第6航空軍参謀
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1944年10月に、フィリピンの戦いで海軍神風特別攻撃隊が出撃し戦果を挙げると、陸軍も万朶隊や富嶽隊といった特攻隊を出撃させ、特攻が常用の作戦となっていった。そんな1944年の年末に倉澤は新たに編成された 第6航空軍参謀に抜擢された。第6航空軍は、日本に迫る連合軍を迎撃するために編成された航空軍であったが、その軍司令官には陸軍航空の第一人者で、倉澤が陸軍士官学校に通っていたときの校長であった菅原道大中将が就任した。菅原は倉澤を呼ぶと「君は作戦主任参謀の水町中佐のもとで、編成参謀として補佐してくれ。沖縄戦が開始されると特攻隊を編成するから責任は重いぞ。体の具合はどうだ?」と言葉をかけている。 アメリカ軍はフィリピンを攻略すると、次いで硫黄島も占領し、いよいよ沖縄に迫ってきた。第6航空軍は1945年3月10日に司令部を東京から福岡に移転、軍司令部を福岡高等女学校(現・福岡県立福岡中央高等学校)に置いたが、倉澤も司令官の菅原に随行して福岡入りした。倉澤は陸軍航空本部など関係各所と交渉して、航空機や搭乗員を第6航空軍に配備するように交渉する係となったが、仕事熱心さと後遺症による頭痛により上級参謀であろうが容赦なく噛みつくため「神経露出狂」などとあだ名を付けられて煙たがられた一方で、倉澤も頭痛と任務の重圧に押しつぶされて、さらに酒の量が増していった。 1945年3月25日、アメリカ軍が慶良間諸島に上陸を開始したとの情報が連合艦隊に入ると、3月20日に大本営により下令された天号作戦に基づき、連合艦隊は1945年3月25日「天一号作戦警戒」、南西諸島への砲爆撃が激化した翌26日に「天一号作戦発動」を発令した。「天一号作戦警戒」発令により鈴鹿以西の作戦可能航空戦力は、海軍の第五航空艦隊司令官宇垣纒中将の指揮下に入ったが、そのなかには大陸命第一二七八号(1945年3月19日) にて連合艦隊司令長官の指揮下に置かれて、海軍と一体の特攻作戦を推進していた第6航空軍も含まれていた。第6航空軍は第5航空艦隊の指揮下で、4月1日に沖縄本島に連合軍が上陸して激戦の火ぶたが切られた沖縄戦において、沖縄近海に多数の特攻機を出撃させた。 そのような状況下で、第6航空軍が何らかの理由で出撃または突入できずに帰還した特攻隊員を収容する振武寮を福岡市に設営すると、倉澤はその運営に携わる参謀約5名の中の一人となった。その中でもっとも若かった倉澤は血気盛んであり、振武寮から隊員を司令部に呼び出し竹刀で殴打したり、倉澤が陸軍航空士官学校の教官時代の教え子で、隊長なのに1人だけ帰還した第43振武隊の陸士今井光少尉に拳銃を渡し「部下だけ突入させて、隊長一人が残ったのは、職業軍人として恥ずかしくないのか?」と罵倒し自決まで迫った。今井は口惜しさのあまり卒倒して2、3日寝込んだという。 振武寮の日々は反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経など精神再教育的なものが延々と続けられた。特攻出撃したが乗機が故障で喜界島に不時着し生還した第22振武隊大貫健一郎少尉は、毎晩就寝前に軍人勅諭全文を毛筆で書き写して、翌朝の朝食時に提出するよう命じられた。頭痛を和らげるための常態的な飲酒により酔ってがなり立てる倉澤に「そんなバカなことを書く(軍人勅諭を書き写すこと)よりも特攻機を下さい。亡くなった戦友たちが待っているんです。毎日軍人勅諭を書いて何になりますか」と反論したところ、泥酔していた倉澤と口論になり、倉澤から竹刀で気を失うまで殴打されたこともあった。大貫のように振武寮にいた特攻隊員の多くは再出撃を希望し、倉澤に特攻機の受領を求めたが、倉澤から「お前らのように途中で帰ってくる卑怯者にやる特攻機はない。また同じように飛行機の故障だといって逃げて帰ってくるに違いない!」と罵倒され、特攻機を受領することは無く、再出撃はできなかった。 昨夜の深酒か朝酒で泥酔している倉澤が、大貫が朝食を食べている食堂を訪れ「命が惜しくて帰ってきたろ、そんなに死ぬのが嫌か、卑怯者。死んだ連中に申し訳ないとは思わんのか」「お前ら軍人のクズがよく飯を食えるな」「おまえら人間のクズだ。軍人のクズ以上に人間のクズだ」と酔った勢いで罵倒することもあった。そこで食事を躊躇っていると、倉澤は「なんで飯を食わない? 食事も天皇陛下から賜ったものだぞ」と食べるまで部屋を出ていかなかった。 ただし、倉澤にこのような扱いを受けた特攻隊員は一部にとどまり、第54振武隊小川光悦少尉によれば、振武寮に到着した夜に、倉澤から軍人勅諭を持っているか?と聞かれたが、遺品として実家に送ってしまって手元になかったので、倉澤は自分の軍人勅諭を貸与し書き写しておくように命じている。小川は倉澤が厚意で貸してくれたと恐縮し、その夜に短時間で軍人勅諭を筆写して倉澤に借りていた軍人勅諭を返すと、晴れ晴れとした気分で熟睡したという。風呂は生徒用でなく舎監用の風呂に入浴したが、2人や3人は入れる浴槽に鼻歌を歌いながらゆっくり入浴できた。