮光器土偶は縄文時代晩期前半に多く製作された[7][9]。三上徹也(2014年)などによれば、東北地方の土器編年は大洞式[注釈 2]の6型式に細かく変遷し、その変遷に対応した土偶自体の造形の変化をたどることが可能であることがわかってきた[11][13]。遮光器土偶はこのうち大洞B式からC1ないしC2式の時期まで継続した[11]。『土偶・コスモス』(2012年)では変遷を5段階に分類し、第1段階を縄文時代晩期前葉(紀元前1000年頃)、第2段階を晩期中葉(紀元前1000年前後)、第3段階を晩期中葉前半(紀元前800年前後)、第4・5段階は晩期中葉後半から晩期後葉(紀元前800年から紀元前600年前後)に分けている[8][14]。
分布の範囲は東北地方北半部を中心として、南限はほぼ雄物川上流域と北上川下流域となり、山形県や福島県での出土はごく限られた例となる[7]。金子昭彦(2001年)は生産体制について言及し「その規格性と系統性から、どこかで集中的につくって各地に供給していたと考えられる。(中略)この形態の土偶が基本的に東北地方北半部にかぎられることを思えば、この地域に製作地は一ヶ所と考えるのが自然である」と記述した[15]。その上で金子は特定は難しいとしながらも、大洞式土器の分布を考慮して「北上川中流域」と推測した[15]。この地域に存在する遺跡の中で、九年橋遺跡(くねんばしいせき、岩手県北上市)あるいはその近くの遺跡に製作地があったことが推定される[15]。金子は鈴木克彦(1996年)の説を引用し「土器の方もこの遺跡に製作地があったようなので、土偶製作の前提条件(粘土の採取ほか)は整っている」と述べた[15]。
一方で遮光器土偶を模倣した土偶は、北海道南部から関東・中部地方、さらに近畿地方まで広く分布する[4][7][16]。一例として江坂は静岡県榛原郡川根本町(上長尾小学校敷地内)からの出土例を挙げた[16]。この付近からは大洞C1式の浅鉢型土器も出土している[16]。江坂はこの出土例に対して「東北地方の諸例と比較すると極めて稚拙な感じを与える」と評した[16]。江坂は「(縄文時代)晩期中葉の大洞C1式頃に該当するとみなしてさしつかえないものであろう」としながらも、施文などに粗雑な感があることについて「この地方に良質な粘土がなく、研磨して黒色の光沢のある精緻なものに作りあげることができなかったためと考えるべきであろうか(後略)」と記述した[16]。
藤沼邦彦(1997年)は、この形式の土偶における最大の特色として「きわめて非写実的で形式化が著しい」ことを挙げている[7]。大きさには大小があり、内部が空洞になっている中空のものや内部も粘土が詰まっている中実のものの両方がある[7][11]。三上(前掲)は初期の作例では中実が、盛行期となるBC式の時期には中空の作例が多くなり、同時に磨消縄文も多用されたことを記述している[11]。藤沼も中・大型の土偶に中空が多く、小型品には中実のものが多いことを指摘した[7]。
初期段階の作例では、「遮光器状の目」はややつりあがった細長い楕円形を呈するものが多くみられる[7][8]。しかし、眼部が次第に丸みを帯びて大きく表現され、顔面の大部分を占めるようになる[7]。亀ヶ岡遺跡出土土偶(後出)はこの時期を代表する作例として著名である[7]。前掲『土偶・コスモス』では「目を中心とした顔の表現に注目すると、変化がわかりやすい。土偶も「顔が命」なのである」と記述している[8]。
亀ヶ岡遺跡出土土偶のような大型土偶の体部は、亀ヶ岡式土器とほぼ同様の文様で装飾されていて、時代の経過とともに土器の模様が変遷すると土偶の文様も同様に変遷していく[7]。土偶の表面は土器と同じように研磨が施され、朱などで着色された痕跡があるものが多い[7]。藤沼(前掲)は亀ヶ岡式土器と遮光器土偶を比較して「きわめて精巧に作られた遮光器土偶も、じつは亀ヶ岡式土器を作る技術を応用して生み出されたものであることが分かろう」と評している[7]。
完全な状態で発見されることは稀で、足や腕など体の一部が欠損していたり、切断された状態で発見されることが多い[17][18]。多産や豊穣を祈願するための儀式において、土偶の体の一部を切断したのではないかとも考えられている[17]。
遮光器土偶は縄文時代晩期後半に衰微した[7][19]。江坂によると大洞C1式後半の宇鉄遺跡(うてついせき、青森県東津軽郡外ヶ浜町)や薬師山貝塚(宮城県石巻市)出土例のように、すでに眼部の表現の誇張に形骸化がみられる[19]。遮光器土偶に代わって頭部に角状突起を持つ土偶、結髪状土偶、刺突文土偶などが作り出された[7]。これらの作例はいずれも遮光器土偶に連なる系列で比較的大型であるが、眼部の表現の誇張が急速にすたれている[7]。これらの土偶は遮光器土偶とは違い、東北地方各地で広く分布がみられ、出土数も多い[7]。
代表的な作例
- 亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市)出土土偶 - 重要文化財、東京国立博物館蔵[20][21]。高さ34.2センチメートル、幅25.3センチメートル、厚9.5センチメートル[22]。大型の中空土偶で、左足を欠く以外は原型をほぼとどめている[2][21][22][18][23]。脚部は短く、腰は強く張り出し、胴部には唐草文風の曲線文が全面に施されている[21]。目は「遮光器」状を呈し、頭部には王冠状の複雑な装飾がみられる[21][23]。この土偶は1887年4月に発掘され、同年10月に、結成間もない中央の学会に紹介された[21][23]。青森県立郷土館は「このような経緯からも、最も有名な遮光器土偶といってもよいでしょう」と評している[21]。その知名度にかかわらず国宝に指定されていないのは、出土状況が不明確だからとされる[1]。
