文学史的評価
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同人誌『青空』は、当時あまり文壇に注目されることのなかったアマチュア雑誌で、特に主義主張を掲げたものでなかったが、その後に著名となる梶井基次郎、外村繁、中谷孝雄が結成していた同人雑誌として、近代文学史的に意義のある雑誌である。また参加同人メンバーの多様性からも『白樺』や『文藝時代』、戦後の『近代文学』と同様の特色がある。 はじめて、ズブの素人がそこで結集する。しかも、ほぼ学校を同じくした人々が、ということになると、とりわけ「白樺」と「青空」が大きくクローズアップされてくる。実際、「同人雑誌」というものの本来的に持っている素人性、手垢に汚れぬ清潔さ、ひたむきさ、久しきにわたってその「初心」を大切にする心根、などからいうとこの「白樺」と「青空」は「同人雑誌」の「典型」ともいえるものである。役割の大きさというよりは、こういった同人雑誌特有の性格において「青空」は永遠に記憶されるものであろう。「青空」は最初からひとつの文学運動の拠点になるというあらわな意図でもって創刊されたのではないようだ。第1号には、とりたてて壮大な創刊のことばもなければ、ういういしくはずんだような同人雑談すら見うけられない。あえて気負った姿勢をば、空疎なことばで見せてゆくようなことに著しく潔癖なのである。 — 紅野敏郎「解説」(復刻版『青空』) 『青空』掲載作品での最初の外部的な評価として特筆できるのは、梶井基次郎が1926年(大正15年)7月の第17号に掲載した「川端康成第四短篇集『心中』を主題とせるヴァリエイシヨン」に、田中西二郎(東京商科大学予科)が感心を寄せていたことである。当時、田中は金を出してこの号を買っていた。 田中西二郎はその後、中央公論社に入社し、梶井に執筆依頼することになるが、その『中央公論』に掲載された「のんきな患者」は梶井が生前発表した最後の小説となった。 1926年(大正15年)8月中旬には、やはり梶井の作品に着目した雑誌『新潮』の編集者・楢崎勤が、同誌10月新人特集号への寄稿を梶井に依頼するが、猛暑と持病の結核のために、原稿の完成が思ったように進まず、梶井は9月に新潮社に詫びに行った(この未完の作品が、のち「ある崖上の感情」となった)。 この『新潮』10月新人特集号に執筆依頼され寄稿した新人は、藤沢桓夫、林房雄、舟橋聖一、久野豊彦、尾崎一雄、浅見淵などがいて、破約したのは梶井基次郎だけだった。もしも梶井がこの『新潮』に発表していれば、文壇への足掛かりとなった最初の絶好の機会であった。 梶井が湯ヶ島で執筆し、24号と26号に掲載された「冬の日」も好評で、室生犀星から讃辞された。湯ヶ島で梶井から25号を手渡された川端康成は、そこに掲載されていた外村茂の小説「節分まへ」を褒め、讃辞の手紙を送るために外村の自宅の住所を訊ねた。 梶井は終刊後の1928年(昭和3年)12月に、同人誌『青空』について以下のように振り返っている。 別に花々しく世のなかの視聴を欹てたといふ訳でもなく、流行の新人を送り出した訳ではなかつたが、それの持つてゐた潜勢力は当時人も知り私達も自信してゐた。そして同人の多くが入営や卒業のため四散してしまつた今でも、なほ私はそれを信じてゐる。「青空」は遊戯気分のない、融通の利かないほど生真面目なものを持つた人達の集りであつた。広く世の中へ出て見るに随つて、私達は私達の持つてゐた粗樸な熱意に振り返り敬礼せずにはゐられない。「青空」から新人会へ、文学から解放運動へ出て行つた私達の一人はその後もよく云つてゐた。「全く青空でがんがんやつたのがよかつた」然り「青空」はなによりも私達の腹を作つた。 — 梶井基次郎「『青空』のことなど」
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文学史的評価
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20世紀前衛芸術派の一翼を担っていた存在として活動した『文藝時代』は、プロレタリア文学系の『文藝戦線』とともに、大正後期から昭和初期にかけ、文学史的に大きな二大潮流を築いたと位置づけられている。日本文学史で関東大震災翌年の1924年(大正13年)以降を「近代後期」とみなすのは、この年に時代の潮流を築いた二つの雑誌が創刊されたからである。 『文藝時代』は3年足らずで終刊となったが、それまでの旧弊とした文壇に新風を吹込み、次代の昭和初期の文学への活気の源泉になったと位置づけられ、そうした、既成文壇とは異なる新しい動きを目指したこと自体に大きな意義があったとも評価されている。当時の文学青年や新作家たちも、『文藝時代』創刊を歓迎していたとされる。 当時学生だった高見順は、新感覚派の『文藝時代』が『新潮』の堀木克三や藤森淳三、生田長江などの「既成作家や旧文壇御用の月評家たちから、クソミソにやっつけられていた」ことに触れつつ、40銭の『文藝時代』創刊号を大学前の郁文堂で購入した時の感激を、「ともあれ、私たちは、あの『文藝時代』の創刊号をどんなに眼を輝かして手にしたことか」と述懐しつつ以下のように語っている。 私は『文藝時代』を買って本屋を出るとすぐ開いて、歩きながら読んだ。