漢鏡の変遷と特徴
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中国での銅鏡の歴史は古いが、戦国時代ごろまでは銅礼器と同じ工房で作られ、文様も共通であった。戦国時代を境に銅礼器が衰退する一方で日用品としての銅鏡の需要が高まり、銅鏡の生産が他の青銅器生産から独立して文様も独自の発展を遂げる。特に後漢代に至ると民間工房が形成され、互いに競いながら新たな鏡式を生み出していった。後漢王朝末期からは混乱期となり、三国西晋時代までは新たな鏡式が創出されれなくなる。そのため後漢鏡の複製あるいは後漢鏡を改変した創作模倣鏡と呼ばれる鏡群が生産され、漢王朝滅亡後も漢鏡の影響がしばらく続いた。 漢鏡の編年に関しては、前漢鏡・王莽鏡・後漢鏡に分類するのが一般的であったが、近年では岡村秀典 (1999, p. 1-5)による漢鏡1期から漢鏡7期に様式区分する編年案が広く受け入れられている。 漢鏡の編年(岡村編年)編年年代主な鏡式漢鏡1期 前漢前期 紀元前2世紀前半 蟠螭文鏡1式・2式 漢鏡2期 前漢中期前半 紀元前2世紀後半 草葉文鏡、後半には星雲文鏡 漢鏡3期 前漢中期後半から後期前半 紀元前1世紀前半から中頃 異体字銘帯鏡 漢鏡4期 前漢末から王莽代 紀元前1世紀後葉から1世紀はじめ 方格規矩四神鏡、獣帯鏡、虺竜文鏡 漢鏡5期 後漢前期 1世紀中頃から後半 方格規矩四神鏡、四葉座内行花文鏡、獣帯鏡、盤龍鏡 漢鏡6期 後漢中期 2世紀前半 方格規矩四神鏡、蝙蝠座内行花文鏡、獣帯鏡、盤龍鏡 漢鏡7期第1段階 後漢後期 2世紀後半から3世紀初め 上方作系浮彫式獣帯鏡、飛禽鏡、画象鏡、八鳳鏡など 漢鏡7期第2段階 画文帯神獣鏡 漢鏡7期第3段階 斜縁神獣鏡 前漢前期の代表的な鏡式が蟠螭文鏡である。蟠螭文鏡は秦代に出現したものであるが、前漢前期になるとこれに銘文が記されるようになる。銘文の内容は主君への心情を謳う抒情詩が多く、当時流行していた楚歌(のちに『楚辞』が編まれる)の影響が見られる。こうした銘文が好まれた理由について、岡村は、権力闘争に敗れた忠臣の嘆きに、恋愛をめぐる女性の心情を重ね合わせたものが人びとの心を捉えたと推測している。 武帝の時代になると、戦国鏡の特徴が失われ、漢鏡のデザインが確立する。この時代の代表的鏡式は草葉文鏡や銘帯鏡である。どちらにも銘文が記されるが、夫婦の心情を読むものなどの民謡歌謡である。内容は『楚辞』に通ずるものもあるが、単に四言吉祥句を並べるものが多くなる。また、紀元前1世紀前半の墓から出土した銘帯鏡には、後の南北朝時代に編まれる『玉台新詠』の盤中詩の原型とみられる詩が記されており、こうした漢鏡の銘文研究は文学史上でも注目されている。この頃には下級官人の墓にも漢鏡が副葬されるようになり、鏡が広く普及したとされる。ただし、それらの銅鏡は王侯たちが用いた鏡と大きさに顕著な違いがあり、製作や流通も全く異なっていたと考えられる。 儒教が国教化して陰陽五行思想が広まると、漢鏡にも影響が見られるようになる。図柄としては瑞祥を表す想像上の動物や陰陽の調和を表す西王母が描かれるようになり、これを天円地方に配した方格規矩四神鏡と、円い天に配した獣帯鏡が創出される。しかし、紀元前1世紀後半ではそれらの役割は流動的であり、四神の方位の固定や東王公の創出は紀元後である。紀元前1世紀末ごろの銘文には、陰陽五行思想を記した七言の銘文が見られる。また、前漢後期になると官僚層の広がりと共に儒家思想による家族観が広がる。これに呼応して孝の概念や子孫の繁栄の祈り、あるいは互いに慈しみ合う夫婦などが銘文に記されるようになる。 紀元前1世紀後葉からは神仙思想の影響も見られるようになる。銘文には神仙の有様を描写するとともに長寿や子孫繁栄の願いが記される。