文学史的評価とは? わかりやすく解説

文学史的評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 07:53 UTC 版)

青空 (雑誌)」の記事における「文学史的評価」の解説

同人誌青空』は、当時あまり文壇注目されることのなかったアマチュア雑誌で、特に主義主張掲げたものでなかったが、その後著名となる梶井基次郎外村繁中谷孝雄結成していた同人雑誌として、近代文学史的に意義のある雑誌である。また参加同人メンバー多様性からも『白樺』や『文藝時代』、戦後の『近代文学』と同様の特色がある。 はじめて、ズブの素人がそこで結集する。しかも、ほぼ学校同じくした人々が、ということになると、とりわけ白樺」と「青空」が大きくクローズアップされてくる。実際、「同人雑誌」というものの本来的に持っている素人性、手垢汚れぬ清潔さひたむきさ久しきわたってその「初心」を大切にする心根、などからいうとこの「白樺」と「青空」は「同人雑誌」の「典型」ともいえるものである役割大きさというよりは、こういった同人雑誌特有の性格において「青空」は永遠に記憶されるものであろう。「青空」は最初からひとつの文学運動の拠点になるというあらわな意図でもって創刊されたのではないようだ。第1号には、とりたてて壮大な創刊のことばもなければういういしくはずんだような同人雑談すら見うけられない。あえて気負った姿勢をば、空疎なことばで見せてゆくようなことに著しく潔癖なのである。 — 紅野敏郎解説」(復刻版青空』) 『青空掲載作品での最初外部的評価として特筆できるのは、梶井基次郎1926年大正15年7月第17号掲載した川端康成第四短篇集心中』を主題とせるヴァリエイシヨン」に、田中西二郎東京商科大学予科)が感心を寄せていたことである。当時田中は金を出してこの号を買っていた。 田中西二郎その後中央公論社入社し梶井執筆依頼することになるが、その『中央公論』に掲載された「のんきな患者」は梶井生前発表した最後小説となった1926年大正15年8月中旬には、やはり梶井作品着目した雑誌新潮』の編集者楢崎勤が、同誌10月新人特集号への寄稿梶井依頼するが、猛暑持病結核のために、原稿完成思ったように進まず梶井9月新潮社詫び行った(この未完の作品が、のち「ある崖上の感情となった)。 この『新潮10月新人特集号に執筆依頼され寄稿した新人は、藤沢桓夫林房雄舟橋聖一久野豊彦尾崎一雄浅見淵などがいて、破約したのは梶井基次郎けだった。もしも梶井がこの『新潮』に発表していれば、文壇への足掛かりとなった最初絶好機会であった梶井湯ヶ島執筆し24号と26号に掲載された「冬の日」も好評で、室生犀星から讃辞された。湯ヶ島梶井から25号を手渡され川端康成は、そこに掲載されていた外村茂小説節分まへ」を褒め讃辞の手紙を送るために外村自宅住所訊ねた梶井終刊後1928年昭和3年12月に、同人誌青空』について以下のように振り返っている。 別に花々しく世のなかの視聴を欹てたといふ訳でもなく、流行新人送り出した訳ではなかつたが、それの持つてゐた潜勢力当時人も知り私達自信してゐた。そして同人多く入営卒業のため四散してしまつた今でも、なほ私はそれを信じてゐる。「青空」は遊戯気分のない、融通利かないほど生真面目なものを持つた人達の集りであつた。広く世の中へ出て見るに随つて、私達私達の持つてゐた粗樸熱意振り返り敬礼せずにはゐられない。「青空」から新人会へ、文学から解放運動出て行つた私達一人その後もよく云つてゐた。「全く青空がんがんやつたのがよかつた」然り青空」はなによりも私達の腹を作つた。 — 梶井基次郎「『青空』のことなど」

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文学史的評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:42 UTC 版)

