フス戦争とフス派王(15世紀)
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「ボヘミア王国」の記事における「フス戦争とフス派王(15世紀)」の解説
「フス派」および「フス戦争」も参照 1402年から1485年にかけてのフス派の活動は、宗教改革運動に留まらないチェコ民族運動の走りでもあった。ボヘミア宗教改革と呼ばれる一連の宗教改革運動は、教皇の権威に挑戦し、ボヘミア地域の教会の独立を試みるものだった。フス派と帝国・教皇の間でフス戦争が勃発、フス派は4度にわたってフス派十字軍を撃退し、後のプロテスタントの走りとみなされている。十字軍兵士の多くがドイツ人であったことから、フス派はチェコのナショナリズムの始まりとみなされることがある。ただし、十字軍には多くのハンガリー人やチェコ人カトリック教徒も参加していた。現代のチェコ史学上では、フス派は反帝国、反ドイツ運動の端緒という地位を与えられ、さらには長期的なチェコ・ドイツ民族対立の一部とみなされることすらある。 フス派はヴァーツラフ4世の治世下で勃興した。この頃カトリック教会は大シスマ状態にあって教皇の権威が著しく減退しており、帝国でも皇帝の失政のために秩序が失われていた。1403年にプラハ・カレル大学の教授となったヤン・フスは、イングランドのジョン・ウィクリフの反教皇・反ヒエラルキー主義(ロラード派)に共鳴し、教会改革を求める説教師として活躍するようになった。フスは富、汚職、カトリック教会のヒエラルキーを否定し、ウィクリフの教義に従って聖職者に清貧を求めるとともに、聖餐において平信徒もパンとワイン両方を受ける二種聖餐を提唱した。またフスは聖書をチェコ語に翻訳し、チェコ語はギリシア語、英語に次いで、現代も一般に話されている言語の中では3番目に聖書の全文翻訳がなされた言語となった。 ドイツ人の神学教授たちはフスにウィクリフ批判を強要したが、フスは大学内のチェコ人派閥の後押しを受けてこれを拒絶した。大学の方針を定める評議会はドイツ人3票に対してチェコ人は1票しかもっていなかったためチェコ人派閥は敗れ[要出典]、プラハ・カレル大学は正統カトリックを軸とし続けることになった。その後数年間にわたり、地元民であるチェコ人は自分たちの権利を拡大するよう大学憲章の改訂を要求した。ヴァーツラフ4世がこの論争に対し曖昧な態度をとったこともあり、対立は激化する一方だった。当初彼はドイツ人を要職につけようとしてチェコ人貴族の反感を買い、逆にフスの後援者を増やしてしまった。ドイツ人派閥は、プラハ大司教ズビニェク・ザイーツや、国内のドイツ人聖職者の支持を得ていた。しかし政治的に追い詰められたヴァーツラフ4世は、変心してドイツ派からチェコ派に鞍替えし、今度は宗教改革派と手を組んだ。1409年1月18日、ヴァーツラフ4世はクトナー・ホラ勅令を発し、大学内のチェコ人に3票の投票権を与え、他の国民は1票と改めた。これによりフスは大学の主導権を握り、対してドイツ人の教授や生徒数千人がプラハ・カレル大学を離れ、彼らの多くはマイセン辺境伯フリードリヒ4世を頼ってライプツィヒ大学を創立した。 大学内の闘争に勝利したフスだったが、カトリック教会の贖宥状販売を批判したことで、売り上げの一部を受け取っていた王の支持を失った。教皇庁はプラハの聖務停止を宣告して圧力をかけ、結果として1412年、フスと支持者たちは、大学の職を解かれプラハからも追放された。その後約2年の間、フスは巡回説教師としてボヘミア中をまわり、自身の改革教義を広めていった。1414年、フスはコンスタンツ公会議に召還され、到着後すぐに投獄された。彼は自説を曲げないまま異端宣告を受け、生命を保証されていたにもかかわらず1415年7月6日に火刑に処された。現在、この日はチェコ共和国の祝日となっている。 フスの処刑により、数十年に及ぶフス戦争が勃発した。1419年に説教師ヤン・ジェリフスキー率いるフス派市民が第一次プラハ窓外投擲事件を起こし、ドイツ人市長と評議員を殺害した。その報を受けたヴァーツラフ4世は卒倒、半月後に死んでしまった。その後を継いでボヘミア王に即位した弟のジクムント(ハンガリー王ジグモンド、後に神聖ローマ皇帝ジギスムント)は、コンスタンツ公会議の際にハンガリー王としてフスの処刑を主導した人物だった。しかしジクムントはハンガリー人とドイツ人の軍を率いていながら、ボヘミア王国での支配確立に失敗した。プラハでは暴動が起き、南部では傭兵隊長ヤン・ジシュカが蜂起した。宗教闘争は瞬く間にボヘミア全土に広まり、特にドイツ人が支配していた諸都市では激しい抗争が起きた。フス派のチェコ人とカトリックのドイツ人は互いに虐殺しあい、敗れたドイツ人たちはボヘミア以外の神聖ローマ帝国領に逃れた。ジクムントはボヘミアやドイツ、ハンガリーのカトリック教徒を率いて何度もフス派十字軍を組織したが、ヤン・ジシュカは農民や傭兵を主体とする少数の軍勢にウォーワゴンで騎士の突撃を止め、銃火器で殺害する戦術を導入し、何度も皇帝や有力諸侯の軍を撃破した。 この頃既に、フス派内では次々と分派が誕生していた。