漢鏡の変遷と特徴とは? わかりやすく解説

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漢鏡の変遷と特徴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 14:20 UTC 版)

漢鏡」の記事における「漢鏡の変遷と特徴」の解説

中国での銅鏡歴史は古いが、戦国時代ごろまでは礼器と同じ工房作られ文様も共通であった戦国時代を境に礼器が衰退する一方で日用品としての銅鏡需要高まり銅鏡生産が他の青銅器生産から独立して文様も独自の発展遂げる。特に後漢代に至ると民間工房形成され互いに競いながら新たな鏡式生み出していった。後漢王朝末期からは混乱期となり、三国西晋時代までは新たな鏡式創出されれなくなる。そのため後漢鏡の複製あるいは後漢鏡を改変した創作模倣鏡と呼ばれる鏡群が生産され漢王朝滅亡後漢鏡影響がしばらく続いた漢鏡編年に関しては、前漢鏡・王莽鏡・後漢鏡に分類するのが一般的であったが、近年では岡村秀典 (1999, p. 1-5)による漢鏡1期から漢鏡7期様式区分する編年案が広く受け入れられている。 漢鏡編年岡村編年編年年代主な鏡式漢鏡1期 前漢前期 紀元前2世紀前半文鏡1式・2式 漢鏡2期 前漢中期前半 紀元前2世紀後半 草葉文鏡、後半には星雲文鏡 漢鏡3期 前漢中期後半から後期前半 紀元前1世紀前半から中頃 異体字銘帯鏡 漢鏡4期 前漢末から王莽紀元前1世紀後葉から1世紀はじめ 方格規矩四神鏡獣帯鏡虺竜文漢鏡5期 後漢前期 1世紀中頃から後半 方格規矩四神鏡四葉内行花文鏡獣帯鏡盤龍鏡 漢鏡6期 後漢中期 2世紀前半 方格規矩四神鏡蝙蝠内行花文鏡獣帯鏡盤龍鏡 漢鏡7期第1段階 後漢後期 2世紀後半から3世紀初め 上方作系浮彫獣帯鏡飛禽鏡、画象鏡、八鏡など 漢鏡7期第2段画文帯神獣鏡 漢鏡7期第3段斜縁神獣鏡 前漢前期代表的な鏡式が蟠文鏡である。蟠文鏡は秦代出現したのであるが、前漢前期になるとこれに銘文記されるうになる銘文の内容主君への心情謳う抒情詩多く当時流行していた楚歌(のちに『楚辞』が編まれる)の影響見られるこうした銘文好まれ理由について、岡村は、権力闘争敗れた忠臣嘆きに、恋愛をめぐる女性心情重ね合わせたものが人びと心を捉えたと推測している。 武帝の時代になると、戦国鏡の特徴失われ漢鏡デザイン確立する。この時代代表的鏡式草葉文鏡や銘帯鏡である。どちらにも銘文記されるが、夫婦心情を読むものなどの民謡歌謡である。内容は『楚辞』に通ずるものもあるが、単に四言吉祥句を並べるものが多くなるまた、紀元前1世紀前半の墓から出土した銘帯鏡には、後の南北朝時代編まれる玉台新詠』の盤中詩の原型とみられる詩が記されており、こうした漢鏡銘文研究文学史上で注目されているこの頃には下級官人の墓にも漢鏡副葬されるようになり、鏡が広く普及したとされる。ただし、それらの銅鏡王侯たちが用いた鏡と大きさ顕著な違いがあり、製作や流通も全く異なっていたと考えられる儒教国教化して陰陽五行思想が広まると、漢鏡にも影響見られるうになる図柄としては瑞祥を表す想像上の動物陰陽調和を表す西王母描かれるようになり、これを天円地方配した方格規矩四神鏡と、円い天に配した獣帯鏡創出される。しかし、紀元前1世紀後半ではそれらの役割流動的であり、四神方位固定東王公の創出紀元後である。紀元前1世紀末ごろの銘文には、陰陽五行思想記した七言銘文見られるまた、前漢後期になると官僚層の広がりと共に儒家思想による家族観広がる。