改造経緯とは? わかりやすく解説

改造経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 08:47 UTC 版)

南海11001系電車」の記事における「改造経緯」の解説

南海電気鉄道鉄道線全線架線電圧直流600Vから直流1,500Vへ昇圧される際に、11001系後期車一部主要機器類等の更新改造施した車両である。1973年1974年にかけて6両編成4本、合計24両が改造された。 種車となったのは1957年以降製造されモハ11001形11015〜11022とモハ11100形11105〜11120で、5両編成6両編成組み替えたため、不足する4両はより竣工時期の古い編成2本から抽出された。 車種構成全面的に変更され難波寄りからモハ1001形(Mc)-サハ1801形(奇数車)(T)-サハ1801形(偶数車)(T)-モハ1101形偶数車)(M)-モハ1101形奇数車)(M)-クハ1901形(Tc)とされ、MT比1:1の3M3T編成とされた。 モハ1001形1001〜1004はモハ11001形11015・11017・11019・11021、モハ1101形1101〜1108はモハ11100形11105・11107・11109・11111・11113・11115・11117・11119、サハ1801形1801〜1808はモハ11100形11106・11108・11110・11112・11114・11116・11118・11120、クハ190119011904モハ11001形11016・11018・11020・11022をそれぞれ種車とした。

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改造経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/30 13:15 UTC 版)

伊予鉄道ハ500形客車」の記事における「改造経緯」の解説

伊予鉄道では1931年-1937年にかけ、松山市から郊外に向かう各線全線について762mm軌間から1,067mm軌間への改軌工事実施し高浜線については電化されて電車も走るようになったが、その他の路線の全列車高浜線貨物列車については、第二次世界大戦後開業以来甲1形筆頭とする、多数蒸気機関車運行されており、これら老朽機関車群の代替急務となりつつあった。 そこで同社は、将来渡って大きな輸送需要見込まれ郡中線については、高浜線と同様、1950年全線改軌線路規格改良電化工事実施、さらに1967年架線電圧直流750Vに昇圧した。 これに対し、残る横河原の両線については、1950年代初頭段階輸送需要電化実施するほどの規模ではなく、むしろ漸減傾向示し続けており、将来性費用対効果観点大規模な設備投資には問題があった。 このため、両線はしばらくは軽便鉄道規格かつ蒸気動力のままでの運行続けられた。だが、その後燃料事情変化軽油が妥当な価格入手可能となり、かつ良質石炭価格急騰したことから、巨額設備投資要する電化ではなく内燃動力への転換による近代化計画されるようになった。しかし、その一方でこれら2線は762mmから1,067mm軌間改軌されたものの、建築限界車両限界軽便鉄道時代のままであった。そのため、他社のように国鉄から払い下げ等で通常の気動車導入することもできず、また独自設計新造車投入するのも困難であったそうした中、懸案となっていたこれら両線の近代化問題の解決策が、軌道線電車新造改造工事携わっていた広瀬車両担当者から伊予鉄道もたらされた。既存蒸気機関車改造し低燃費ディーゼル機関車とするという方法論と、それを提唱実践する車両メーカー森製作所一社長が紹介されのである。こうして勧め従い既存6号機関車から台枠輪軸等を流用した9t級B型ディーゼル機関車森製作所により製造されDB-1として1953年4月竣工した試験結果これが好成績であったことから、伊予鉄道社内残存する蒸気機関車ディーゼル機関車への全面置き換え決定したこの際資金調達面の問題から大量生産による量産効果背景とした低価格新車、それも割賦販売提案した新三菱重工業の案が採用され1953年末から1954年初頭にかけて新三菱重工業三原製作所DB-2 - 7の6両、1954年8月DB-8竣工し開業以来蒸気機関車全て淘汰された。これらディーゼル機関車導入始まった1953年時点では、客車については明治以来ドイツ輸入車を含む軽便鉄道規格の2軸客車使用されており、蒸気機関車同様に製造後60年以上経過するものが含まれていて老朽化が目立つようになっていた。 当然ながらこちらもそのまま放置できる状況ではなくディーゼル機関車でさえ割賦払いでようやく購入可能となった程度の、きわめて厳し財政の中で近代化の道が模索されることとなった。 こうして、1954年から1957年にかけて自社車両課古町工場既存のこれらの小型客車を2両単位結合して(両線用としては)大型の2軸ボギー客車改造する工事順次実施され、以下の3形21両がディーゼル機関車牽引客車として用意された。 ハ500形501 - 5091954年から1957年にかけて改造客室のみを設置する並等車。定員75名。 ハフ550551 - 5561954年から1957年にかけて改造室内灯用蓄電池搭載し松山市寄り端部側窓2枚分を車掌室として車掌弁を設置する並等緩急車定員70名。 ハニフ570形571 - 5761955年から1957年にかけて改造室内灯用蓄電池搭載し横河原寄り端部専用荷物付き車掌弁を備え荷物室とした、並等荷物合造緩急車定員60名。荷物最大荷重2t。 2軸の小型車接合して1両の2軸ボギー車製作する工事については、戦時中近江鉄道1949年下津井電鉄前例存在しており、他にも同時期の栃尾鉄道(後の越後交通栃尾線)にも同様の事例存在したが、それらはいずれ戦中戦後資材難の中での窮余の策として実施したものであり、戦後経済比較安定してきてからこのような工事を、それも前時代的木造車体をわざわざ新製の上実施した形式は、きわめて特異な事例であった

