士分中禄格式の内、明治元年当時に給人格連綿以上の格式を持っていた(馬上資格を世襲で有する)18家
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「士分中禄格式の内、明治元年当時に給人格連綿以上の格式を持っていた(馬上資格を世襲で有する)18家」の解説
小諸藩の中堅家臣である士分中禄格式の26家をあげる。6階層の2番目である。士分中禄格式とは、原則として給人席以上の役職に、3代以上就任した家をいう。原則であるため例外がいくつか存在する。 ここでの罪がありの表現には、末期養子を含めることにする。 明治元年・慶応4年の時点に、馬廻り格の家柄で、給人席以上の役職に3代以上、就任した家が8家あったので、これは別掲にまとめた。 牧野主馬美成は、おおむね維新の頃に、馬上資格世襲の身分を、剥奪されている。 家老牧野八郎左衛門家と、その分家である家老牧野隼人進(勝兵衛)家から別れて士分中禄となった者はいない。 士分中禄格式の牧野氏5家は、藩主が側室または、お召し女に(身分の低い女性を寝所に召し出して)産ませた庶子が、家臣取り扱いとなった家系である。 分家については、分家の分出(本家の持高を削減して分家を作る)場合と、別家召し出し新恩給付の場合がある。 牧野氏5家(牧野主馬美成・牧野一学守成・牧野見義成烈・牧野次郎正徳・牧野小平太成屢)とする史料と、(牧野主馬美成・牧野一学守成・牧野求馬成賢・牧野勇馬成省・牧野外巻正直)とする一次史料が存在する。詳細は藩主一門の家臣を参照。 木俣氏2家(木俣逸馬成昌・木俣本蔵正忠)。家老木俣氏の分家1家と、家老木俣氏の家祖の弟が新知召し出しとなった別家1家。他に士分下禄に1家。維新時には、士分上禄の木俣氏を含み4家の木俣姓の家臣があった。 高崎氏(高崎冨禄教義)小諸騒動で、高崎郁母教方は、加藤・牧野求馬派によって斬首されたため、近親者をもって名跡再興(養子)。この家系は給人格連綿の家系となり、小諸惣士草高割成立時の持高67石・9代藩主による改革後の持高50石であったが、9代藩主の治世に、さらに班を進めた。小諸市誌によると、高崎富禄は、高崎郁母教方が斬首の時、江戸に留学中であったという。ほかに近親者を持って名跡再興との記述もあるとすれば、斬首執行前から養親子関係があったことになる。のちに高崎冨禄は、東京の大学南校に進学し、拡大解釈すれば、小諸出身の東京大学・学生第1号となったともいえる。 太田氏(太田早苗道喜)用人格から家老の家柄となった太田氏の兄を家祖とする別家。詳細は有力な新興家臣・太田氏を参照。2代目は佐々木氏から養子入りした。 天野氏(天野藤吉郎氏義)譜代大名の家臣であったが藩主乱心。主家が領地大幅削減となり将軍家旗本に格下げ。これに伴い浪人となった先祖を持つ。その惣領が小諸藩に仕官がかなった。採用初代で馬上・大目付まで立身した。小諸藩校明倫堂の経営にも参加。高齢になっても惜しまれて隠居が、なかなか許されなかった。給人格連綿の家柄となる。幕末・維新期の天野藤吉郎氏義は、小諸藩主一門の家臣・牧野氏庶子であったが婿養子となり、小諸藩校明倫堂の漢文教師となった。天野藤吉郎氏義の養父(妻の実父)にあたる天野喜源太氏翼(隠居名は良翁)は、有数の酒豪であった。小諸惣士草高割成立時の持高67石・9代藩主による改革後の持高50石。 西岡氏(西岡縑信彰)通称は謙ではなく縑が正しい。与板以来の馬上の家柄であり、小諸入封後に、奏者格連綿まで進んだとみられるが、罪があり持高減石・格式降格で、持高67石・給人格連綿となる。9代藩主による改革後の持高60石(給人格)。初代小諸戸町、初代小諸町長となった西岡信義(士分下禄・10代藩主の治世に班を進めて持高50石・給人格)は別家である。維新の時点で西岡姓の士分は2家。 室賀氏(室賀太郎定志)小諸惣士草高割成立時、連綿する家柄・格式が馬廻り格(持高62石)。その後、班を進めて馬上が認められ給人格連綿の家柄となり、かつ給人席以上の役職に3代以上、就任した履歴を持つ。9代藩主による改革後の持高50石(給人格)。持高を削減する政策がとられているため、持高62石から持高50石に推移は、昇格を意味する。他に士分下禄の別家が1家(持高18石・徒士格)がある。維新の時点で室賀姓の士分は2家。信濃室賀氏には、武田信玄の圧力で、越後に移った族と、武田氏に屈服・あるいは、協力して戦国末期に信濃に根を張り、武田氏滅亡後は、国人領主として、小県郡(上田など)の覇権を、真田氏と争った族がある。小諸家臣室賀氏は、越後国の浪人者から、藩主・牧野氏に仕官した。 伊藤氏(伊藤唯七義道)足軽から維新後に繰り上げ士族となった伊藤姓(伊東姓10俵)もあるが本末関係は不詳。小諸惣士草高割成立時の持高74石・馬上・給人格連綿。9代藩主による改革後の持高50石。 