これに呼応して孝の概念子孫繁栄祈り、あるいは互いに慈しみ合う夫婦などが銘文記されるうになる紀元前1世紀後葉からは神仙思想影響見られるうになる銘文には神仙有様描写するとともに長寿子孫繁栄願い記される。ただしこの時代特徴として、神仙を記す銘文四神を描く図像組み合わされる例など、銘文内区描かれる図像一致しない例が多くみられる。これは銅鏡大掛かりな工房分業して生産されるようになり、図像を彫る工人銘文を彫る工人が別であったことを示すと考えられている。 紀元後8年王莽新王朝建国する。王莽識字率の向上に目をつけて、銅鏡プロパガンダとして利用して新と王氏称える銘文を記す。このような銘文がある鏡を総称して王氏鏡」と言うが、いずれも鏡式方格規矩四神鏡で、官営工房作成されたと考えられるまた、新代から銘文尚方御竟などと記される尚方鏡」が現れる尚方しょうほう)とは秦代から続く工芸品製作する役所であるが、新代からその名が銘文記されるようになった。「王氏鏡」は一般官僚対すプロパガンダとして市場流通した鏡と考えられるが、「尚方鏡」は王侯対象製作されたと考えられる。「尚方鏡」は日本からも出土しており、新と交流する倭人がいた可能性がある。 後漢初期代表的な鏡式内行花文鏡方格規矩四神鏡である。いずれも新代からみられる鏡式踏襲し内行花文鏡黄河流域より北、方格規矩四神鏡淮河より南で流通した尚方での鏡生産後漢でも継続され方格規矩四神鏡生産尚方がほぼ独占したとされる。なお、尚方工房淮南にあった可能性が高いと考えられている。この頃尚方での作鏡はマンネリ化していたと考えられ銘文崩れ字数減少十二支銘の省略図像簡略化などが見られるこうした特徴変化は、長年戦乱により国が官営工房維持できなくなり尚方自力再生為に独自ブランドとして多くの鏡を生産して一般に流通させた事が原因考えられるこうした尚方鏡」の銘文は、尚方御鏡から尚方作に変わっている紀元後60年頃から、尚方内に「青盖(せいしょう)」を雅号とするグループ生まれて獣帯鏡製作し始める。程なくして青盖は独立して「青盖鏡」の製作を始める。彼らは新たに浮彫式の盤龍文を創作し獣帯鏡の鈕座にこれを配した。さらにこれから獣帯文を省いて小型化した盤龍鏡創作する。この立体的表現である浮彫式はやがて他の鏡式にも引き継がれてゆき、後漢鏡の特徴一つとなる。このように尚方から独立した鏡工グループは他に「槃(どうばん)」があり、また漆器などほかの工芸でも官営工房からの独立見られることから、武器馬具を除く工芸品生産国家管理するではなく生産民間委託し税を納めさせる方式変更されていった考えられる。 また同じころに個人工房次々に立ち上がる。それらには池氏・張氏・陳氏・龍氏・杜氏などが挙げられるが、彼らは競うように獣帯鏡盤龍鏡独特な図像銘文取り入れる。たとえば「龍氏作鏡」には、距虚、辟邪天禄などと記される奇獣現れるが、これらは80年代ごろから後漢勢力下に入った西域諸国からもたらされ珍獣だと考えられている。彼らは活動した淮南にちなみ、淮派と呼ばれる。しかし、こうした個人工房経営苦しかったようで、一部は青盖系の工房合作をするようになり、ほとんどの工房は1代限り廃業した考えられ2世紀以降には淮派の活動低調になる。 淮派の影響受けて呉県工房構えたのが朱氏氏・何陽氏の呉派である。80年ごろに朱氏新たに画像鏡創作する建初8年83年)と記された「呉朱氏作」画像鏡には西王母と対になって東王公が描かれているが、銅鏡以外に東王公が現れるのは壁画では2世紀半ば文献資料では4世紀であり、東王公は朱氏創作である可能性が高い。また呉派では『史記』の伍子胥伝や、民間伝承思われる韓朋賦の物語表現した画像鏡製作されている。画像鏡90年ごろから淮派でも作られるうになる。