士分中禄格式の内、明治元年当時に給人格連綿未満の格式であった8家
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「士分中禄格式の内、明治元年当時に給人格連綿未満の格式であった8家」の解説
▲のある家臣は、幕府滅亡・大政奉還(慶応4年・明治元年)時点での家柄・格式は馬廻り格であるが、給人席以上の役職に、3代以上就任したことが確認できる。幕府滅亡・大政奉還のときに給人格以上の家柄・格式を、連綿していた家系ではない。 ここでの罪がありの表現には、末期養子を含めることにする。 木村氏については、重臣の家であったとの誤解が出ないように、同格の家より詳しい解説をつけた。 木村氏は、江戸時代に、民間で出版された刊本である江戸武鑑及び、これを基礎に近現代に編集された刊本に、凡例・注記が少ないため重臣であったことが、あるのではないかと、思わせるような紛らわしい記事がある。しかしよく読めば木村氏が、小諸藩や与板藩の家老職はおろか、用人・加判等の重臣であったとする記述はどこにもない。また木村氏には、重臣を勤めた履歴がなかったことが、各種一次史料からも、明らかに確認できる。木村氏の家柄・格式につき誤解が生じないようにする必要がある。小諸家臣・木村惣領家の家柄・格式は、維新・大政奉還の時点(1868年)で馬廻り格、元文4年(1739年)の時点は最下級士分の徒士、元禄期以前の与板在封期には、馬上を許されない下級士分であった。先祖が長岡以来の士分の家柄であっても小諸入封後に、重い懲戒処分を2度も受けていたため、維新時の持高は30石に過ぎなかった。また木村六左衛門を、本村六左衛門と誤記している一次史料も現存するが、本村氏は別に足軽に存在する。この本村氏は維新・大政奉還の時点では足軽であるが、屋敷持ちであったため士族に繰り上げとなった。 ▲山村氏(山村紀太任賢)その家祖は譜代大名に仕えた家老の庶子であったが、分家として分出された。しかし主君が卑しい者たちと、みだりに交際をしたとして改易となった。主家は、将軍家旗本に格下げで名跡再興となったが、形ばかりであったため、家臣団のほとんど全てが浪人。山村氏分家は藩主・牧野氏に再仕官がかなった。小諸惣士草高割成立時、持高67石で給人格連綿の家系であったが、幕末近く、罪があり持高減石・格式降格となった。罪の内容は、被害者としての側面が強い一方で、青年当主の傷病による早すぎる死と、その時の不手際と見られる。末期養子を招かず、隠居していた当主の父が、徒士として再勤して、幼い孫(紀太)の成長を待った。この家系は維新期までに馬廻り格(持高28石)・馬廻り役まで切り返した。 ▲中山氏(中山左橘貞教)先祖は豊前国小倉藩(15万石)小笠原家臣であったが、牧野家臣に転籍したのが起源。藩主康重の正室(小倉藩主・娘)が輿入れにあたって、これに随従したものとみられる。この家系は給人格84石を連綿していたが享保11年6月13日、時の当主が病気を苦に自殺したため改易・取り潰しとなる。しかし惣領に新知35石3人扶持が与えられて、新規召し出しとなる。名跡再興ではないのが特徴的。その後、段々と立身して給人席の役職(家の格式は馬廻り)に就任。小諸惣士草高割成立時の持高は34石。当家は新規召し出し以降は、馬廻り格の家柄であり、給人格連綿の家柄ではないが、幕末・維新期に2代に渡って用いられて持高以上の格式の役職に就任。計3代が給人相当以上の役職に就任。最後の当主は為政堂副幹事・権少参事(旧制度の奏者・取次相当)であった。明治3年後半ごろ格式昇格・持高50石となり、名実共に給人格連綿の家柄に復した。また足軽から維新後に繰り上げ士族となった中山姓もあるが本末関係は不詳。 ▲高橋氏(高橋七郎行照)前掲の高橋氏とは別家系。剣豪の家。剣士高橋鋼三郎を出した家系。小諸惣士草高割成立時、持高67石で給人格連綿の家系であったが、成立から数年後に罪があり、持高減石・格式降格(馬廻り格)。9代藩主による改革後の持高30石。 ▲小川氏(小川九十九成政)越後国の浪人の出自。士分だけでみれば惣領家のみ小川姓であるが、足軽から維新後に繰り上げ士族となった小川氏(小川文蔵・8俵取り・卒分下禄・屋敷持ち)との本末関係は不明。先祖は外様大名の重臣であったが、江戸時代初め主家が家中内訌で改易となり浪人。小藩とはいえ与板藩に上級家臣として再仕官がかなった。与板在封期は家老に次ぐ格式を持つ家系であったが貞享3年改易・取り潰し。同年、近親者をもって減石・格式降格の上、名跡再興。改易理由を具体的に書いた戦慄の一次史料が現存。惣領家は名跡再興が認められ、連綿する家の格式は大きく下げたが、小諸入封後に、上級家臣の役職に抜擢されたこともあり、やや格式を回復した(小諸惣士草高割 成立時の持高76石)。