進化論との関わり
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「ジョセフ・ダルトン・フッカー」の記事における「進化論との関わり」の解説
フッカーは南極探検航海から帰ると、自分で採集した植物標本の分類の合間にダーウィンのビーグル号航海の植物標本の整理も請け負うことになった。フッカーは出航前に一度ダーウィンと会っていたが、1843年末から文通で意見を交わすようになった。そしてわずか2ヶ月後の1844年はじめには、ダーウィンはフッカーに「殺人を告白するようなものですが、種は変化すると確信しました」と書き送っている。フッカーはおそらく科学者としてはダーウィンの理論を初めて明かされた人物である。その頃から二人は家族ぐるみで親交を深めるようになっていった。1847年には自然選択説の概要を受け取り、意見を求められている。フッカーは大量の生物学や地質学の資料、そしてロンドンの科学界の情報をダウン村に隠棲していたダーウィンに送っている。彼らの文通はダーウィンが理論を発展させる過程を通して続いた。後にダーウィンはフッカーを「私が共感を得つづけることができた、たった一人の人物(living soul)」だと表現した。リチャード・フリーマンは二人の関係について次のように書いた。「フッカーはチャールズ・ダーウィンのもっとも偉大な友人であり心を許せる人であった」 初めて自然選択説の概要を見たときには全く賛成しておらず、その後10年にわたって自然選択説の第一の批判者であった。1853年の著書では種は不変であると述べている。『種の起源』と同時期に出版された彼はこのエッセイで自然選択説への支持を表明し、科学界から認められた人物の中でダーウィンを公的に支持した最初の人物となった。科学史家の松永俊男はフッカーの転換を1859年の初頭と指摘している。1858年にダーウィンがアルフレッド・ラッセル・ウォレスから自然選択説を述べた論文を受け取ると、ダーウィンの長年の研究を知っていたフッカーはチャールズ・ライエルと共に、自然選択説を共同発表することを勧め、同年のロンドン・リンネ協会で欠席したダーウィンの代わりに二人の論文を代読した。 1860年6月にオックスフォード博物館で進化について歴史的な討論会が行われた。サミュエル・ウィルバーフォース主教、ベンジャミン・ブローディ、ロバート・フィッツロイはダーウィンの理論に対して反対し、トマス・ハクスリーとフッカーは擁護した。当時の多くの解説によれば、ウィルバーフォースの主張にもっとも効果的に応えたのはハクスリーではなくフッカーであった。 フッカーは1868年にイギリス学術協会の会長を務めた。ノリッジで行われた会議での会長演説でフッカーはダーウィンの理論を支持した。彼はトマス・ハクスリーとも親友であり、Xクラブのメンバーが1870年代から1880年代初めに3代続けて王立協会を支配したとき、協会の会長を最初に務めた。1909年の『種の起源』50周年記念講演にはすでに90歳を超えているにもかかわらず出席し講演を行った。 フッカーは短い小さな病のあと、1911年11月10日に自宅で睡眠中に死去した。ウエストミンスター寺院はダーウィンの近くに墓を提供したが、その前に火葬に付されると述べた。彼の未亡人は申し出を断り、フッカー自身が望んだようにキューガーデン近くのセント・アン教会の墓所に父と並んで埋葬された。
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進化論との関わり
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チャールズ・ダーウィンの進化論は、生物学全体を大きく変えた。『種の起源』は、種の変化する可能性を様々な観点から論じているが、そこには発生学からの証拠も利用されていた。同時にこの説はこの分野に大きな影響を与えた。上記のような現象の理由が、進化論によってはっきり説明されると考えられたからである。 たとえばミュラー(Fitz Mueller 1821-187)はダーウィンの書が出版されるとすぐにその支持者になった。彼の観察がそれによってきれいに説明できると考えたからである。彼によると、甲殻類の発生ではノープリウス・ゾエア・ミシスなどの幼生の段階があるが、多くのものでその出発点はノープリウスであること、カイアシ類ではほぼそのままの構造で、アミ類の場合はミシス期の形で成体になる。このようなことが進化の系列として捉えれば説明しやすいと考えたのである。同時にそこから甲殻類の祖先はノープリウスのようなものだったろうと推察している。彼はこの論文に「ダーウィン賛同」という名を付けた(1864)。ちなみにダーウィンは『種の起源』の後の版でこの論文を引用している。ミュラーはその中で、おおよそ以下のように述べた。 個体の発生過程は、その個体の属する種の進化してきた経歴を示す。 子孫は先祖の発生の過程をたどり、そのまま先祖の親を超えて進むこともあり、その場合には発生全部が子孫の中で繰り返される。 子孫が先祖の発生をたどりながら、途中で脇道にそれることもあり、その場合には分岐するところまでの発生が一致する。 これはベールの法則の進化論に立った見直しでもあり、ほとんどヘッケルの反復説(1866)と同じであり、後者は極端に言えば個体発生など特殊な用語で置き換えただけ、とも言えるものである。 エルンスト・ヘッケルもやはり進化論の影響を強く受け、比較発生学を推し進めた一人である。彼の反復説は比較発生学を進化的に説明したことで有名であるが、上記のようにその内容は先行研究者によるものの焼き直しに近い感がある。具体的内容においてはむしろベールの法則の方が正確といわれることもある。しかしその魅力的な表現とはっきりした方向性のために多くの目を引いたことは事実である。その後の研究から、この説には多くの批判が集まることとなったが、これはむしろこの説の影響力を示すといってもよい。しかしヘッケルの業績は、反復説と胚葉説をも結びつけ、これを動物全体の系統論としたことにある。彼はごく初期の発生にまで反復説を当てはめ、胞胚や原腸胚の形を多細胞動物の初期の形と見なした。これをガスツレア説といい、長く多細胞動物の系統論の定説であった。ガスツレア説に関しても多くの批判や疑問が集まったが、それらはむしろこの説を補強修正する動きとなり、多くの研究がその後約50年にわたって続く。
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