ただしこの時代の特徴として、神仙を記す銘文に四神を描く図像が組み合わされる例など、銘文と内区に描かれる図像が一致しない例が多くみられる。これは銅鏡が大掛かりな工房で分業して生産されるようになり、図像を彫る工人と銘文を彫る工人が別であったことを示すと考えられている。 紀元後8年に王莽が新王朝を建国する。王莽は識字率の向上に目をつけて、銅鏡をプロパガンダとして利用して新と王氏を称える銘文を記す。このような銘文がある鏡を総称して「王氏鏡」と言うが、いずれも鏡式は方格規矩四神鏡で、官営工房で作成されたと考えられる。また、新代から銘文に尚方御竟などと記される「尚方鏡」が現れる。尚方(しょうほう)とは秦代から続く工芸品を製作する役所であるが、新代からその名が銘文に記されるようになった。「王氏鏡」は一般官僚に対するプロパガンダとして市場で流通した鏡と考えられるが、「尚方鏡」は王侯を対象に製作されたと考えられる。「尚方鏡」は日本からも出土しており、新と交流する倭人がいた可能性がある。 後漢初期の代表的な鏡式は内行花文鏡と方格規矩四神鏡である。いずれも新代からみられる鏡式を踏襲し、内行花文鏡は黄河流域より北、方格規矩四神鏡は淮河より南で流通した。尚方での鏡生産は後漢でも継続され、方格規矩四神鏡の生産は尚方がほぼ独占したとされる。なお、尚方の工房は淮南にあった可能性が高いと考えられている。この頃の尚方での作鏡はマンネリ化していたと考えられ、銘文の崩れ、字数の減少、十二支銘の省略、図像の簡略化などが見られる。こうした特徴の変化は、長年の戦乱により国が官営工房を維持できなくなり、尚方は自力再生の為に独自ブランドとして多くの鏡を生産して一般に流通させた事が原因と考えられる。こうした「尚方鏡」の銘文は、尚方御鏡から尚方作に変わっている。 紀元後60年頃から、尚方内に「青盖(せいしょう)」を雅号とするグループが生まれて獣帯鏡を製作し始める。程なくして青盖は独立して「青盖鏡」の製作を始める。彼らは新たに浮彫式の盤龍文を創作し、獣帯鏡の鈕座にこれを配した。さらにこれから獣帯文を省いて小型化した盤龍鏡を創作する。この立体的表現である浮彫式はやがて他の鏡式にも引き継がれてゆき、後漢鏡の特徴の一つとなる。このように尚方から独立した鏡工グループは他に「銅槃(どうばん)」があり、また漆器などほかの工芸でも官営工房からの独立が見られることから、武器や馬具を除く工芸品の生産は国家が管理するのではなく、生産を民間に委託し税を納めさせる方式に変更されていったと考えられる。 また同じころに個人工房が次々に立ち上がる。それらには池氏・張氏・陳氏・龍氏・杜氏などが挙げられるが、彼らは競うように獣帯鏡や盤龍鏡に独特な図像や銘文を取り入れる。たとえば「龍氏作鏡」には、距虚、辟邪、天禄などと記される奇獣が現れるが、これらは80年代ごろから後漢の勢力下に入った西域諸国からもたらされた珍獣だと考えられている。彼らは活動した淮南にちなみ、淮派と呼ばれる。しかし、こうした個人工房は経営が苦しかったようで、一部は青盖系の工房と合作をするようになり、ほとんどの工房は1代限りで廃業したと考えられ、2世紀以降には淮派の活動は低調になる。 淮派の影響を受けて呉県で工房を構えたのが朱氏・柏氏・何陽氏の呉派である。80年ごろに朱氏は新たに画像鏡を創作する。建初8年(83年)と記された「呉朱氏作」画像鏡には西王母と対になって東王公が描かれているが、銅鏡以外に東王公が現れるのは壁画では2世紀半ば、文献資料では4世紀であり、東王公は朱氏の創作である可能性が高い。また呉派では『史記』の伍子胥伝や、民間伝承と思われる韓朋賦の物語を表現した画像鏡が製作されている。画像鏡は90年ごろから淮派でも作られるようになる。なお、呉派も盤龍鏡を作成するが、その作風から彼らが淮南にいる鏡工の誰と交流を持っていたかが類推できるとされる。