トライチュケ・グレーツ・モムゼン論争とは? わかりやすく解説

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トライチュケ・グレーツ・モムゼン論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)

反ユダヤ主義」の記事における「トライチュケ・グレーツ・モムゼン論争」の解説

ルター派歴史学者国民自由党議員ハインリヒ・フォン・トライチュケは、1879年発表した論文「われらの展望」で、ユダヤ人株式相場出版界支配するが、ユダヤ人ゲルマン人間との間には深い溝があり「ユダヤ人こそわれらが不幸」であり、寛容最良ドイツ人でも心の奥底はこうした見解共有していると論じた。「ユダヤ人は我々の不幸だ」というフレーズナチス時代にもよく引き合い出された。 この論文背景にはユダヤ教徒歴史家ハインリヒ・グレーツ存在があった。シオニズムに近いユダヤ民族主義者だったグレーツは大著ユダヤ人の歴史』でキリスト教を「宿敵「不倶戴天の敵」明確に敵視しユダヤ人キリスト教への改宗を「裏切り者」として厳しく批判した。グレーツは新約聖書タルムード使って読み直しユダヤ教とキリスト教亀裂拡大した。グレーツによればイエス神の子だと主張したために告発されたのであり、福音書メシア出現後知恵証明しようとした物語にすぎない批判したまた、タルムードイエスはヨセフ・パンデラと処女ミリアムとの不倫の子であり、ユダヤ共同体から追われ神の名用いて奇跡の力を学んだラビ団のユダ打ち負かされ死刑となったとされるが、グレーツはこれも作り話としてイエスユダヤ教エッセネ派であるとした。 トライチュケはグレーツの本はキリスト教対す狂信的な怒りゲルマン人への憎悪であると批判したトライチュケユダヤ人同化改宗による編入希求したが、改宗拒否したグレーツに対して「わが(ドイツ民族理解することも、また理解しようともしないオリエント人」と非難したトライチュケ人種主義者ではなかったが、ポーランドから流入する東欧ユダヤ人はいつかドイツ新聞株式支配するだろうと警告した実際ポーランドポーゼン)からの東欧ユダヤ人には、『ベルリナー・ターゲブラット』紙社長新聞広告業でモッセ・コンツェルンを築いたルドルフ・モッセ(弟アドルフ日本の憲法起草携わった)、国民自由党指導者エドゥアルト・ラスカー、経済学者アルトゥール・ルッピン、ゲルショム・ショーレム曽祖父がおり、そして歴史家グレーツがいた。 歴史家テオドール・モムゼントライチュケによって反ユダヤ主義品行方正なものとなったが、反ユダヤ主義国民感情堕胎であり、狂信的愛国主義であると評したモムゼンは『ローマ歴史』などでユダヤ人歴史を動かす酵母であり、ユダヤ人諸部族解体したことでローマ帝国建設貢献した評価し、またテオドール・フリチュやチェンバレンらのユダヤ人国民集団破壊者とする反ユダヤ主義に対して国民感情妖怪として批判した。しかし、そのモムゼンも、キリスト教文明同士をつなぐ唯一の絆であり、ユダヤ人キリスト教への改宗執拗なまでにすすめ、トライチュケ同じようユダヤ人ドイツへ融合同化)を願ったモムゼンは、ユダヤ人ドイツ人同化するには犠牲を払う必要があり、ドイツ文化友好的に参加すべきであるし、公民義務果たしユダヤ人特殊な作法廃すべきであるとした。モムゼンユダヤ民族主義者のグレーツを支持したわけではなくモムゼンはグレーツについて文芸界の隅っこにいる「タルムード学史編纂屋」にすぎず、ローマ帝国にいたユダヤ人歴史家ヨセフス哲学者フィロンとは比較ならないほど小さな存在であるのに、なぜそんな相手論争挑むのか、とトライチュケ戒めたモムゼントライチュケ同じく国民自由党所属していたが、トライチュケビスマルク支持した一方でモムゼンビスマルク国民統合破壊者とした。また、モムゼンはリベラル・プロテスタントの「反ユダヤ主義防衛連合」を創立したが、同連合ユダヤ民族主義シオニズム)に不快感表明しユダヤ信仰ドイツ国市民中央連合」を創設しシオニズム対抗した反ユダヤ主義防衛連合のアルプレヒト・ウェーバーは、ユダヤ人にも反ユダヤ主義についての責任があるとして、同化拒否するユダヤ人批判したシオニストヘルツルは、反ユダヤ主義批判しながらユダヤ人同化をすすめる反ユダヤ主義防衛連合に対して自尊感情持って最後避難所を見つけようとしているユダヤ人貶めようとしていると批判したトライチュケ論文対すユダヤ人知識人反応は、ユダヤ人はすでに同化しておりドイツへ愛国心保有しているというものが多く同化拒否するグレーツはヘルツルシオニズム登場するまでは例外であった新カント派ユダヤ系哲学者ヘルマン・コーエンユダヤ教信奉しながらも同化勧めユダヤ人は皆ドイツ人容貌備えていたらどれほど幸せであっただろうと常常感じていると主張したユダヤ人の平等を訴えてきた自由主義者ユダヤ人ベルトルト・アウエルバッハは晩年キリスト教社会党シュテッカードイツ保守党のハンマーシュテインによるユダヤ人批判に対して「私はドイツ人であり、ドイツ人以外の何ものでもなく、生涯全体通してもっぱらドイツ人であると感じてきた」「消え失せろユダヤ人、おまえはわれわれとは何の関係もない」と手紙書いた1880年代ドイツその他の思想 