トライチュケ・グレーツ・モムゼン論争
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「反ユダヤ主義」の記事における「トライチュケ・グレーツ・モムゼン論争」の解説
ルター派の歴史学者で国民自由党議員のハインリヒ・フォン・トライチュケは、1879年に発表した論文「われらの展望」で、ユダヤ人は株式相場や出版界を支配するが、ユダヤ人とゲルマン的人間との間には深い溝があり「ユダヤ人こそわれらが不幸」であり、寛容な最良のドイツ人でも心の奥底ではこうした見解を共有していると論じた。「ユダヤ人は我々の不幸だ」というフレーズはナチス時代にもよく引き合いに出された。 この論文の背景にはユダヤ教徒の歴史家ハインリヒ・グレーツの存在があった。シオニズムに近いユダヤ民族主義者だったグレーツは大著『ユダヤ人の歴史』でキリスト教を「宿敵」「不倶戴天の敵」と明確に敵視し、ユダヤ人のキリスト教への改宗を「裏切り者」として厳しく批判した。グレーツは新約聖書をタルムードを使って読み直し、ユダヤ教とキリスト教の亀裂を拡大した。グレーツによれば、イエスは神の子だと主張したために告発されたのであり、福音書はメシアの出現を後知恵で証明しようとした物語にすぎないと批判した。また、タルムードでイエスはヨセフ・パンデラと処女ミリアムとの不倫の子であり、ユダヤ共同体から追われて神の名を用いて奇跡の力を学んだがラビ団のユダに打ち負かされて死刑となったとされるが、グレーツはこれも作り話としてイエスはユダヤ教エッセネ派であるとした。 トライチュケはグレーツの本はキリスト教に対する狂信的な怒り、ゲルマン人への憎悪であると批判した。トライチュケはユダヤ人の同化と改宗による編入を希求したが、改宗を拒否したグレーツに対して「わが(ドイツ)民族を理解することも、また理解しようともしないオリエント人」と非難した。トライチュケは人種主義者ではなかったが、ポーランドから流入する東欧ユダヤ人はいつかドイツの新聞と株式を支配するだろうと警告した。実際、ポーランド(ポーゼン)からの東欧ユダヤ人には、『ベルリナー・ターゲブラット』紙社長・新聞広告業でモッセ・コンツェルンを築いたルドルフ・モッセ(弟アドルフは日本の憲法起草に携わった)、国民自由党指導者エドゥアルト・ラスカー、経済学者アルトゥール・ルッピン、ゲルショム・ショーレムの曽祖父がおり、そして歴史家グレーツがいた。 歴史家テオドール・モムゼンはトライチュケによって反ユダヤ主義は品行方正なものとなったが、反ユダヤ主義は国民感情の堕胎であり、狂信的愛国主義であると評した。モムゼンは『ローマの歴史』などでユダヤ人は歴史を動かす酵母であり、ユダヤ人が諸部族を解体したことでローマ帝国の建設に貢献したと評価し、またテオドール・フリチュやチェンバレンらのユダヤ人を国民集団の破壊者とする反ユダヤ主義に対しては国民感情の妖怪として批判した。しかし、そのモムゼンも、キリスト教は文明人同士をつなぐ唯一の絆であり、ユダヤ人にキリスト教への改宗を執拗なまでにすすめ、トライチュケと同じようにユダヤ人のドイツへの融合(同化)を願った。モムゼンは、ユダヤ人がドイツ人に同化するには犠牲を払う必要があり、ドイツ文化に友好的に参加すべきであるし、公民の義務を果たし、ユダヤ人の特殊な作法を廃すべきであるとした。モムゼンもユダヤ民族主義者のグレーツを支持したわけではなく、モムゼンはグレーツについて文芸界の隅っこにいる「タルムード学史の編纂屋」にすぎず、ローマ帝国にいたユダヤ人歴史家ヨセフスや哲学者フィロンとは比較にならないほど小さな存在であるのに、なぜそんな相手に論争を挑むのか、とトライチュケを戒めた。モムゼンはトライチュケと同じく国民自由党に所属していたが、トライチュケがビスマルクを支持した一方で、モムゼンはビスマルクを国民統合の破壊者とした。また、モムゼンはリベラル・プロテスタントの「反ユダヤ主義防衛連合」を創立したが、同連合はユダヤ民族主義(シオニズム)に不快感を表明し「ユダヤ信仰のドイツ国家市民中央連合」を創設してシオニズムに対抗した。反ユダヤ主義防衛連合のアルプレヒト・ウェーバーは、ユダヤ人にも反ユダヤ主義についての責任があるとして、同化を拒否するユダヤ人を批判した。シオニストのヘルツルは、反ユダヤ主義を批判しながらユダヤ人に同化をすすめる反ユダヤ主義防衛連合に対して、自尊感情を持って最後の避難所を見つけようとしているユダヤ人を貶めようとしていると批判した。 トライチュケの論文に対するユダヤ人知識人の反応は、ユダヤ人はすでに同化しておりドイツへの愛国心を保有しているというものが多く、同化を拒否するグレーツはヘルツルのシオニズムが登場するまでは例外であった。新カント派のユダヤ系哲学者ヘルマン・コーエンはユダヤ教を信奉しながらも同化を勧め、ユダヤ人は皆ドイツ人の容貌を備えていたらどれほど幸せであっただろうと常常感じていると主張した。