また、呉派の鏡に記される銘文の内容は文様と乖離していることも特徴である。 四川でも1世紀末ごろから董氏や厳氏などの個人工房が独立する。四川は前漢時代からの銅の産地で、85年までは「蜀群西工造」という官営工房があったが、これが解体されて「広漢西蜀」などの民営工房や、個人工房が独立したと考えられる。この鏡工らを活動地に因んで広漢派といい、その系統の鏡群を「華西系」という。広漢派は2世紀初頭に、新たに神獣鏡を創作する。最初につくられた神獣鏡は環状乳神獣鏡で、内区外縁に半円方形帯があるのが特徴である。半円方形帯は3世紀ごろまで様々な神獣鏡に用いられた。この方格には「吾作明竟」から始まる銘文が1字づつしるされるが、吾作は広漢派にみられる特徴でこれも3世紀ごろまで見られる。神獣鏡は淮派や呉派の影響を受けているが、その銘文に「彫刻すること極まり無し」と記されるように、緻密な文様構成であることが特徴である。また、同時期に広漢派が創作した鏡式として、八鳳鏡や獣首鏡がある。これらは神獣鏡の浮彫式とは異なり、平彫式であることが特徴で、その文様から黄河流域で流行した内行花文鏡の系譜を引くと考えられる。 当初の神獣鏡は西王母と東王公と伯牙に神獣を合わせたの三神三獣であったが、2世紀中頃からはこれに黄帝が加わり四神四獣の構成となる。また同じころに外区に記されていた銘文帯を画文帯に変えた画文帯神獣鏡が創作される。190年を最後に広漢派は紀年銘鏡を作らなくなるが、これは後漢王朝が混乱期に入った煽りを受けたと考えられる。当初の神獣鏡に描かれる神獣像は中央に頭を向けて描く「求心式」であったが、2世紀後半から内区を上中下の3段に分ける「三段式」が広漢派周辺で生まれる。さらに長安付近にあったと推測される九子派の鏡工が、神獣を従える2神を対置に配する「対置式」を創出した。2世紀に入ってから呉派の作鏡は衰えていたが、190年に洛陽が陥落するころから江南で九子派と思われる銅鏡が見られるようになる。このように混乱する北部から難を逃れて江南に移転した鏡工には、超禹(ちょうう)がいる。その一方でそれに押し出されるように呉から転出した張氏元公や、都が許に遷ると紀年銘鏡を多く作る示氏などが、「同向式」や「重列式」など独創的な神獣鏡を製作した。 主に画像鏡を製作していた淮派に2世紀代後葉に神獣鏡が伝わると、これを折衷する鏡工が現れる。その折衷は一様ではなく、画像鏡の銘文を継承しつつ画文帯神獣鏡を作成した劉氏や、画像鏡に神獣鏡的な画像配置を取り入れて新たに斜縁神獣鏡を創作した袁氏などがいる。こうした鏡群はその製作地に因んで、岡村は「徐州系」、上野祥史は「華北東部系」と呼んでいるが、後漢末期に遼東太守の公孫度が山東半島に侵攻して支配し、公孫康が3世紀初めに朝鮮半島に帯方郡を設置すると、それを経由して徐州系漢鏡が畿内を中心として日本に流入するようになる。 以上のように後漢鏡は淮河から長江流域を中心に発展したが、一方で黄河流域では前述したように内行花文鏡が主に流通していた。1世紀代は径面も大きく優れた鏡も作られたが、ほとんどが「長宜子孫」などの短い四言吉祥句を入れるのみで、作者や製作地を推測するのは困難である。2世紀になると黄河流域から出土する鏡は小型鏡が多くなり、戦乱の中で銅鏡製作が衰退したものと思われるが、入れ替わるように王侯用として鉄鏡が製作されるようになる。 漢王朝滅亡後は、漢鏡の模倣を特徴とする漢式鏡づくりが行われた。3世紀から4世紀にかけて、方格規矩四神鏡や神獣鏡などの図像や配置を真似て異なる鏡をつくる創作模倣が盛んとなり、5世紀から6世紀には漢鏡の図像を踏み返しで型おこしした上で改変する踏み返し模倣がおこなわれた。これらは図像や配置の乱れ、逆字や同笵鏡の多さなどが特徴である。
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