しかし、この家系は2度に渡る末期養子を出し、与板以来の馬上の家柄であったが、9代藩主による改革後の持高30石。馬廻り格。終(つい)には馬上を許されない格式となっていた。小河姓(士分中禄1家・士分下禄2家)の分家、連枝を持つ。 ▲小河氏(小河銑十郎直道)小川氏と先祖は同家(兄弟)。小河銑十郎直道(9代藩主による改革後の持高35石・馬廻り格)は、小諸家臣4名が斬首されたとき江戸藩邸にあり、真木力太則徳等と共に、太田氏出奔に協力。このため謹慎となったが、加藤・牧野求馬派失脚時復権。明治新政府(刑部省)から謹慎には及ばずとの命令を受けた。この小河氏から別家として出た家系の小河滋次郎は、民政委員制度の起源を創設したほか監獄学者として著名。実は上田藩奥医師金子宗元の2男として生まれ小河直行(士分下禄)の養子となった。小川(小河)氏は、与板在封期に、浪人者から兄弟で各々、新規採用となり弟家系は、小河を称した。小諸入封時の小河姓の士分は1家。その後、給人席以上の役職に就任することもあったほか、別家召し出し・新恩給付があり、1家が増えた(小河九兵衛家)。小河分家(九兵衛家)は、化成期以前から各種小諸藩文書に見え、下級士分を連綿していたが、9代藩主の治世に小河直忠が用いられて、持高50石・給人格連綿の家系となった。小河分家(九兵衛家)は、小川氏・小河氏の中で、亜流に過ぎなかったが、小川惣領家の失脚もあり、これらの家系の中でもっとも連綿する家の格式が高くなった。しかし小河分家(九兵衛家)の小河直方は、維新期に給人席以上の役職に2代であったため、士分中禄の要件を満たさず士分下禄となった。この小河分家(九兵衛家)の庶子で、小諸藩校明倫堂での成績が抜群で、槍の名手でもあり、文武両道に優れていたためか小河直行が、別家召し出し・新恩給付で、持高18石の徒士格として、士分に列することが許され、小河姓の士分は計3家となった。 ▲岡部氏(岡部正角正修)笠間藩からの転籍とみられるが、先祖の詳細は不明。小諸家臣としては3代しか足跡がないが、給人席以上の役職に3代が就任。士分下禄の別家を持つ。当然、小諸惣士草高割成立時には、岡部姓は存在しない。10代藩主の治世期、本家は馬廻り格で持高38石。別家は徒士格で持高18石。維新の時点で岡部姓の士分は2家。 ▲糸井氏(糸井勇丗徳)与板在封期の一次史料に、馬上を許されない糸井姓の家臣が見える。小諸惣士草高割成立時、馬上・持高67石で給人格連綿の家系であったが、その後、罪があり持高減石・格式降格。9代藩主による改革後の持高35石。給人席以上の役職に3代以上就任。他に足軽(使部)から、維新後に繰り上げ士族とならなかった糸井姓もあるが本末関係は不詳(屋敷持ち権利譲渡か?)。 ▲木村氏(木村六左衛門秀俊)(1)木村氏は長岡藩から随従した家臣であるが、本家・別家ともに与板在封期の家禄は26石で、馬上は許されなかった。26石という数字は持高ではなく全ての家禄である。(2)小諸入封後、木村六左衛門家の本家は減石され家禄は、わずか10石(持高か?)となり、長岡藩から随従した士分たる家臣としては、最下位の格式となっていたことは確実である。減石理由は不明であるが、罪を犯したか、末期養子となったか、あるいは当主が病身・幼少のいずれかで長期間出仕していなかったなどの理由が考えられる。微禄の下級士分として存続が許されていた木村六左衛門家の本家は、10石(持高か?)で出仕を続けていたが、元文4年11月25日、罪を犯して改易・取り潰しとなった 。まもなく名跡再興が許されて、再興初代は、出世して持高32石・中小姓まで班を進めた。再興2代目は2石減石され持高30石をもって、明和5年2月8日家督相続。班を進めて中小姓元〆となり、役職上の格式を給人席とした。歴代当主の精勤・有能が続き持高・家柄が格上げされ、小諸惣士草高割成立時までに持高56石となった。(3)この間、木村六左衛門家の庶子が別家召し出しを受けたと見られるが、この家系は当主(木村静左秀信)の不行跡・非行により改易・取り潰しとなった。不行跡・非行の内容を記述した一次史料が現存。(4)木村六左衛門家の本家は、文政6年、足高を得て勘定方で、その中間管理職に相当する元〆職となっていたが不祥事をおこして、処罰を受けた。役職及び足高取りあげ・持高は56石から30石 に約半減・格式降格・謹慎・閉門の懲戒処分を受けた。足高を失い格式降格は給人地の削減を意味するため、実収入を約3分の1に減らされたことになり、再び下級士分を連綿する家柄に戻った。懲戒処分を受けた文政6年から、明治3年に木村六左衛門秀俊が在職中の功労により、無役になるにあたって家柄・格式を給人格に格上げされるまで、下級士分の家柄・格式を連綿した。