設立理由・経緯
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振武寮の設立された理由や経緯も、公的な資料が存在せずはっきりしない。責任者である第6航空軍司令の菅原も、振武寮について直接証言したことはない。菅原は帰還した特攻隊員相手に「貴官らは、どうして、生きて帰ってきたか」「死ぬことができないのは、特攻隊の名誉をけがすことだ」という趣旨の激しい訓話を行ったこともあったが、帰還した特攻隊員への処置に関しては「某軍曹がまた帰ってきた。エンジンの不調は直ったのにまた帰ってきたという話が耳に入ったが、不問に附した。之は不適格だと言うことは判る。しかし特攻隊員免除と言えば名誉を失墜させ当人を殺すことになる」や「士気振策上、軍紀粛正上甚だ生暖かい統率の仕方という批判もあるだろうが、特攻だからといって機材の不調なのに遮二無二に征けと言うわけにはいかない(中略)たとえ臆病が理由としても水かけ論に終わる。(中略)この種のこと(特攻機の帰還のこと)で軍司令官として特に処理した覚えはない」などと軍司令官として何らかの命令をしたことはなかったと戦後に証言している。 倉澤の証言による振武寮の設立理由・経緯は、「引き返した理由は様々だが、自分が現場を見ていないので、彼らの言い分は信用しなかった。(中略)中には損傷の全くない機体もあり、故障だ、天候が悪い、敵機の攻撃で不時着したというが、彼らは死にたくないから引き返したとは絶対に言わないものだ。(中略)そういうことが何回も続くと、編成参謀としては、疑いざるを得なくなる。第6航空軍としては、対策を立てなければならない。それが1人や2人じゃない。その世話をするのが、操縦士出身の参謀の私しかいない。収容施設とは明らかに言えないから、寄宿舎と内部では呼んだ。(中略)収容された特攻隊員は、倉澤が強制収容したと決めてかかっているが、事実はそうではなくて第6航空軍上部の方針なんだ。」と証言しており、『何度も理由不詳で帰還する特攻隊員』を『第6航空軍の命令で』収容するために設立したとしている。また、「私の立場はね、特攻隊がみんな行って、みんな突っ込んでくれるという前提で仕事をしてたんですよ。だから私の方では、そんなにたくさん帰ってくるとはね、夢、考えなかったです。」とも倉澤は証言しており、第6航空軍が想定していなかった帰還特攻隊員の扱いに困り、振武寮に収容したとも証言している。 しかし倉澤は、上記の証言と矛盾する「強制収容はしていない」や、「特攻隊員は神様(軍神)になっていましたからね。彼らの名誉を守るためにも匿っておくしかなかったのですよ。」と特攻出撃し戦死公報した特攻隊員の偶像と名誉を守るために仕方なく振武寮に匿ったと証言もしていたり、振武寮のことを『寄宿舎』ではなく『裁縫室』と呼んでいたとか、異なった証言もしている。 倉澤は帰還特攻隊員の処置に関して、第6航空軍の方針に従ったとしているが、1945年5月28日に喜界島より陸軍の爆撃機で帰還した特攻隊員28名の処遇を決める第6航空軍参謀会議の内容について、倉澤が自ら「すぐ出撃させるか、精神教育を行って再び出撃させるか、参謀の中で意見が割れて結論が出なかった。」と沖縄戦が終盤に差し掛かった時期にも、第6航空軍の中で帰還特攻隊員に対する対応方針が決まっていなかったことを証言し、「彼ら(帰還特攻隊員)を収容した頃は、すでに沖縄戦末期で、事実上の特攻作戦は終わっていた。」と証言しているが、振武寮は遅くとも5月初めには設立されており、その時期は菊水作戦第5号、第6号の時期で、特攻により正規空母バンカーヒルやエンタープライズ が大破し、大量の死傷者を被り撤退するなど、沖縄戦での航空特攻戦最盛期の頃であり、完全な記憶違いをしている。また、倉澤は特攻機の帰還を「夢、考えなかった」と証言しているが、倉澤の上官で実際に特攻を指揮した、第6航空軍第12飛行団団長川原八郎大佐は出撃する特攻隊員らに「無理に死ななくともよい。帰れるなら帰ってこい」と訓示しており、特攻機の帰還を第6航空軍が想定していなかったというのは倉澤の独断に過ぎず、倉澤の証言には矛盾が多く、信頼性に乏しい。 振武寮の取材のために倉澤と4回面談した林えいだいも、第30戦闘飛行集団長青木武三少将についての話題で、前回の飛行第62戦隊の取材時では、倉澤が青木について詳しく話していたのに、次の取材で倉澤に青木について質問すると「青木武三なんて知らないなあ。そんな人陸軍にいないよ」と、陸軍航空碑奉賛会の事務局長を務め、陸軍航空同人会の活動にも積極的に関与していた倉澤にあるまじき回答を聞いて、自分に不都合なことを否定するために噓をついたと推測している。 もっとも、林の取材を受けた時点で倉澤は86歳と高齢で、胃を3回も手術するなど体調も芳しくなく、林も体調を慮って取材時間を制限したほどであった。倉澤は林から4回目の取材を受けた数日後にリンパ癌の症状が悪化し、2週間後の10月に死亡した。林はその知らせを聞くと、特攻を指揮した多くの指導者たちが、特攻は志願であったと責任を回避したのに対して、倉澤は体調の悪い中で取材に応じて貴重な証言を残しており、倉澤なりに責任を取ったとその勇気と良心に頭が下がる思いであったと述べている。
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