進化論から優生学・人種衛生学へ
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「反ユダヤ主義」の記事における「進化論から優生学・人種衛生学へ」の解説
詳細は「進化論」、「優生学」、および「人種衛生学」を参照 ネアンデルタール人をフールロットと共同で1856年に発見した解剖学者シャーフハウゼンは、宗教の高度な思想を受け入れることのできない土着民は動物に近く、またアジアとアフリカの猿は土着の人種に類似していることから、人類多重起源説を主張した。 1864年の『自然選択理論から導かれる人種の起源』でウォレスは自然選択説から導かれることとして、精神組織が発達した知性の高いゲルマン人種のような優等人種は増加する一方で、劣等人種は逐次消滅してきたとし、人間の進化は有色人種の消滅まで続くとした。 チャールズ・ダーウィンは、異人種交配による退化の原因は交配によって決められる隔世遺伝のせいであると論じ、また『人間の由来』(1871)では人種の優劣を前提していた。イギリスではアーリア主義が進化論によって普及していったが、フランスやドイツのような反ユダヤキャンペーンとはならなかった。ダーウィンを弁護したハクスリーはアーリア人は芸術と科学を作り、セム人はヨーロッパの宗教の基本を作ったとした。ハクスリーは女性とニグロの解放に好意を示しながらも双方の遺伝的劣等を確信していた。 ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルは『自然創世史』(1868)で病弱の幼児を殺害した古代スパルタ人に見られるような人為淘汰を肯定した。 ダーウィンの従兄弟の遺伝学者フランシス・ゴルトンは『遺伝的天才』(1869)で知性は血統による遺伝的なもので、白人種はニグロやオーストラリア人種よりも優秀で、また人為選択による改良で高度な人種を作り出せるとした。ゴルトンは、聖職者に独身を強要したり異端裁判で大胆な種子を弾圧してきたカトリック教会や新教徒を弾圧したルイ14世を非難する一方で、イギリスは移民によって利益を得てきたとしてロシアからのユダヤ人移民を好意的に扱うなど反ユダヤ主義者ではなかった。しかし、ゴルトンは共同体の良い血統を残すために、わが人種の能力を弱体化させる習慣や偏見に対する聖戦を宣言する時が来るだろうとした。ゴルトンは1883年に優生学(Eugenics)を造語した。フランスの解剖学者ブローカも雑種現象は生物学的に有害としていた。 進化論は、適者生存の法則によって人類は白人種の下に進化していくとした社会学者スペンサーやサムナー、ヘッケルによって社会進化論へと発展した。スペンサー、ウォレス、サムナーも優良人種の保持は自然淘汰によって実現すると楽観していた。一方、社会主義者の優生学者・統計学者ピアソンは、アーリア人種とキリスト教徒は奴隷として見下してきた人々によって押し返されて目を覚ますだろうと悲観的に見た。イギリスではピアソンやロナルド・フィッシャーなどのネオダーウィニズムへと発展していった。 1873年、スイスの植物学者カンドルは遺伝の絶大な力を説明するなか、ヨーロッパにユダヤ人のみが住んでいれば戦争も道徳感覚が傷つけられることも失業もなくなり、文芸や科学は前進していくが、自然史の法則によって、ユダヤ人の理想都市はギリシア人、ラテン人、カンタブル人(古代スペイン)、ケルト人、ゲルマン人、スラブ人の末裔によって略奪されるだろうと論じた。カンドルは他の箇所では、厳しい旧約聖書に対して新約聖書には優しさ、思いやり、謙虚さがあり、宗教教育だけで育成したイスラエル人は暴力的であるとした。哲学者リボーは『遺伝-心理学的研究』(1873) でユダヤ人種は文明への憎悪に満ちており、悪徳を宗教のように愛しており、彼らの最大の野心はキリスト教徒から盗むことであると論じた。ニーチェは、プラトンやアリストテレスが「理想国家」にとって無用な者の遺棄を肯定し、古代ギリシアでは不具の新生児遺棄は普通であったことから「不具の子供を生かしておく方がもっと残忍なことだ」と書いた。 進化論や社会ダーウィニズムは、ドイツ帝国やアングロサクソン諸国で力の福音が説かれる際に権威となった。トライチュケは諸民族は生存競争によってしか繁栄できないとし、また戦争が永久になくなってしまえば、人間の魂の至高の力が減退し、エゴイズムが支配すると論じた。ドイツのジャーナリストのベータは『ダーウィン、ドイツおよびユダヤ人、またはユダヤ-イエズス会』(1876)で寄生的なセム人と生産的なゲルマン=アーリア人との間での生存競争に対して、反ユダヤ法の公布を要求し、ゲルマンの民族精神を退化させる「寄生生物の根絶」を主張した。