幕末・維新期に木村六左衛門秀俊は、持高30石・馬廻り格のままで用いられ、明治3年まで家柄・格式は下級士分で据え置きされる一方、1代限りではあるが、慣例上は、おおむね番頭格の家柄の者が就任する御城使・公用人の役職に抜擢された。幕末、京や江戸に赴任して、これを勤めあげた功労があり、時に持高30石・現米支給12石(加恩に相当)・2人扶が支給されていた(9代藩主改革前の持高30石・改革後の持高30石は増減なしのため実質加増)。なお公用人・御城使は加判の列・重臣の列ではない。木村六左衛門秀俊は、廃藩数か月前に隠居再勤となり20石の給付を受け、廃藩後には長野県にも出仕した。(5)与板在封期から存在していた木村六左衛門家の別家は寛保2年2月2日、当主自身の不行跡・非行により改易・取り潰しとなった。まもなく糸井氏の庶子を木村六左衛門家の養子とした後に、木村別家の名跡を継がせた。再興初代と 2代目は給人相当の役職に就任した。最高位は表給人兼大目付仮役(大目付代理)である。再興3代目は藩主内存(怒り)に触れて中小姓格の役職に格式降格。文化2年以降は最下級の士分である徒士格として存続した。中小姓格との記載がある時期もあるが、中小姓格が連綿する家の格式として制度的に存在していたかは不明。木村彦操秀敏は9代藩主に用いられて、馬廻り格の家柄ではないのに役職上は馬廻りに抜擢となり、士分下禄に列した。(6)またおおむね小諸入封期に、足軽から下級士分に格上げされた木村氏もあるが、格式のアップダウンが少なく他の木村氏とは異なり安定していた(小諸惣士草高割成立時持高21石・9代藩主の改革後の持高20石)。この家系は、木村六左衛門家と同族とみられるが維新期、士分下禄 に木村松甫秀道が列した。(7)このほか明治維新後に、足軽から繰り上げ士族となった木村氏2家(兄家系11俵取・弟家系10俵取・いずれも卒分中禄格式)がある。この2家は、微禄の足軽でありながら系図の伝わり状況が良いが、木村六左衛門家と同族であると認定できる状況証拠はない。(8)木村六左衛門家が家祖以来、下級士分・微禄の出自であることを念頭に置いても、長岡から随従した士分の身分を持つ他の小諸家臣と比較すると、木村氏の格式・持高が、大きく見劣りするのは、このような懲戒処分を受けた過去があったからである。大胡以来・長岡以来の家柄で、木村氏より格式の低い家も存在はしているが、これら家臣は、藩主が小諸に加増・入封までは、士分ではない家臣であるか、あるいは罪を犯し改易・取り潰し後に、名跡再興となった家が、ほとんどであった。ほかに木村六左衛門家とは異流とみられる木村姓の藩医と推察される下級士分が召し抱えられたことがあるが、長く連綿しなかった。 小諸藩の各種一次史料を読めば、木村氏が微禄・小身の出自であり、かつ重臣の役職に就任したことは、一度もなかったことは、明白である。江戸時代初期の家臣団名簿「大胡ヨリ長峰御引越御人数帳」(元和4年)にも木村姓が存在するが史料学的には、その末裔が小諸家臣となったと証明・推察できるだけのものは皆無である。長岡家臣に大胡以来が、ほぼ確実な木村姓の家臣が存在するが、馬上を許された中堅家臣(大組所属)である。特段の理由がなければ30石前後の分家の分出を、寛永・慶安前後に行うのは、本家の元本が少なく、厳しい状況にある。明治2年の版籍奉還の時点で士分たる木村姓の小諸家臣は3家が存在するが、もとは同家であること及び、長岡から藩主の分家に随従して 与板に移った長岡以来の家柄であることは、ほぼ確認できる。与板立藩時に、木村六左衛門家と、木村別家の2家は、士分として存在していた。木村別家は、木村六左衛門家の分家として分出されたものではなく、別家召し出し・新恩給付である。しかし大胡以来の長岡家臣木村氏と同家になることは確認できない。長岡藩・小諸藩の木村姓の家臣が、すべて牛久保もしくは大胡以来の同族であるとすれば、長岡入封時には中堅士分で1家しか存在しなかった長岡家臣木村氏が分家・別家を、その後に特別の事情がなく、多数持ったことになり極めて不自然である。長岡家臣木村氏は、庶子を含めて、大坂の陣で殊功があったとする記録がないほか、長岡家臣木村惣領家が上級家臣から、没落して中堅士分となったとす る記録もない。したがって上級家臣であったころに多数の分家・別家を出したということは、あり得ない。小諸家臣木村氏と、大胡以来の長岡家臣木村氏は、同姓であっても、木村姓は日本人に多い苗字であるので、完全な異流の可能性もある。その一方で大胡以来の長岡家臣木村氏と、小諸家臣木村氏の先祖が、同族ではなかったと断言できる史料も、存在していないこともまた事実である。
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