ユダヤ人の平等を訴えてきた自由主義者のユダヤ人ベルトルト・アウエルバッハは晩年にキリスト教社会党のシュテッカーやドイツ保守党のハンマーシュテインによるユダヤ人批判に対して「私はドイツ人であり、ドイツ人以外の何ものでもなく、生涯全体を通してもっぱらドイツ人であると感じてきた」「消え失せろ、ユダヤ人、おまえはわれわれとは何の関係もない」と手紙に書いた。 1880年代ドイツのその他の思想 ベルリンでは1880年から1881年にかけて、暴徒がユダヤ人を襲撃したり、ユダヤ人商店やシナゴーグに放火するという暴動が続いた。19世紀末ドイツの反ユダヤ主義を広めたのは学校教員、学生、公務員、事務員、レーベンスレフォルム(Lebensreform 生活改革運動)、菜食主義者、生体解剖反対論者、裸体運動や自然復帰主義のナチュリストなどの都会人であり、田舎の農民や貴族の大地主や聖職者ではなかった。裸体運動では、ゲルマン人種と、ロマンス人種・スラヴ人種・ユダヤ入種との婚姻が禁止された。 反ユダヤ主義が高まるなか哲学者ニーチェはユダヤ人に対して繰り返し称賛と感謝を表明し、反ユダヤ主義者を「絶叫者ども」と批判した。ただし、ニーチェは若い頃には反ユダヤ的な偏見を持っており、ワーグナーへの手紙ではドイツの豊かな世界観が「哲学上の狼藉や押しの強いユダヤ気質」によって消え去ったと嘆いたこともあったし、東欧ユダヤ人のドイツ流入には後年でも反対だった。 ニーチェは『反時代的考察』(1873年-1876年)で、ダーフィト・シュトラウスや雑誌『グレンツボーテン』の執筆陣を教養俗物として批判し、『グレンツボーテン』もニーチェを批判した。雑誌『グレンツボーテン』の中心にいた作家グスタフ・フライタークは、皇太子フリードリヒ3世のブレーンであった。ニーチェは1875年に「粗野な力と鈍感な知識人」によるキリスト教が「諸民族にあった貴族主義的天才」に対して勝利したと批判し、またキリスト教はその「ユダヤ的性格」のため、ギリシャ的なものを不可能にし、古代ギリシャの範型が消滅したと論じた。1878年の『人間的な、あまりに人間的な』では「ヨーロッパをアジアに対して守護したのはユダヤの自由思想家、学者、医者だった」として、ユダヤ人によってギリシア・ローマの古代とヨーロッパの結合が破壊されずにすんだことについてヨーロッパ人は大いに恩に着なければならない、と述べた。1881年『曙光:道徳的先入観についての感想』では、ユダヤ人の美徳と無作法、反乱奴隷特有の抑えがたき怨恨について論じたあと「もしイスラエルがその永遠の復讐を永遠のヨーロッパの祝福に変えてしまうならば、そのときはかの古きユダヤの神が、自己自身と、その創造と、その選ばれた民を悦ぶことができる第七日が再び来るであろう」とユダヤ人に人類再生の希望を見た。 ヨーロッパ主義者であったニーチェは「反セム主義」を皇帝とビスマルクのドイツ帝国の下でのドイツ統一運動であるとし「国粋主義の妄想」「畜群」「奴隷の一揆」と批判した。さらにヨーロッパはユダヤ人に最善で同時に最悪なもの、すなわち「道徳における巨怪な様式、無限の欲求、無限の意義を持つ恐怖と威厳、道徳的に疑わしいものの浪漫性と崇高性の全体」を負うており「ユダヤ人がその気になれば(…)、いますぐにもヨーロッパに優勢を占め、いな、まったく言葉通りにヨーロッパを支配するようになりうるであろうことは確実である」と述べ、ユダヤ古代の預言者は富と無神と悪と暴行と官能を一つに融合し、貧を聖や友の同義語とするなど価値を逆倒し、道徳上の奴隷一揆をはじめたとも論じ、ユダヤ人を「ルサンチマンの僧侶的民族」とも評した。ニーチェはユダヤ教を古代の純粋なユダヤ教と、第二神殿以降の祭祀ユダヤ教とを区別し、新約聖書は祭祀ユダヤ教を体現したものであり、キリスト教と祭祀ユダヤ教は奴隷道徳を生み出したと批判し、古代の純粋なユダヤ教を称賛した。 ニーチェは、皇帝ヴィルヘルム2世が1888年にルター派教会を把握したことでリベラル・プロテスタントが国民主義の担い手となった結果、反ユダヤ主義が形成されたとみており、パウロの出自であるユダヤ人を称賛したのは、こうした背景があった。さらにニーチェはパウロや使徒によるイエスの神学化を嘘つきでイカサマ師であると非難した。 1888年9月の『アンチキリスト』では「ユダヤ人は人類を著しくたぶらかしたために、キリスト教徒は、自身このユダヤ人の最後の帰結であることを悟らずに、今日なお反ユダヤ的な感情を抱いている」と書いた。ポリアコフはこの箇所で、ニーチェは反ユダヤ的な方向へ屈折したとみている。オーバーベックはニーチェの反キリスト教は反ユダヤ主義から来ているとする。また、ニーチェの妹エリーザベト・フェルスター=ニーチェは夫のベルンハルト・フェルスターとともに反ユダヤ主義運動を展開し、のちにナチ党の支援者となった。
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