なお、呉派盤龍鏡作成するが、その作風から彼らが淮南にいる鏡工の誰と交流持っていたかが類推できるとされるまた、呉派の鏡に記される銘文の内容文様乖離していることも特徴である。 四川でも1世紀末ごろから董氏や厳氏などの個人工房独立する四川前漢時代からの産地で、85年までは「蜀群西工造」という官営工房があったが、これが解体されて「広漢西蜀」などの民営工房や、個人工房独立した考えられる。この鏡工らを活動地因んで広漢派といい、その系統の鏡群を「華西系」という。広漢派は2世紀初頭に、新たに神獣鏡創作する最初につくられ神獣鏡環状神獣鏡で、内区外縁半円方形帯があるのが特徴である。半円方形帯は3世紀ごろまで様々な神獣鏡用いられた。この方格には「吾作明竟」から始まる銘文が1字づつしるされるが、吾作広漢派にみられる特徴でこれも3世紀ごろまで見られる神獣鏡は淮派や呉派影響受けているが、その銘文に「彫刻すること極まり無し」と記されるように、緻密な文様構成であることが特徴である。また、同時期に広漢派が創作した鏡式として、八鏡や獣首鏡がある。これらは神獣鏡浮彫式とは異なり、平彫式であることが特徴で、その文様から黄河流域流行した内行花文鏡系譜を引くと考えられる当初神獣鏡西王母東王公と伯牙神獣合わせた三神であったが、2世紀中頃からはこれに黄帝加わり四神四獣構成となる。また同じころに外区記されていた銘文帯を画文帯に変えた画文帯神獣鏡創作される190年最後に広漢派は紀年銘鏡を作らなくなるが、これは後漢王朝混乱期入った煽り受けた考えられる当初神獣鏡描かれる神獣像は中央に頭を向けて描く「求心式」であったが、2世紀後半から内区上中下の3段分ける「三段式」が広漢周辺生まれる。さらに長安付近にあったと推測される九子派の鏡工が、神獣従える2神を対置配する対置式」を創出した。2世紀入ってから呉派の作鏡は衰えていたが、190年洛陽陥落するころから江南で九子派と思われる銅鏡見られるうになるこのように混乱する北部から難を逃れて江南移転した工には、超禹(ちょうう)がいる。その一方でそれに押し出されるように呉から転出した張氏元公や、都が許に遷る紀年銘鏡多く作る示氏などが、「同向式」や「重列式」など独創的な神獣鏡製作した。 主に画像鏡製作していた淮派に2世紀後葉神獣鏡が伝わると、これを折衷する鏡工が現れるその折衷は一様ではなく画像鏡銘文継承しつつ画文帯神獣鏡作成した劉氏や、画像鏡神獣鏡的な画像配置取り入れて新たに斜縁神獣鏡創作した袁氏などがいる。こうした鏡群はその製作地因んで岡村は「徐州系」、上野祥史は「華北東部系」と呼んでいるが、後漢末期に遼東太守公孫度山東半島侵攻し支配し公孫康3世紀初めに朝鮮半島帯方郡設置すると、それを経由して徐州漢鏡畿内中心として日本流入するうになる。 以上のように後漢鏡は淮河から長江流域中心に発展したが、一方で黄河流域では前述したように内行花文鏡が主に流通していた。1世紀代は径面も大きく優れた鏡も作られたが、ほとんどが「長宜子孫」などの短い四言吉祥句を入れるのみで、作者製作地推測するのは困難である。2世紀になると黄河流域から出土する鏡は小型鏡が多くなり、戦乱の中で銅鏡製作が衰退したものと思われるが、入れ替わるように王侯用として鏡が製作されるうになる漢王朝滅亡後は、漢鏡模倣特徴とする漢式鏡づくりが行われた。3世紀から4世紀にかけて、方格規矩四神鏡神獣鏡などの図像配置真似て異なる鏡をつくる創作模倣が盛んとなり、5世紀から6世紀には漢鏡図像踏み返しで型おこしした上で改変する踏み返し模倣おこなわれた。これらは図像配置乱れ、逆字や同笵鏡多さなどが特徴である。

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