文藝時代」の記事における「文学史的評価」の解説

20世紀前衛芸術派の一翼担っていた存在として活動した文藝時代』は、プロレタリア文学系の『文藝戦線とともに大正後期から昭和初期にかけ、文学史的に大きな大潮流を築いた位置づけられている。日本文学史で関東大震災翌年1924年大正13年以降を「近代後期」とみなすのは、この年時代の潮流築いた二つ雑誌創刊されたからである。 『文藝時代』は3年足らず終刊となったが、それまで旧弊とした文壇新風吹込み次代昭和初期文学への活気源泉になった位置づけられ、そうした既成文壇とは異な新しい動き目指したこと自体大きな意義があったとも評価されている。当時文学青年新作家たちも、『文藝時代創刊歓迎していたとされる当時学生だった高見順は、新感覚派の『文藝時代』が『新潮』の堀木克三や藤森淳三、生田長江などの「既成作家や旧文壇御用月評たちからクソミソやっつけられていた」ことに触れつつ、40銭の『文藝時代創刊号大学前郁文堂購入した時の感激を、「ともあれ私たちは、あの『文藝時代』の創刊号どんなに眼を輝かして手にしたことか」と述懐しつつ以下のように語っている。 私は『文藝時代』を買って本屋を出るとすぐ開いて歩きながら読んだ。ここに、私たち若い世代のかねて求めていた、渇えていた文字が、初め現われた。そんな気持で『文藝時代』の創刊号迎えたこうした感激を、私と同年輩文学愛好者ひとしくその頃味わったではなかろうか。(中略現われ新文学が今からすると、たとえどんなに安手のものであろうと、それを支持したということはとりもなおさず、そうして新文学興ってきたことに喜び感じたのである。(中略新感覚派新文学とするならば、文藝戦線派新文学である。しかるに、私は新感覚派の方を文学的に支持した。そしてこれは私だけのことではない。これは、どういうことだろうか。『文藝戦線』の文学作品いわゆる新文学らしい魅力がなかったことも、私をして新感覚派支持傾けさせた。 — 高見順昭和文学盛衰史」 伊藤整は、新感覚派は「その時精神文学における反映」という意味を持っていたとし、新感覚派の『文藝時代』の発刊により「日本文学初めヨーロッパ現在の文学歩調を共にした」と位置づけながら、第一次世界大戦後ヨーロッパ文学が突然変化したことを実感した日本文学者が、それに応じて現在の文学」を作らなければならない意識したことは偉大なことだったとして、「息せき切って多くのものを見落し飛び越えながら彼等西欧作家)に追いついたと日本作家感じたスタートがこの時(『文藝時代創刊ではないか考察している。 そして伊藤は、『文藝時代』の新感覚派文学や、それに続く新興芸術派新心理主義系の「モダニズム作家たちは、新たなヨーロッパ文学への「追跡の無理」のため、同時に多く欠点弱点もまた持たなければならなかったとし、近代ヨーロッパ模倣しつつも、ヨーロッパとは近代化への変遷文化異な日本では西欧風俗流行思想名称など日本人の生活の実質とは基本的には結びつかない現象面だけの模倣になる傾向が強いことを指摘しつつ、その文学運動長続きしなかった根本原因を、次のように解説している。 デモクラシイ、社会主義マルクス主義という順で日本知識階級動かした思想の波は、そういう呼称によって日本人近代社会構造生活意識急激に認識しはじめたということである。だからその崩壊意識反映であるヨーロッパ戦後文学方法が、上昇期ある日本の社会的現実とは、うまく適合しなかったのである。 — 伊藤整解説」(『復刻版 文藝時代別冊しかしながらそうした弱点持っていたにもかかわらず、「時には外国作家形式模倣すること」により、新たな形式作り出した文藝時代』を皮切りにした新文学運動は、「そこへ生活意識をはめ込んで育てる」という、元とは逆現象的な実験に、「血肉注いだ」と評価しその実験の半分担っていたともいえる『文藝戦線』や『戦旗』は「新し倫理的秩序のために生活意識作り出す」という形の実験操作をしたと伊藤捉えている。 高見順は、『文藝時代同人らが表現第一義的なものとすることによりプロレタリア派に抵抗したことを指摘しつつ、「プロレタリア派を呑み込むことによって、それに抵抗」した新感覚派系の「不断歯痛」こそが、大正文学には無かったものとして、昭和文学史に彼らの雑誌位置づけられる所以触れている。 平野謙は『昭和文学史』の中で、既成文学への抵抗試みた点において、「芸術革命」の『文藝時代』の新感覚派と、「革命芸術」のプロレタリア文学派は、同床異夢的な共同戦線張っていたという見解示している。 平野は、田虫あやつられモスクワ遠征失敗するナポレオン描いた横光の「ナポレオン田虫」における「(ほとんど神のような絶対者立場に近い)田虫あやつられ自立性喪失する人間のすがた」と、疥癬によって密航阻まれ最終的に刑死した吉田松陰描いた菊池寛の「船医立場」における人間ドラマとの決定的な相違触れつつ、そこに「一見同一テーマ追求しながら、菊池寛芸術内容素材)的価値主張したに対して横光利一形式主義的な芸術論提唱しなければならなかったゆえん」があるとして、横光の「静かな羅列」にも見られたその「人間性喪失」のテーマが、ある点でプロレタリア派と共通する面があったとしている。 マルクス主義文学いわゆる自己疎外」と横光人間性喪失とは、ある点で共通の面を所有していたのである。「静かな羅列」(大正14年9月のような非情な作風にいたれば、いわゆる唯物史観の公式とのちがいはほとんど一歩の差ということもできる。芸術左翼左翼芸術とはこの程度には共存することができたのである。しかし、プロレタリア文学マルクス主義文学にみずからのすがたを変貌させてゆく過程は、やはりそのような共存打破せずにおかぬ過程でもあった。横光文学的僚友片岡鉄兵鈴木彦次郎今東光らのやや唐突な左翼化のうごきは、かえって横光利一立場を反コムミュニズム文学立場固定化させる傾きとなった。 — 平野謙昭和文学史」 『文藝時代』が作り出した気運は、その後新たな芸術派グループ結成同人誌創刊にも影響与え春山行夫北川冬彦三好達治らによる1928年昭和3年9月創刊の『詩と詩論』や、淀野隆三らによる1930年昭和5年5月創刊の『詩・現実』が生れることにも繋がった

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