井出氏(井出彦左衛門正路)与板在封期に仕官。馬上を許されない士分であったが、小諸入封後に班を進めた。小諸惣士草高割成立時、連綿する家柄・格式が馬廻り格であったとみられるが、その後、班を進めて馬上が認められ給人格連綿の家柄となり、かつ給人席以上の役職に3代以上、就任した履歴を持つ。9代藩主による改革後の持高50石。他に士分下禄の別家が1家ある(9代藩主による改革後の持高23石・中小姓格)。維新の時点で井出姓の士分は2家。井出姓は信濃国佐久地方に多い苗字であるが、小諸家臣井出氏は、越後国古志郡与板で藩主・牧野氏に仕官がかなったもので、小諸入封後に、地元や近隣の有力郷士・大百姓・酒屋の井出氏あるいは、その一族が仕官したものではないので、注意を要する。ただし、室町・戦国期以前まで遡れば、その遠祖は、同一であるかについては、否定はできない。 ◎今枝氏(今枝弥八師善)三河牛久保以来の古参。与板以来、馬上の家柄。元禄期に当主が切腹したと見られる記事がある。改易・取り潰しとはならずに減石・格式降格で存続が認められ給人格連綿の家柄となった。小諸惣士草高割成立時の持高は67石。9代藩主による改革後の持高50石。今枝栗園は、長沼勝和の次男であったが、長沼氏より格上の当家に養子入り(婿入り)。9代藩主の近習役を勤めて、小諸藩校明倫堂在職43年におよび、(司成ではなく)司業・頭取となった。小諸市誌には、掲載がないが小諸諸士分限帳などの一次史料によると、今枝栗園は、その現役時代の多くは、今枝九郎右衛門師聖と名乗っていたことがわかる。持高50石に籾米16俵4斗(計66俵4斗)を受けて、明倫堂に勤務していた。このことから、司業の役高も推察できる。維新期には今枝栗園が子息の代となっていたが、明倫堂の学監を勤めていた。学監(現在の生徒指導部長・風紀係に相当)は、明倫堂における第3席の役職である。 角田氏(角田平蔵勝威)小諸惣士草高割成立時、連綿する家柄・格式が馬廻り格であったとみられるが、その後、班を進めて馬上が認められ給人格連綿の家柄となり、かつ給人席以上の役職に3代以上、就任した履歴を持つ。9代藩主による改革後の持高50石。維新期に大抜擢を受け、権大参事となった角田貞幹義勝(士分下禄・持高18石・徒士格。初名良之進)は別家である。維新の時点で角田姓の士分は2家。角田義勝は大政奉還後ではあるが、小諸藩政史上、出世の記録の持ち主であり、牧野隼人進成聖の姪を正室に迎えた。すなわち徒士格の家柄から、加判クラスの役職に就任したものは、角田氏以外には存在しない。また角田貞幹義勝は、廃藩時における残務処理、及び在所における新政府との引き継ぎ事務の実質的責任者。角田貞幹義勝の子孫の協力により、角田家文書が公刊されている。この中には、廃藩置県のときに廃棄されていたとしても、おかしくない多数の小諸藩一次史料が収載されている。 隈部氏(隈部潔彦忠良)熊部とも書くことがある。小諸惣士草高割成立時、連綿する家柄・格式が馬廻り格であったとみられるが、その後、班を進めて馬上が認められ給人格連綿の家柄となり、かつ給人席以上の役職に3代以上、就任した履歴を持つ。9代藩主による改革後の持高50石。天保期以降から幕末近くの期間に別家召し出しとなった士分下禄2家(持高18石・同16石、いずれも徒士格)がある。維新の時点で隈部姓の士分は3家。小諸市誌によると隈部は、慶長3年廃藩となった大分県・隈部城主の末裔としているが、史実としてあり得ない記述である。隈府城と隈部城は、肥後(熊本県)に存在するが、大分県には、存在しない。また隈府城・隈部城が落城(あるいは廃城)したのは、慶長3年ではない。隈部氏は、南朝の忠臣である菊池氏の三家老といわれるが、隈府城の滅亡後に、肥後国人一揆に参加して、本流は皆殺しにされたといわれる。この隈部氏と、小諸家臣・隈部氏を結びつける一次史料は、存在しない(詳細は隈部氏・隈部館・佐々成政を参照のこと)。大正15年(1926年)に隈部親信小諸町長が小諸町大公園設計を発案、本多静六博士に基礎調査依頼をし、 本多博士、池辺武人助手により『小諸公園(懐古園) 設計案』が提出される。 その計画を基に小諸町は4か年計画3万円余を投 じて約6万坪の公園整備の実施を決定。ここで、廃藩置県後はじめて小諸城跡整備に地方公共団体の公金が支出され、現在にまでの懐古園の敷地範囲が決定し、一部敷地の公有化が実施されることとなった(引用元、小諸市教育委員会山東丈洋著 平成28年度 遺跡整備・活用研究集会報告書) 。 高橋氏(高橋矢柄綱正)明治3年の史料では士分下禄。小諸惣士草高割成立時、持高67石で給人格連綿の家系であったが、その後、罪があり持高減石・格式降格(持高55石・馬廻り格)。9代藩主による改革後の持高50石(給人格)。
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