ベルリンでは1880年から1881年にかけて、暴徒ユダヤ人襲撃したり、ユダヤ人商店シナゴーグ放火するという暴動続いた19世紀末ドイツ反ユダヤ主義広めたのは学校教員学生公務員事務員、レーベンスレフォルム(Lebensreform 生活改革運動)、菜食主義者生体解剖反対論者裸体運動や自然復帰主義ナチュリストなどの都会人であり、田舎農民貴族大地主聖職者ではなかった。裸体運動では、ゲルマン人種と、ロマンス人種スラヴ人種・ユダヤ入種との婚姻禁止された。 反ユダヤ主義が高まるなか哲学者ニーチェユダヤ人に対して繰り返し称賛感謝表明し反ユダヤ主義者を「絶叫者ども」と批判した。ただし、ニーチェ若い頃には反ユダヤ的な偏見持っており、ワーグナーの手紙ではドイツ豊かな世界観が「哲学上の狼藉押しの強いユダヤ気質」によって消え去った嘆いたこともあったし、東欧ユダヤ人ドイツ流入には後年でも反対だったニーチェ『反時代的考察』(1873年-1876年)で、ダーフィト・シュトラウス雑誌『グレンツボーテン』の執筆陣教養俗物として批判し、『グレンツボーテン』もニーチェ批判した雑誌『グレンツボーテン』の中心にいた作家グスタフ・フライタークは、皇太子フリードリヒ3世ブレーンであったニーチェ1875年に「粗野な力と鈍感な知識人」によるキリスト教が「諸民族にあった貴族主義的天才に対して勝利した批判し、またキリスト教はその「ユダヤ性格」のため、ギリシャ的なものを不可能にし、古代ギリシャの範型が消滅した論じた1878年の『人間的なあまりに人間的な』では「ヨーロッパアジアに対して守護したのはユダヤ自由思想家学者医者だった」として、ユダヤ人によってギリシア・ローマ古代ヨーロッパ結合破壊されずにすんだことについてヨーロッパ人大い恩に着なければならない、と述べた1881年曙光道徳的先入観についての感想』では、ユダヤ人美徳無作法反乱奴隷特有の抑えがたき怨恨について論じたあと「もしイスラエルがその永遠復讐永遠ヨーロッパ祝福変えてしまうならばそのときはかの古きユダヤの神が、自己自身と、その創造と、その選ばれた民を悦ぶことができる第七日が再び来るであろう」とユダヤ人人類再生希望見たヨーロッパ主義者であったニーチェは「反セム主義」を皇帝ビスマルクドイツ帝国の下でのドイツ統一運動であるとし「国粋主義妄想」「畜群」「奴隷一揆」と批判した。さらにヨーロッパユダヤ人最善同時に最悪なもの、すなわち「道徳における巨怪な様式、無限の欲求、無限の意義を持つ恐怖威厳道徳的に疑わしいものの浪漫性と崇高性の全体」を負うており「ユダヤ人がその気になれば(…)、いますぐにヨーロッパ優勢占め、いな、まったく言葉通りヨーロッパ支配するようになりうるであろうことは確実である」と述べユダヤ古代預言者は富と無神と悪と暴行官能一つ融合し、貧を聖や友の同義語とするなど価値を逆倒し道徳上の奴隷一揆はじめたとも論じユダヤ人を「ルサンチマン僧侶民族」とも評したニーチェユダヤ教古代純粋なユダヤ教と、第二神殿以降祭祀ユダヤ教とを区別し新約聖書祭祀ユダヤ教体現したものであり、キリスト教祭祀ユダヤ教奴隷道徳生み出した批判し古代純粋なユダヤ教称賛したニーチェは、皇帝ヴィルヘルム2世1888年ルター派教会把握したことでリベラル・プロテスタントが国民主義担い手となった結果反ユダヤ主義形成されたとみており、パウロ出自であるユダヤ人称賛したのは、こうした背景があった。さらにニーチェパウロ使徒によるイエス神学化を嘘つきイカサマ師であると非難した1888年9月の『アンチキリスト』では「ユダヤ人人類著しくたぶらかしたために、キリスト教徒は、自身このユダヤ人最後帰結であることを悟らずに、今日なお反ユダヤ的な感情抱いている」と書いた。ポリアコフはこの箇所で、ニーチェ反ユダヤ的な方向屈折したとみている。オーバーベックはニーチェ反キリスト教は反ユダヤ主義から来ているとする。また、ニーチェの妹エリーザベト・フェルスター=ニーチェは夫のベルンハルト・フェルスターとともに反ユダヤ主義運動展開し、のちにナチ党支援者となった

※この「トライチュケ・グレーツ・モムゼン論争」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
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