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改造経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 09:37 UTC 版)

近鉄680系電車」の記事における「改造経緯」の解説

1964年10月1日開業予定され東海道新幹線は、名阪間で路盤が固まるまでの間減速運転を実施する開業時でさえ1時間31分減速運転解除後は1時間8分で運行する計画となっており、当時最速でも2時間13分を要していた近鉄名阪ノンストップ特急に対して大打撃与えることが予測された。 これは、名阪ノンストップ特急からの特急料金大きな収入源としていた近鉄にとって極めて深刻な事態であったが、名阪間のルートとしては元々迂回線に近い形態を持つ近鉄大阪線名古屋線では、直線主体ショートカットルート上を最高で210km/hに達する超高速運転を実施する新幹線速度面で対抗することは事実上不可であった。 そこで、近鉄首脳陣発想の転換図って新幹線自社線の培養線とする、つまり自社エリア内点在する観光地最寄新幹線駅を結ぶことによる新規観光客獲得目的とする緻密な特急ネットワーク構築する構想立てた。その第一陣として、新幹線ダイレクトに乗り換え可能でしかも有数観光地沿線点在する京都橿原線系統京都 - 大和西大寺 - 橿原神宮駅)に有料特急設定することが決定された。 この時点では京都橿原線系統大阪電気軌道創業以来の小断面建築限界のままであり、しかも架線電圧開業以来直流600Vのままと旧態依然とした状態であった。一応、新型特急車両製造検討はされていたが、これらについてはいずれ近い将来規格変更計画されており、この段階で新規設計による特急車両新造行った場合規格変更実施された際にその特殊設計無駄になってしまうことが危惧された。また、この京橿特急構想自体にも試行的な意味合い含まれていたことから、この段階ではひとまず在来車からの改造によって所要特急車準備することとなったこの際要求される走行性能車内設備等から、正規特急車改造候補として奈良線800820系奈良由来モ680形(旧奈良電デハボ1200形)・モ690形(旧奈良電デハボ1350形)が挙げられそれぞれについての改造コスト等についての検討実施された。その結果基本的に通勤車である前者異なり、元々特急・急行用固定クロスシート装備する2扉セミクロスシート車として設計・製造されており、より改造すべき点が少ないことなどを勘案して後者改造種車とされた。 この格上げ工事に際しては、大阪線特急車準じた設備とするため冷房化を含む大規模な改造実施されモ680形とモ690形→ク580形(2代目)による2両編成680系)が2本用意された。 また、運用数から検査予備車も1編成必要とされたが、種車となるモ690形は3両が在籍していたものの、モ680形は2両しか在籍しておらず1両不足するため、同型車で3編成揃えることができなかった。そのため、予備特急車については天理教本部沿線有する京都橿原線系統特殊性考慮して団体としての使用基本とする軽微な改造済まされることとなり、680系改造時に対象から外されたモ690形691と、本来はモ680形ペア組んで使用されていたセミクロスシート車であるク580形581582初代)種車とし、モ692電装解除捻出された機器をク581艤装することで3両編成683系)を組成した。 こうして改造施された2系列は、10100系以後特急車同様に塗装され前面には10100系貫通型先頭車から車体更新前の11400系や16000系までの近鉄特急車に設置されいたもの同一特急標識設置し京都 - 橿原神宮駅間および京都 - 近鉄奈良間の2系統特急車として運行開始された。

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