士分中禄格式の内、明治元年当時に給人格連綿以上の格式を持っていた18家とは? わかりやすく解説

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士分中禄格式の内、明治元年当時に給人格連綿以上の格式を持っていた(馬上資格を世襲で有する)18家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)

小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「士分中禄格式の内、明治元年当時給人連綿上の格式持っていた(馬上資格世襲有する18家」の解説

小諸藩中堅家臣である士分中禄格式26家をあげる。6階層の2番目である。士分中禄格式とは、原則として給人席以上の役職に、3代以上就任した家をいう。原則であるため例外いくつか存在する。 ここでの罪がありの表現には、末期養子含めることにする。 明治元年慶応4年時点に、馬廻り格の家柄で、給人席以上の役職3代以上、就任した家が8家あったので、これは別掲にまとめた。 牧野主馬美成は、おおむね維新の頃に、馬上資格世襲身分を、剥奪されている。 家老牧野八郎左衛門家と、その分家である家老牧野隼人進(勝兵衛)家から別れて士分中禄となった者はいない。 士分中禄格式牧野氏5家は、藩主側室または、お召し女に身分の低い女性寝所召し出して)産ませた庶子が、家臣取り扱いとなった家系である。 分家については、分家の分出(本家持高削減して分家作る場合と、別家召し出し新恩給付場合がある。 牧野氏5家(牧野主馬美成牧野一学守成牧野義成烈・牧野次郎正徳牧野小平太成屢)とする史料と、(牧野主馬美成牧野一学守成牧野馬成賢・牧野馬成省・牧野外巻正直)とする一次史料存在する詳細藩主一門家臣参照木俣氏2家(木俣逸馬成昌・木俣正忠)。家老木俣氏分家1家と、家老木俣氏家祖の弟が新知召し出しとなった別家1家。他に士分下禄に1家。維新時には士分上禄木俣氏含み4家の木俣姓の家臣があった。 高崎氏高崎冨禄教義小諸騒動で、高崎郁母教方は、加藤牧野馬派によって斬首されたため、近親者をもって名跡再興養子)。この家系給人連綿家系となり、小諸惣士草高成立時持高67石・9代藩主による改革後持高50であったが、9代藩主治世に、さらに班を進めた小諸市誌によると、高崎富禄は、高崎郁母教方が斬首の時、江戸留学中であったという。ほかに近親者持って名跡再興との記述もあるとすれば斬首執行前から養親子関係があったことになる。のちに高崎冨禄は、東京大学南校進学し拡大解釈すれば小諸出身東京大学学生第1号となったともいえる。 太田氏太田早苗道喜)用人格から家老家柄となった太田氏の兄を家祖とする別家詳細有力な新興家臣太田氏参照2代目佐々木氏から養子入りした。 天野氏天野藤吉郎氏義)譜代大名家臣であった藩主乱心主家領地大幅削減となり将軍家旗本格下げこれに伴い浪人となった先祖を持つ。その惣領小諸藩仕官かなった採用初代馬上大目付まで立身した小諸藩明倫堂経営にも参加高齢になって惜しまれ隠居が、なかなか許されなかった。給人連綿家柄となる。幕末・維新期天野藤吉郎氏義は、小諸藩主一門家臣牧野氏庶子であった婿養子となり、小諸藩明倫堂漢文教師となった天野藤吉郎氏義の養父(妻の実父)にあたる天野源太氏翼(隠居名は良翁)は、有数酒豪であった小諸惣士草高成立時持高67石・9代藩主による改革後持高50石。 西岡氏(西岡縑信彰)通称は謙ではなく縑が正しい。与板以来馬上家柄であり、小諸入封後に、奏者連綿まで進んだとみられるが、罪があり持高減石格式降格で、持高67石・給人連綿となる。9代藩主による改革後持高60石(給人格)。初代小諸戸町初代小諸町となった西岡信義士分下禄・10代藩主治世に班を進めて持高50石・給人格)は別家である。維新時点西岡姓の士分は2家。 室賀氏(室賀太郎定志)小諸惣士草高成立時連綿する家柄格式馬廻り格(持高62石)。その後、班を進めて馬上認められ給人連綿家柄となり、かつ給人席以上の役職3代以上、就任した履歴を持つ。9代藩主による改革後持高50石(給人格)。持高削減する政策がとられているため、持高62石から持高50石に推移は、昇格意味する。他に士分下禄の別家が1家(持高18石・徒士格)がある。維新時点で室賀姓の士分は2家。信濃室賀氏には、武田信玄圧力で、越後移った族と、武田氏屈服・あるいは、協力して戦国末期信濃根を張り武田氏滅亡後は、国人領主として、小県郡上田など)の覇権を、真田氏争った族がある。