翌朝からも懲罰的な作業は命じられることはなく、本部前の振武寮とは別棟にて沖縄への航法の一般的な講義を受けている。 第65振武隊の片山啓二少尉によれば、終日正坐をして軍人勅諭を筆写させられていたのは重謹慎の処罰を受けていた者だけで、片山らは倉澤に過失を見つけられるごとに叱責されただけであった。片山らはその後に明野教導飛行団に転属を命ぜられ、皮肉にも一度も特攻出撃することなく終戦まで生きながらえることとなった。以上のように収容された特攻隊員の中でも処遇に違いがあり、この処遇の違いを大貫は『実際に出撃して途中で帰還した者』と『特攻基地まで行ったものの飛行機の故障などにより出撃そのものができなかった者』の違いと考えていた。 しかし、大貫と同日に入寮し、同じように倉澤に罵倒された特攻隊員の中にも、第30振武隊の横田少尉のように『出撃そのものができなかった者』も含まれている一方で、第72振武隊として出撃しながら本隊と逸れ不時着し、後日振武寮行きとなった朝鮮人特攻隊員金本海龍伍長は、軍人勅諭筆写や罵倒などの差別的待遇は特にされなかった上に、1945年6月末に侍従武官の尾形健一大佐が第6航空軍を視察することが決まった際に、菅原から昭和天皇に奏上する特攻美談の原稿を書くように指示を受けた倉澤はその対象者として、振武寮に収容されている隊員の中から、金本を「朝鮮人でありながら、日本人以上に立派な隊員です。」と参謀長の藤塚止戈夫 中将に推薦している。後に倉澤の書いた金本称賛の原稿は新聞記事となって掲載されている。 後年の倉澤の証言によると、対応の違いについては、帰還者のなかで「ちょっと臭いやつに対しては強く出た」という。学徒出身の特別操縦見習士官に対しては、知識があるために特攻作戦に消極的だとみて厳しく接した。一方、少年飛行兵は若くして軍隊に入っているので扱いやすいとも述べている。 振武寮も沖縄戦が終息に向かっていた1945年6月に入った頃には次第に運営の箍も緩んでおり、日本発送電福岡支店(戦後に解体されて九州電力)内本支店長から、同社女子社員と振武寮収容隊員とのお茶会の開催の申し出があると、最初は「お茶会で若い女性を見ると変心して、出撃の意思を失ってしまうのではないか、私はそれを恐れているのです。」と難色を示した倉澤も、第6航空軍司令部から開催の許可が出るや、逆に「拒否することは許さぬ、病人以外全員行くこと」と命じるほど積極的になった。 1945年6月のある日、日本発送電所有の振武寮にほど近い薬院の山荘に、20代の女子社員30名が和装して隊員らを迎えお茶会が予定通り開催された。女子社員と特攻隊員の談笑の中で、女子社員からは「こんな若い人たちが特攻で死ぬなんて信じられない、初めから死ぬことがわかって出撃するなんて」などと特攻を批判するような発言も飛び出したが、倉澤がその発言で怒ったりすることはなかったという。特攻隊員は女子社員とすっかり意気投合して、翌朝に隊員の多くが振武寮を抜け出し、日本発送電の事務所に訪れて、女子社員らに会いに行っているが、それを倉澤が止めることはなかったという。 このお茶会の終わった後、参加者の中の1人の第42振武隊の中野友次郎少尉が振武寮に帰って来ると、倉澤が中野に向かって「卑怯者が帰ってきたか」と嫌味を言った。中野はそれを聞くや立腹して倉澤を殴り倒している。本来、軍隊で部下が上官に暴力を振るうのは重罪であるが、倉澤は第6航空軍司令官菅原道大中将と第30戦闘飛行集団長青木武三少将に呼び出されると、青木から「私の編制した部下に何か文句があるのか、立派に戦って戻った者を」と、階級が下の収容隊員に殴り倒されたにも関わらず逆に叱りつけられ、中野はそのまま原隊に復帰し咎められることもなかった。倉澤は、この事件後、中野ら特別操縦見習士官にはあまり干渉しなくなったという。そのため、このお茶会のあとは、医者に通院するとか適当な理由を申し出れば、好きな時に自由に外出できるようになった。 また、振武寮は外部との接触禁止との建前であったが、福岡高等女学校や福岡女学校の女学生の慰問は継続的に受けていた。女学生らは学校の講堂で学芸会を開き、日本舞踊を踊り、海ゆかばを歌って隊員を慰めた。その内、第67振武隊山岸聰少尉は女学生の1人と懇意になり、振武寮を抜け出して大濠公園でデートを繰り返し、戦後にその女学生と結婚しており、戦時中の軍の施設の運営状況としては、比較的自由な環境であった事実も判明している。倉澤以外の振武寮の運営に携わった参謀らは特に特攻隊員らに厳しく当たることもなかったが、倉澤も、特攻隊員らの反抗的な態度に手を焼き、しばらくすると厳しくあたることはなくなっていき、また第6航空軍司令部も倉澤と特攻隊員が対立すると特攻隊員側の肩を持つことが多かった。 振武寮は1945年6月20日の福岡大空襲の際に、焼夷弾が至近距離に落ちて延焼したが、特攻隊員らの消火活動により半焼で済んでいる。しかし復旧の目途も立たず、6月21日には代替機受領予定の特攻隊員は原隊に戻された。
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