その他の作例
- 手代森遺跡(岩手県盛岡市)出土土偶 - 遺跡内の捨て場からバラバラの状態で出土した[24]。破片をつなぎ合わせたところ、高さ31センチメートル、幅19センチメートル、厚さ9.5センチメートルの完形に近い土偶が復元できた[24]。内部は中空で、頭部や胴体の一部に朱が少量残っている[24]。重要文化財、文化庁蔵(岩手県立博物館保管)[24][25]。
- 恵比須田遺跡(宮城県田尻町)出土土偶 - 高さ35.7センチメートル、幅21センチメートル、厚さ10.1センチメートル、重量1368グラム[26]。大洞C1式時期の中空土偶で、ほぼ完形で出土したため近年の模造品ではないかと疑念を持つ人もいた[27]。重要文化財、東京国立博物館蔵[28]。
- 泉沢貝塚(宮城県石巻市)出土土偶 - 高さ26.2センチメートル[29]。1948年、この地方をアイオン台風が通過した際に偶然発見された[30]。中空土偶で左脚部に多少の破損がみられるほかはほぼ完形である[30]。宮城県指定有形文化財、東北歴史博物館蔵[30][31]。
- 石神遺跡(長野県小諸市)出土土偶 - 1991年、上信越自動車道建設工事の際に行われた調査で採集された[32]。遮光器土偶の出土例として長野県内では類例のないものと評価を受け、小諸市重要有形文化財となった[32][33]。
歴史・観光資源としての活用

東日本旅客鉄道(JR東日本)五能線の木造駅は、1992年に駅舎を新築した際に前面に遮光器土偶(亀ヶ岡遺跡出土例)のモニュメントを据え付けた[34]。これはふるさと創生事業の一環として、地域の活性化と観光資源としての活用を目的とした地域住民のアイディアが採用されたもので、欠失した左脚部分が駅舎への出入り口になっている[34][35]。
長井市古代の丘資料館(山形県長井市)には、関連施設として土偶広場がある[34][36]。巨大な遮光器土偶をメインとして、各時期の遮光器土偶や立膝で腕を組んだ土偶などが集合していて、原田昌幸(『国宝土偶展 : 文化庁海外展大英博物館帰国記念』寄稿文)は「まるで、土偶ファミリーです」と評している[34]。八戸公園(青森県八戸市)にも手をつないだ形の「親子遮光器土偶」のモニュメントがみられる[34]。
脚注
注釈
- ^ 江坂はこの2例を初期の遮光器土偶とみなしている[10]。
- ^ 名称のもととなった大洞貝塚(おおほらかいづか、岩手県大船渡市赤崎町大洞)は縄文時代晩期の貝塚である[11][12]。山内清男は貝塚の発掘地点による土器の特色(文様の施し方など)の違いに着目して東北地方の縄文時代晩期の土器を6型式(大洞B・BC・C1・C2・A・A′式の順)に編年した。
出典
- ^ a b “土偶の鑑賞法”. テレビ日経おとなのoff(BSテレ東). 2025年8月19日閲覧。
- ^ a b “亀ヶ岡石器時代遺跡”. 北海道・北東北の縄文遺跡群. 2025年8月19日閲覧。
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- ^ 「JR木造駅舎」つがる市。2016年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月16日閲覧。
- ^ “長井市古代の丘資料館のご紹介”. 長井市. 2025年9月13日閲覧。
参考文献
- 岩手県立博物館 『第68回企画展 遮光器土偶の世界』 岩手県文化振興事業団、2017年。
- 江坂輝彌 野口義麿編『古代史発掘3 土偶芸術と信仰』講談社、1974年。
- 江坂輝彌『日本の土偶』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年。 ISBN 978-4-06-292463-4
- 金子昭彦 『ものが語る歴史4 遮光器土偶と縄文社会』 同成社、2001年。 ISBN 4-88621-217-4
- 芹沢長介 『日本陶磁大系 縄文(第1巻)』 平凡社、1990年。 ISBN 4-582-23501-8
- 東京国立博物館編『東京国立博物館図版目録 縄文遺物編(土偶・土製品)』中央公論美術出版、1996年。 ISBN 4-8055-0311-4
- 原田昌幸著、株式会社至文堂編集、独立行政法人国立文化財機構監修『日本の美術 第527号 土偶とその周辺II(縄文後期-晩期)』ぎょうせい、2010年。 ISBN 978-4-324-08736-7
- 藤沼邦彦『歴史発掘3 縄文の土偶』講談社、1997年。 ISBN 4-06-265103-3
- 文化庁、東京国立博物館、NHK、NHKプロモーション 編『国宝土偶展 : 文化庁海外展大英博物館帰国記念』NHK、2009年。
- 三上徹也『縄文土偶ガイドブック-縄文土偶の世界』 新泉社、2014年。 ISBN 978-4-7877-1316-2
- MIHO MUSEUM編『土偶・コスモス』羽鳥書店、2012年。 ISBN 978-4-904702-37-6
関連項目
外部リンク
- 『遮光器土偶』 - コトバンク
- 『遮光器土偶の曙光・1』 国際縄文学協会
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