小諸家臣室賀氏は、越後国浪人者から、藩主牧野氏仕官した伊藤氏伊藤唯七義道)足軽から維新後繰り上げ士族となった伊藤姓(伊東10俵)もあるが本末関係不詳小諸惣士草高成立時持高74石・馬上・給人連綿。9代藩主による改革後持高50石。 井出氏井出彦左衛門正路与板在封期に仕官馬上許されない士分であったが、小諸入封後に班を進めた小諸惣士草高成立時連綿する家柄格式馬廻りであったとみられるが、その後、班を進めて馬上認められ給人連綿家柄となり、かつ給人席以上の役職3代以上、就任した履歴を持つ。9代藩主による改革後持高50石。他に士分下禄の別家が1家ある(9代藩主による改革後持高23石・中小姓格)。維新時点井出姓の士分は2家。井出姓は信濃国佐久地方に多い苗字であるが、小諸家臣井出氏は、越後国古志郡与板藩主牧野氏仕官かなったもので、小諸入封後に、地元近隣の有力郷士大百姓酒屋井出氏あるいは、その一族仕官したものではないので、注意要する。ただし、室町戦国期以前まで遡れば、その遠祖は、同一であるかについては、否定できない。 ◎今枝氏今枝弥八師善)三河牛久保以来古参与板以来馬上家柄元禄期に当主切腹しと見られる記事がある。改易取り潰しはならず減石格式降格存続認められ給人連綿家柄となった小諸惣士草高成立時持高67石。9代藩主による改革後持高50石。今枝園は、長沼勝和の次男であったが、長沼氏より格上当家養子入り婿入り)。9代藩主近習役を勤めて小諸藩明倫堂在職43年におよび、(司成ではなく司業頭取となった小諸市誌には、掲載がないが小諸諸士分限帳などの一次史料によると、今枝園は、その現役時代多くは、今枝九郎右衛門師聖と名乗っていたことがわかる。持高50石に籾米16俵4斗(計66俵4斗)を受けて明倫堂勤務していた。このことから、司業役高推察できる維新期に今枝園が子息の代となっていたが、明倫堂学監勤めていた。学監現在の生徒指導部長・風紀係に相当)は、明倫堂における第3席の役職である。 角田氏(角田平蔵勝威)小諸惣士草高成立時連綿する家柄格式馬廻りであったとみられるが、その後、班を進めて馬上認められ給人連綿家柄となり、かつ給人席以上の役職3代以上、就任した履歴を持つ。9代藩主による改革後持高50石。維新期に大抜擢を受け、大参事となった角田貞幹義勝士分下禄・持高18石・徒士格。初名良之進)は別家である。維新時点角田姓の士分は2家。角田義勝大政奉還後ではあるが、小諸藩史上出世記録持ち主であり、牧野隼人成聖の姪を正室迎えた。すなわち徒士格の家柄から、加判クラス役職就任したものは、角田氏以外には存在しない。また角田貞幹義勝は、廃藩時における残務処理、及び在所における新政府との引き継ぎ事務実質的責任者角田貞幹義勝の子孫の協力により、角田文書公刊されている。この中には、廃藩置県のときに廃棄されていたとしても、おかしくない多数小諸藩一次史料収載されている。 隈部氏(隈部潔彦忠良熊部とも書くことがある。小諸惣士草高成立時連綿する家柄格式馬廻りであったとみられるが、その後、班を進めて馬上認められ給人連綿家柄となり、かつ給人席以上の役職3代以上、就任した履歴を持つ。9代藩主による改革後持高50石。天保以降から幕末近くの期間に別家召し出しとなった士分下禄2家(持高18石・同16石、いずれも徒士格)がある。維新時点で隈部姓の士分は3家。小諸市誌によると隈部は、慶長3年廃藩となった大分県隈部城主の末裔としているが、史実としてあり得ない記述である。隈府城隈部城は、肥後熊本県)に存在するが、大分県には、存在しない。また隈府城隈部城落城(あるいは廃城)したのは、慶長3年ではない。隈部氏は、南朝の忠臣である菊池氏三家といわれるが、隈府城滅亡後に、肥後国人一揆参加して本流皆殺しにされたといわれる。この隈部氏と、小諸家臣隈部氏結びつける一次史料は、存在しない詳細隈部氏隈部館佐々成政参照のこと)。大正15年1926年)に隈部親信小諸町長が小諸町大公園設計発案本多静六博士基礎調査依頼をし、 本多博士池辺武人助手により『小諸公園懐古園設計案』が提出される。 その計画を基に小諸町は4か年計画3万円余を投 じて約6坪の公園整備実施決定。ここで、廃藩置県後はじめて小諸城整備地方公共団体公金支出され、現在にまでの懐古園敷地範囲決定し一部敷地公有化実施されることとなった引用元小諸市教育委員会山東丈洋著 平成28年度 遺跡整備活用研究集会報告書) 。 高橋氏高橋矢柄綱正)明治3年史料では士分下禄。小諸惣士草高成立時持高67石で給人連綿家系であったが、その後、罪があり持高減石格式降格持高55石・馬廻り格)。9代藩主による改革後持高50石(給人格)。

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