ここに、私たち若い世代のかねて求めていた、渇えていた文字が、初めて現われた。そんな気持で『文藝時代』の創刊号を迎えた。こうした感激を、私と同年輩の文学愛好者はひとしくその頃、味わったのではなかろうか。(中略)現われた新文学が今からすると、たとえどんなに安手のものであろうと、それを支持したということは、とりもなおさず、そうして新文学の興ってきたことに喜びを感じたのである。(中略)新感覚派も新文学とするならば、文藝戦線派も新文学である。しかるに、私は新感覚派の方を文学的に支持した。そしてこれは私だけのことではない。これは、どういうことだろうか。『文藝戦線』の文学作品がいわゆる新文学らしい魅力がなかったことも、私をして新感覚派支持に傾けさせた。 — 高見順「昭和文学盛衰史」 伊藤整は、新感覚派は「その時代精神の文学における反映」という意味を持っていたとし、新感覚派の『文藝時代』の発刊により「日本文学が初めてヨーロッパの現在の文学と歩調を共にした」と位置づけながら、第一次世界大戦後にヨーロッパ文学が突然変化したことを実感した日本文学者が、それに応じて「現在の文学」を作らなければならないと意識したことは偉大なことだったとして、「息せき切って、多くのものを見落し、飛び越えながら彼等(西欧作家)に追いついたと日本の作家が感じた」スタートがこの時(『文藝時代』創刊)ではないかと考察している。 そして伊藤は、『文藝時代』の新感覚派文学や、それに続く新興芸術派、新心理主義系の「モダニズム」作家たちは、新たなヨーロッパ文学への「追跡の無理」のため、同時に多くの欠点や弱点もまた持たなければならなかったとし、近代ヨーロッパを模倣しつつも、ヨーロッパとは近代化への変遷や文化の異なる日本では、西欧の風俗や流行、思想の名称など、日本人の生活の実質とは基本的には結びつかない現象面だけの模倣になる傾向が強いことを指摘しつつ、その文学運動が長続きしなかった根本原因を、次のように解説している。 デモクラシイ、社会主義、マルクス主義という順で日本の知識階級を動かした思想の波は、そういう呼称によって日本人が近代の社会構造や生活意識を急激に認識しはじめたということである。だからその崩壊意識の反映であるヨーロッパの戦後文学の方法が、上昇期にある日本の社会的現実とは、うまく適合しなかったのである。 — 伊藤整「解説」(『復刻版 文藝時代』別冊) しかしながら、そうした弱点を持っていたにもかかわらず、「時には外国作家の形式を模倣すること」により、新たな形式を作り出した『文藝時代』を皮切りにした新文学運動は、「そこへ生活意識をはめ込んで育てる」という、元とは逆現象的な実験に、「血肉を注いだ」と評価し、その実験の半分を担っていたともいえる『文藝戦線』や『戦旗』は「新しい倫理的秩序のために生活意識を作り出す」という形の実験操作をしたと伊藤は捉えている。 高見順は、『文藝時代』同人らが表現を第一義的なものとすることによりプロレタリア派に抵抗したことを指摘しつつ、「プロレタリア派を呑み込むことによって、それに抵抗」した新感覚派系の「不断の歯痛」こそが、大正文学には無かったものとして、昭和文学史に彼らの雑誌が位置づけられる所以に触れている。 平野謙は『昭和文学史』の中で、既成文学への抵抗を試みた点において、「芸術革命」の『文藝時代』の新感覚派と、「革命芸術」のプロレタリア文学派は、同床異夢的な共同戦線を張っていたという見解を示している。 平野は、田虫にあやつられモスクワ遠征に失敗するナポレオンを描いた横光の「ナポレオンと田虫」における「(ほとんど神のような絶対者の立場に近い)田虫にあやつられ、自立性を喪失する人間のすがた」と、疥癬によって密航を阻まれ、最終的に刑死した吉田松陰を描いた菊池寛の「船医の立場」における人間ドラマとの決定的な相違に触れつつ、そこに「一見同一のテーマを追求しながら、菊池寛が芸術の内容(素材)的価値を主張したのに対して、横光利一が形式主義的な芸術論を提唱しなければならなかったゆえん」があるとして、横光の「静かなる羅列」にも見られたその「人間性喪失」のテーマが、ある点でプロレタリア派と共通する面があったとしている。 マルクス主義文学のいわゆる「自己疎外」と横光の人間性喪失とは、ある点で共通の面を所有していたのである。「静かなる羅列」(大正14年9月)のような非情な作風にいたれば、いわゆる唯物史観の公式とのちがいはほとんど一歩の差ということもできる。芸術左翼と左翼芸術とはこの程度には共存することができたのである。しかし、プロレタリア文学がマルクス主義文学にみずからのすがたを変貌させてゆく過程は、やはりそのような共存を打破せずにおかぬ過程でもあった。横光の文学的僚友・片岡鉄兵、鈴木彦次郎、今東光らのやや唐突な左翼化のうごきは、かえって横光利一の立場を反コムミュニズム文学の立場に固定化させる傾きとなった。 — 平野謙「昭和文学史」 『文藝時代』が作り出した気運は、その後の新たな芸術派のグループ結成や同人誌創刊にも影響を与え、春山行夫、北川冬彦、三好達治らによる1928年(昭和3年)9月創刊の『詩と詩論』や、淀野隆三らによる1930年(昭和5年)5月創刊の『詩・現実』が生れることにも繋がった。
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