農業家アレクサンダー・ティレは社会進化のために醜い人間の結婚を禁止すべきだと説いた。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト(任期1901-9)は絶えず生存闘争を語った。 1899年、遺伝学者・人類学者ヴァシェ・ド・ラプージュは、フランス革命の破産は権力者が金髪の長頭人から短頭人に代わったためであり、民主主義の進展によって短頭人種の下層階級に権力が集中していき、フランスの偉大さを作った長頭人種のアーリア人は消滅し、生まれながらの奴隷である短頭人種は犬のように自分の主人を探すためアーリア人がいないところでは中国人やユダヤ人の支配下で生きるとした。そして、20世紀には頭指数が高いか低いかのために数百万の人々が殺し合い、大量虐殺を目の当たりにするだろうと予言した。ラプージュは「悪貨は良貨を駆逐する」のグレシャムの法則を援用して「悪い血は良い血を駆逐する」とも述べた。ラプージュは反ユダヤ主義者というよりもアーリア主義者であり、劣等の短頭人種を「アルプス人」とし、長頭人種アーリア人を「ヨーロッパ人」と定義し、短頭人種と長頭人種の混血を避けるために優生学による断種政策を提唱した。法学者でもあったラプージュは遺産の相続と遺伝について考察し、父権を否定しながら、近親交配が遺伝の力をひきあげるし、優れた人種が死ねば国家は死滅するとし、子に去勢を強いる父である神とキリスト教を否定して、太陽と男根を崇拝する宗教を提唱した。ヴィルヘルム2世はラプージュを「フランスの唯一の偉人」と称賛した。 人種衛生学を人類学者オット・アモン、優生学者アルフレート・プレーツ、シャルマイヤーらが展開した。1892年にはスイスの精神科医オーギュスト・フォレルが民族衛生学の観点から精神障害者の女性に対して断種手術を施し、1897年にはドイツで婦人科医エルヴィン・ケーラーが遺伝病の女性の断種手術(卵管切除)を行った。法律家アドルフ・ヨストは『死への権利』(1895)で、不治の病人は安楽死への権利をもつし、不治の精神病患者の殺害は本人の意思表示がなくとも医師の判断によって可能とした。 優生学者アルフレート・プレーツはカウツキーの社会主義やフェリクス・ダーンの人種主義を融合した『我々の人種の能力と弱者の保護:人種衛生学と社会主義的理想の研究』(1895)において、遺伝子次元での不適切な要素を除去することによって適者生存と社会主義の調和を図り、アーリア人種を保護するための人種衛生学を提唱した。ただし、ユダヤ人もアーリア起源とした。彼は人種の感覚を鈍らせた原因としてキリスト教と民主主義を批判した。1904年、プレーツは社会学者A・ ノルデンホルツや動物学者L・ プラーテらと世界初の優生学専門誌『人種社会生物学』を創刊し、第二次世界大戦前後には攻撃的な生物学思想の主要機関誌となった。1905年、プレーツは人種衛生学会を作り、ヘッケル、ヴァイスマン、ゴルトンが加わった。1907年には北方協会(Ring der Norda)を創設した。社会学者マックス・ヴェーバーによって1910年の第一回社会学者大会へ招待されたプレーツは講演「人種概念と社会概念」で、社会発展の鈍化の原因は社会的弱者の保護政策や生存闘争に基づく自然淘汰の低減にあるとし、民族衛生学的な解決策として性的淘汰によって劣悪な遺伝子の継承を防ぐこと、そして究極的な解決策として生殖細胞の淘汰による劣等生殖細胞の消滅(後の遺伝子操作)を提唱した。ヴェーバーはプレーツの人種概念が曖昧であり、民族生物学固有の問題の実質的な限界を踏みはずしてはならないと批判した。ただし、ヴェーバーも黒人やインディアンにも知的な上層部がいるが白人種と混血が多く、また知的に未熟な黒人を「半猿ども」と表すように白人種の優越を認める一方で、外見が白人なのに黒人との混血を重視するアメリカ人を批判した。またヴェーバーは「職業としての学問」(1917)では重態の患者や精神障害者の家族が安楽死を嘆願した場合でも医師は患者の命を保持しようとするが「生命が保持に値するかどうか」は医学の問うところではないとした。 1908年にはイギリスで優生教育委員会、1910年にはアメリカで優生記録局が作られた。アメリカでは優生学者ダベンポートが1911年には『人種改良学』を発表した。ゴルトンの優生学では常習犯の隔離や精神障害者の生殖の制限も主張され、アメリカでは1907年以降各州で断種法が制定され、移民排斥法や禁酒法などにも影響が見られた。
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