ウトラキスト(両形式主義者)を名乗り、カトリック教会との妥協も視野に入れるボヘミア貴族ら穏健派がある一方で、南ボヘミアの要害にターボル市を建設してターボル派と名乗った過激派は、教会を完全に否定し、聖書を唯一の宗教権威とした。ヤン・ジシュカはターボル派の軍事指導者だった。フス戦争では、同じような構図の流れが繰り返された。まずジクムントらが十字軍をボヘミアに侵攻させると、フス派は穏健派と過激派が手を結び、共同して十字軍を撃退する。しかしひとたび脅威が去れば、フス派軍はカトリック教徒の地域に繰り出して略奪と虐殺を繰り広げた。多くの歴史家たちは、フス派を狂信者として描いている。一方で、彼らはフス派の権利や存在そのものを否定する王や教皇と戦い、自らの土地を死守するナショナリストの萌芽ともいえる顔も持っていた。ジシュカは途中でオレープ派を結成してターボル派と距離をとりつつ、カトリック軍と戦いながら城塞や修道院、村を襲い、カトリックの聖職者を追い出して教会領を接収するとともに、カトリック教徒のフス派への改宗を進めていった。しかし彼は1424年に黒死病に倒れ、ターボル派の大プロコプと小プロコプが跡を継ぎ、積極的にドイツに侵攻して勢力を拡大した。 一方で1433年、ウトラキストはバーゼル公会議に代表団を派遣し、カトリック教会との和解を図った。1434年、カトリック軍とウトラキスト軍は共同して過激派を攻撃し、リパニの戦いで大小プロコプを討ち取って過激派のフス派軍を壊滅させた。1436年バーゼルの誓約が締結され、フス派説教の自由、二種聖餐、聖職者の不正排除、各階級による裁判と処罰といったプラハ四か条で示されたフス派の基本事項がすべてカトリック教会に認められた。しかし教皇エウゲニウス4世がバーゼルの誓約の承認を拒否したため、ボヘミアのカトリックとウトラキストの間には溝が残った。ウトラキストがボヘミアの政権を握ったことで、都市からはドイツ人の裕福な市民が姿を消した。聖職者はその信条にかかわらず財産を貴族や都市に没収され、影響力が弱まった。 ジクムントと戦う過程で、ターボル派はボヘミア王国の領域を飛び出し、モラヴィア、シレジア、ルーサティア、さらには現在のスロバキアにあたる上ハンガリーにも進出した。リパニの戦いの後、カトリック軍に追われたチェコ人宗教難民が大勢ここに流れ込み、1438年から1453年にかけてフス派の残党であるチェコ人貴族ヤン・イスクラが南スロバキアからゾーヨン(現ズヴォレン)、カッサ(現コシツェ)に至る地域を支配した。フス派の軍事的影響とチェコ語聖書の普及は、後のスロバキアとチェコの強い繋がりの端緒となった。また一時期ポーランド王ヴワディスワフ2世の援助を受けていた関係でポーランド軍にもフス派が参加しており、彼らはバルト海にまで到達した。 1437年にジクムントが死去すると、ボヘミアの諸階級はその遺志に沿ってハプスブルク家のアルブレヒト(オーストリア公アルブレヒト5世、神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世)をボヘミア王とした。その死後は遺児ラジスラフ・ポフロベク(ラディスラウス・ポストゥムス)が跡を継いだが、幼少だったためウトラキストの流れをくむ改革派貴族が摂政となった。しかし貴族の中にはカトリックに留まり教皇に忠誠を誓う者も残っており、内紛が絶えなかった。 ラジスラフ・ポフロベクはオーストリアで後見人フリードリヒ(後のオーストリア大公フリードリヒ5世、皇帝フリードリヒ3世)に幽閉されており、ボヘミアでは1452年以降、穏健フス派の指導者イジー・ス・ポジェブラトが摂政として政権を握った。彼は同じウトラキストのヤン・ロキツァナをプラハ大司教として、さらに過激派のターボル派の残党をチェコ改革教会に取り込むことに成功した。カトリック派はプラハを追い出された。1457年にラジスラフ・ポフロベクが白血病で死去すると、ハンガリー議会はマーチャーシュ1世(ボヘミア名マティアス1世・コルヴィン)をハンガリー王に、ボヘミア諸階級はイジーをボヘミア王に選出した。彼は大貴族ではあったが王家の血筋ではなく、この国王選出は教皇や他の王侯に承認されなかった。 異端の烙印を押されてヨーロッパ・カトリック世界の中で孤立していたイジーは、ヨーロッパのキリスト教諸国が巨大な連合体を形成し、抗争を止めるとともに団結してオスマン帝国に対抗するという壮大な構想を立てた。その中では各邦が1票を握り、フランスが主導的な立場につくとされており、教皇には特別な地位を与えなかった。[要出典]イジーは1464年から1467年にかけて各国宮廷をめぐり自らの構想を訴えたが、失敗に終わった。 1465年、カトリックのボヘミア貴族はゼレナー・ホラ同盟を結び、イジーへの抵抗を表した。翌年、教皇パウルス2世はイジーを破門し、ボヘミア臣民のイジーへの服従義務を解いた。これを受けて1468年にボヘミア戦争が勃発し、ハンガリー王マーチャーシュ1世や神聖ローマ皇帝となっていたオーストリア大公フリードリヒ3世の侵攻を受けた。イジーはマーチャーシュ1世にモラヴィアの大部分を奪われたが、周囲の反対を押し切り1470年に和平を結び、ヤギェウォ朝の王子を後継に定めて翌1471年に没した。
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